第四十三話:転機来る

「そんな誇りを失った大名家なんて、藩なんて、世のため人のためさっさと滅んでしまえばいいんだ!」

 その発言を耳にするや否や、姉倉玄蕃は目を見開いて絶句した。

 いや、玄蕃だけではない。

 君主である頼時も、彼に仕える藩士どもも、そして葵と頭白の両名も、その瞬間、まったく同様にすべての言葉を失ったのである。

 さもあろう。

 たかだかいち個人に過ぎない市井の男が、いやしくも幕府より一国を任された大名家に対し、面と向かって「滅んでしまえ」とまで言ってのけたのだ。

 それは厳然たる体制批判、いわば徳川家を頂点とする現状の幕藩政治それそのものへの明確な反逆表明に等しい。

 整った秩序をあえて真っ向から打ち砕こうとするその思想は、あたりまえに疑うことなくこの時代を生きてきた者たちにとって、到底許容されるべき筋合いのものではなかった。

 ましてや支配階級たる武士の家に生まれ育った人間にとってなら、それはもうなおさらのことだ。

 玄蕃の肩が小刻みに震え始めた。

 ただでさえ沸点に近付いていたその怒りが瞬く間に頂点を突破し、肉体への影響を直接行使し始める。

 間を置かず、その目の奥に峻烈なまでの炎が宿った。

 彼は大きく口を開け、藩士たち目がけて決定的な命令を放とうと試みる。

 いますぐにこの不届き者を斬り捨てよ、と。

 しかし、次の刹那に放たれた呵々大笑がそれを阻んだ。

 飛騨高山藩主・金森頼時が発した腹の底からの笑いだった。

 張り詰めた場の空気を一刀両断するがごとき勢いで、彼は声を限りに笑い続ける。

 なんと。

 殿は狂でも発しなさったのか?

 唐突に一国の領主が見せたこの奇行に対し、周囲にいる者すべての視線が、文字どおり音を立てんばかりに集中した。

 頼時がおもむろに哄笑を収めたのは、ちょうどその瞬間の出来事だった。

 もしや、初めからこのような流れの変化を狙っていたのだろうか。

 そのことを疑わせる絶好のタイミングでもって、彼はケンタに向かって言葉を送った。

「よくぞ、そこまで大言壮語できたものよ」

 声を弾ませながら頼時は告げた。

「おのれの首などもとよりいらぬとでも言いたげな顔付きだ」

 それはいかにも軽口めいた調子であったが、発言する彼の目は断じて笑ってなどいなかった。

 直後、両肩に自国のすべてを背負い込むひとりの男の眼差しが、視界内のとある一点目がけて叩き付けられる。

 それは言うまでもなく、眼下にて屹立する巌のごとき大男、古橋ケンタの双眸へと向けられていたものだった。

 幕府側用人として江戸城に仕えた際、その持って生まれた剛毅さゆえに五代将軍・徳川綱吉の手を幾度も焼かせた若き藩主の熱視線が、遮るものなくケンタの瞳を貫いた。

 並大抵の心肝では到底正面から受け止め切れまい。

 左様に思えるほどの圧力を、放たれたそれは含有していた。

 一分の妥協も微塵の遠慮も、その中にはいっさい盛り込まれてなどいなかった。

 とてもではないが、篤い病を得た者のそれとは思えない代物だった。

 だが、ケンタはそんな眼差しをさも当然とばかりに受け止めた。

 わずかもまなこを反らすことなく、逆に向かってきたそれを押し返さんとしておのが眼光をぎらつかせる。

 その輝きは、明らかに虚勢からくるものではなかった。

 もしこれが上辺だけを繕った空威張りであれば、これほど精気に充ち満ちているはずもない。

 最高権力者征夷大将軍の側で政治的な魑魅魍魎の類いを嫌と言うほど目にしてきた頼時にとり、それはまさしく一目瞭然の事実だった。

 彼は理解し、おのが結論を心の中で噛み締めた。

 なるほど、これはつわものだ。

 はっきりと口の端を綻ばせつつ頼時は思った。

 自分自身に言い聞かせるよう、胸の内にて言葉を紡ぐ。

 だが、古橋ケンタ。

 その程度のごときで、私はそなたを誉めなどせぬぞ。

 そもそも、おぬしが左様な男でなければ、この私が困るのだ。

 葵を、我が姪を、いまは亡きあの者が娘をそのほうに託し、それでいて万が一後悔するような結末と相成っては、あとあとになって死んでも死にきれぬであろうからな。

 ゆえにである。

 もうひとたび、もうひとたびで構わぬ。

 その心根の意気地を我が眼前にて晒して見せよ。

「いいだろう。その胆気に免じて、葵はそなたに返してやろう」

 わざと偽悪的な口調を用いて、頼時はきっぱりとケンタに告げた。

 それを聞いた玄蕃の表情がたちまちのうちに狼狽の色で染まり、葵は逆にその満面を溢れんばかりの喜びで輝かせた。

 しかし頼時は、そんなふたりの変化などどこ吹く風と言った面持ちで、なおも悪党めいた台詞を語る。

 なんとも憎々しげな口振りで彼は言った。

「無論、ただでというわけにはいかぬぞ、古橋とやら。この葵は、かけがえのない我が姉の子、私にとっては大事な姪にあたる紛れもない金森が娘だ。それを返せと申すにあたり、我が家が受け取る献上品が口上のみというのでは、そなた、これはいささか釣り合いの取れぬが道理とは思わぬのか?」

 「あなたがこの城の殿さまか?」と頼時に向けひと言確認を入れたのち、ゆるりと一度頷きながらケンタは泰然たる面持ちでこれに答えた。

「その言い分はもっともだと思う。だから俺のほうからは、この件であなたに取引を申し入れたい」

「取引だと?」

「そうだ」

 やや横柄に胸を反らしてケンタは告げた。

「この俺がそこに立ってる白髪の御坊──頭白さんと正々堂々一対一の仕合をして、もしそれに勝つことができれば、そちらは葵さんのことを無条件で諦めて自由にする、というのはどうだ?」

 次の刹那、ケンタの視線がほんのわずかの間だが疑うことなく頭白を差した。

 明らかに戦う者の矜恃がこもった、それはそれは一直線な眼差しだった。

 果たし状だ。

 これは果たし状に違いない。

 武人としての頭白の本能が、瞬時にその結論を導き出した。

 彼は間違いなく自分との再戦を求めている。

 あの古橋ケンタが、たまさかの邂逅を果たした文字どおり本物の男が、不本意だった以前の立ち会い、その復仇を果たすべく、改めてこの自分と雌雄を決せんと欲している!

 そのことを精神ではなく肉体が認識できた時、頭白の背筋は痛みを感じさせるほどに脈動した。

 それはまさしく、純粋な歓喜が呼び起こした震えだった。

 ひとりの武芸者として胸の高鳴りを禁じ得ない。

 その感情が否応なく顔の造作へ滲み出た。

 続けざまに口元が吊り上がり、頭白の面相は歯をむき出しにした異形の笑顔を形成する。

 それはあからさまな肉食獣の破顔であった。

 頭白はこれと似たような覚えを、ケンタがその素顔を晒した瞬間にも強く感じていた。

 その時の彼は、それが自ら死を与えたも同然と悔やんでいた存在、その予期せぬ生還によって引き起こされたひととしての喜びなのだと信じていた。

 だが違っていた。

 本質的な部分でそれを誤解していた。

 頭白は、いまはっきりとそのことを知った。

 おのれは、この者の生還そのものを喜んでいたのではない。

 もちろん、その気持ちがなかったというわけではないが、それは断じて感情の骨子などではなかった。

 彼は悟った。

 自分は、この男と改めて立ち会える可能性に歓喜したのだと。

 互いに武技を修めた者同士、今度こそ嘘偽りなく仕合うことのできる機会を得たことに心の底から狂喜したのだと。

「願ってもないこと!」

 もしこれが頭白個人に関わる問題であるならば、この時、彼は間違いなくそのように答えていたことだろう。

 自らが好敵手と認める男からの挑戦を、真っ向から受けて立っていたことだろう。

 だが不幸なことに、この白髪の僧侶はいま互いに論じられている問題に対しての直接的な当事者ではなかった。

 それどころか、単なる第三者として自論を述べることすら許されてはいなかった。

 彼は、石段の上で彼の前後に立つ三名の人物、それらの運命に触れる機会を得ただけの、ひとの形をした一種の道具に過ぎなかったのだ。

 その事実を不本意ながらこの男に知らしめたのは、直後に発せられた姉倉玄蕃の怒声だった。

 鷲鼻の家老は、あたかも頭白なる人物など端からこの場に存在していないかのような態度を取りつつ、当事者の片割れたるケンタ目がけて言い放った。

「莫迦なことを申すな!」

 大きく右腕で宙を薙ぎながら、怒りにまかせて玄蕃は叫ぶ。

「柳生蝶之進との仕合に勝てば我が義娘をよこせ、だと。そんなたわけた勝負事に、何ゆえこちら側が応じてやらねばならぬのだ! そのような勝負事に応じて、いったいこちらにいかなる利があると申すのだ!」

 なおも狂ったように怒鳴り散らす玄蕃に対し、ケンタが冷ややかな視線を送り込んだのは、それよりひと呼吸置いてからの出来事だった。

 あるいはその効果を意識してのものであろうか。

 小さな嘲笑を口の端に浮かべつつ、彼は実に淡々とそれに応じた。

 短く、しかし同時にこの上なく確かな言葉で、玄蕃に向けてケンタは告げる。

「いまあなたとは話していない。黙っててくれないか」

 その発現を耳にした玄蕃の表情が、「なっ!」という言葉にならない言葉とともにたちまち色を失っていく。

 肥大化した自尊心を傷付けられたことで激高し、さらなる悪口をもってこちらに噛み付こうとしてくる鷲鼻の家老。

 しかしそんな彼を頭から無視しきったケンタは、ただ頼時だけに対しておのが要求を口にした。

「殿さま。あなたからの返答を直に伺いたい。是か非か。あなたも一国の領主なら、この場ではっきりと答えられるはずだ」

「面白いことを言う」

 言いながら、若き藩主はにやりと笑った。

「では、その仕合におぬしが負けた場合はいかとする? いったい何をもって我が方への支払いをいたすつもりだ?」

「この俺を煮るなり焼くなり好きにすればいい」

 おのれの命をくれてやる。

 こともなげにケンタは言い切った。

 その口調にためらいの気配は微塵もなかった。

 もとより、その覚悟であったのだろう。

 いやそうでなければ、そもそもなく領主の城へ直談判に及ぶなどという暴挙に出られるわけもない。

 まったく、見事と言うしかない大莫迦者だ。

 その回答は、頼時の思いを十分満足させるものだった。

 彼はおもむろに表情を緩め、小さく数度頷いた。

「よかろう」

 それが藩主としての返事だった。

 少なくとも、彼は左様な答えを返すべく唇を動かそうと試みた。

 だが、そういった頼時の意志が実際の言葉としての体を成すことはなかった。

 それは、城代家老として藩の内政を取り仕切る重臣・姉倉玄蕃が両者の会話に無理矢理割って入ったからだった。

「なりません。断じてなりませんぞ、殿!」

 身体ごとおのが主へと振り向き、怒気を強めて玄蕃は言った。

 その口振りは、もはや進言や忠告というよりは叱責や命令にすら近い色合いを秘めていた。

 事実、君主たる頼時の意向をおのが舌でもって蹂躙し尽くすかのように、この鷲鼻の家老は激しい言葉で畳みかける。

 彼は告げた。

「殿! 仮にも一国の主たる御方が、このような戯言に応じようとは何事でござる。それでも、我が高山藩三万八千石を戴く君であられるおつもりか。それでも、飛騨金森家の御当主であられるおつもりか。斯様卑賤な者との取引に及ばんとは、まったくもってあってはならぬ話でござる。殿は、この飛騨金森の百年に渡る輝かしい歴史に恥ずかしげもなく泥を塗るおつもりでございますのか? 長近公より続く栄えある家名を汚すおつもりでございますのか。ご自重なされませい!」

「口が過ぎるぞ、玄蕃。家臣の身でありながら、この私が決めたことに従えぬとでも申すつもりか?」

「左様にござる」

 おのが主君から強い口調でたしなめられてもなお、玄蕃は自説を貫いた。

 むしろ道を誤った主人に弾劾を加えるかのごとき厳しさで、彼は頼時を追い詰める。

「殿。殿は勘違いをなされておりまする。この飛騨高山は、殿が持ち物であると同時に、殿が持ち物ではありませぬ。この飛騨金森にしても、殿が持ち物であると同時に、殿が持ち物ではありませぬ。殿。殿は我らが御領主であり金森が統領であると同時に、この飛騨高山、この飛騨金森という社稷に仕える、いわば第一のしもべなのでありまするぞ。

 ゆえにこそ、藩の主たる殿はおのれを捨て、手中の公に従わねばならぬのでござる。私としての心を捨て、手中の公に尽くさねばならぬのでござる。それがまことの君のあるべき姿であり、我らが望む主の姿なのでございます。我らが期待を、民草の期待を、御一族の期待を、殿御自らの意志でもって裏切ってはなりませぬ。

 もしいま殿が胸中の我を通し、そこにいる卑しき武芸者の言を採ろうとなさるのであれば、よろしい、それがしを初めとする飛騨の重臣並びに金森が一族の方々がそろってその旨に異を唱えることでありましょう」

 正論をもって語られた玄蕃の主張に、藩主・頼時は思わずたじろぎ息を呑んだ。

 ただし、その言葉自体に気押されたわけでは決してない。

 彼は、いま目の前の重臣が口にした言、その裏にある真の意志を知り、その現実に恐怖したのであった。

 頼時の耳には、玄蕃がこう言っているように聞こえたのだ。

 すなわち、「傀儡の君主は黙っていろ。残り少ない余生、自分たちの言うことをただ聞いておればそれで良し。さもなくば、この手でその席から引きずり下ろすぞ」と。

 彼は、病に倒れた自分がもはや藩の実権を左右する力を失っていることに、とうのむかしより気付いていた。

 政とは、いわば国にとって心臓のようなものだ。

 滅びの道を歩みたくないのならば、一日たりともその営みを止めることはできない。

 されど、病み衰えた頼時の身体ではその激務に耐え得ることなど到底望めなかった。

 だからこそ彼はおのれの立場を甘んじて受け入れ、家臣どもが担ぎやすいようあえて軽量な神輿の役を意識して演じてきたのだった。

 しかし、しかしである。

 よもやそのことが、これほどの結末を導くことになろうとは露ほどにも思わなかった。

 聡明であることについて誰疑うことのない頼時にして、まさか君主の威光をすら毛ほどにも感じぬ家臣がおのれの側に出現しようとは、まったく想像の範疇にないことであった。

 それは、間違いなく頼時自身の若さがもたらした結果だった。

 彼は、過去の歴史に存在する数多有能な君主たちと比べて、まだまだ未熟に過ぎたのだ。

 人間というものが、ひとたび欲望に突き動かされた人間というものが、どれほど邪悪で不道徳な事柄に手を染められるのかを完全に見誤っていたのだ。

 なんということだ。

 頼時は絶句した。

 葵を、自らの姪を、愛した女の産んだ娘を救ってやりたい、血の戒めより解いてやりたいと目論んだ企みがもろくも瓦解していく様子を、彼はその脳裏に思い浮かべた。

 彼は眼前に展開する場の流れを巧みに利用し、君主たるおのれの公言を盾にそれを実施しようと試みた。

 家臣団や一族の者が内心で何をどのように思おうとも、建前上、藩主の意志を表だってないがしろにすることはあるまいと高をくくっていたのだ。

 その前提にあったものは、彼らに対する信頼だった。

 奇妙な話だが、頼時は自身に仕える者たちがそれなりに賢明であり、それゆえ世の道理に従って行動するものだと心から信じ切っていたのである。

 だが、その前提が崩れた。

 姉倉玄蕃という秩序を超越した強欲者が、その前提を力業で突き崩した。

 唇を震わせ、若き藩主は傍らにいるおのれの姪に目を遣った。

 少女は、青白く血の気が引いた顔付きでおのが叔父を見上げていた。

 頼時は、不安に揺れるその瞳に向け心中にて頭を垂れることしかできなかった。

 すまぬ。

 無力な私を許してくれ──と。

 そんな主の様子を迅速に察した鷲鼻の家老がたちまち表情を一変させた。

 それはまさに、勝利を確信したことによる余裕の笑みだった。

 彼は改めて藩主に対して背を向けると、つい先ほどまでとは打って変わった堂々たる態度でもって眼下に集う藩士たちへと命を下した。

「そこにいる曲者どもを引っ捕らえよ」

 声を張り上げ玄蕃は告げる。

 音を立てて藩士たちが動き始めたのは、その直後のことだ。

 槍先が、刺股の先端が、明確な敵意を備えてケンタと鼓太郎に向けられる。

 よく訓練された人の壁が、じわりじわりとふたりに迫る。三方向を固めた半包囲体勢。

 唯一開けられている先には、本丸を守る石垣が確固たる姿で立ちはだかっている。

 まさに、蟻の這い出る隙間もないとはこのことだった。

 魔法を使って空でも飛ばない限り、この場を逃れることなどできそうにもなかった。

 「し……師匠」と、いまにも泣き出しそうな声を出す鼓太郎と背中を合わせて立ちながら、それでもなおケンタの眼光は諦めの二文字を断固として拒否し続けていた。

 諦めたら負けだ。

 諦めさえしなければ、諦めという結論を自ら承りさえしなければ、必ずや違った未来が訪れる。

 だからいかなる窮地に及んでも、見苦しいまでにあがき、押し寄せる絶望に力一杯抵抗する。

 それが、「おとこ」としての責務であり、なんとしても整えるべきたったひとつの体裁だ。

 たとえそれが百万分の一の成功確率しかなくっても、百万分の一は断じてゼロパーセントでありはしない!

 藩士たちの持つ諸々の長柄がケンタ目がけて突き出されてきたのは、彼がそんな風に腹をくくった、まさにその次の刹那の出来事だった。

 先陣を切ったのはU字型の先端金具を備えた捕り物用の長柄──刺股だ。

 ケンタに向かって伸びてきたその本数は、およそ片手の数ではきかなかった。

 それでも彼は、鍛え上げられた太い腕を振り回し、それらを次々と払い除ける。

 柄の部分に付けられた鋭い刺や金具の先が、着物の上からでも容赦なくその肌を切り裂いた。

 しかし、ケンタは一向に気にする様子をうかがわせない。

 脳内に溢れかえった興奮物質が、一時的にしろ彼の身体から痛覚というものを奪い去っていた。

 その有様は、あたかも多数の猟犬に飛びかかられるヒグマのごときであった。

 狩人たる姉倉玄蕃は、にやにやと相好を緩めつつ石段の上からそれを眺めている。

 いかに人並み外れた膂力の持ち主であろうとも、それが人間である以上、数の暴力に対してはいずれ敗北を喫するほかはない。

 そのことを、この鷲鼻の男ははっきりと認識していた。

 確かに数十人に及ぶ藩士たちを相手に善戦するケンタも、客観的に見ればこれが防戦一方であることに疑う余地はなかった。

 反撃のため、刺股を払い除けた隙を利用し彼らの内懐にその身を押し込もうと試みても、隙間を埋める槍の穂先がそれを許しはしなかったのである。

 くそっ。

 内心で激しい焦りを覚えつつ、ケンタは賢明におのれの頭脳を回転させた。

 何かないか。

 何か利用できる状況はないか。

 何かこの事態を打破できるきっかけはないか。

 だが、何も見付からなかった。

 何も思い付かなかった。

 もしあえて救いの要素を見出すとするならば、それは藩士たちが自分たちを殺害しようとしているわけでないことぐらいだった。

 仮に彼らが初めから自分たちの殺傷を目的としていたならば、いまごろはその槍先によってふたり分の死体がこの場にこしらえられていたことだろう。

 その結末を予想するのは、実に容易いことだった。

 ちらり、と石段上にいる葵の姿を顧みるケンタ。

 その瞳に映った彼女の姿は、まこと心許なげなものだった。

 その心配の対象がまさにいまの自分たちであることを確信し、彼は声には出さず少女に告げた。

 大丈夫です。

 俺は必ず、必ずあなたのことを助けてみせます。

 だからそんな顔しないで、いつもみたいに笑って待っていてください。

 それは、まったくもって根拠のない、いわば戯言に近い台詞だった。

 しかしケンタは、自ら発したその言葉を心の底から信じきった。

 まるで自分自身に誓いを立てるかのごとく、自分自身の心の声で自分自身を追い詰めた。

 典型的な自己暗示であった。

 逆説的に言えば、そうするほかないほどにいまの彼は追い詰められていたのだった。

 されど、それは間違いなくひとつの要素だった。

 無邪気なまでに自分の力を信じきること。

 おめでたいほどに自分の未来を信じきること。

 それは時として何物にも勝る、ひとの心を強く支える絶対無比の材料だった。

「師匠!」

 悲鳴に近い鼓太郎の声がケンタの耳を打ったのは、もはや数え切れないほど繰り返された藩士からの攻撃を彼が改めて退けた、ちょうどその瞬間の出来事だった。

 ケンタが肩越しに振り向いた先で、藩士たちの刺股が少年の肉体を地面の上に押さえ付けようとしていた。

 年端もない子供相手になんとも大人げないことだ、と見る向きもあるだろう。

 おそらくそれは、藩士たちができることなら無視したかった鼓太郎の身体を張っての抵抗が、彼らの予想を上回るものであったからに相違なかった。

 いわば、鼓太郎の努力が別方向に実を結んだ結果と言えなくもない。

 しかしながら、素人が扱うわけではない得物、しかも複数本のそれを相手に、徒手空拳の少年がまともな抗戦を行えるはずなどなかった。

 決して大柄とは言えない鼓太郎の身体はたちまちのうちに屈服させられ、藩士たちの手によってその身に縄が掛けられる。

 当然の結末だった。

 手もなく捻られるとは、まさしくこのことだろうと思われた。

「鼓太郎!」

 愛弟子の身に降りかかったあたりまえの現実を目の当たりにして、ケンタは思わず叫び声を上げた。

 ほとんど反射的に腰を捻り、これを助けに行かんと足を運ぶ。

 だがそれは、誰の目から見てもあまりに無謀極まる行為だった。

 彼は、新たな状況に衝動的な対応をしてしまったことで、それまで対峙してきた敵に自ら背を向けるという選択をしてしまったのである。

 およそ隙と呼ぶのもおこがましいその失策に、藩士たちは喜び勇んでつけ込んだ。

 複数の荒縄が宙を舞い、あたかも生き物のようにケンタの首へと絡みつく。

 反射的に左腕を突っ込み、そのことでなんとか喉の閉まるのだけは阻んだケンタだったが、それは同時におのが片腕をも拘束する結果を彼の身の上にもたらした。

 しまった、とケンタがおのれの行動を後悔する暇もあろうか、藩士たちが四方より新手の縄を投げかけてきた。

 さながら蜘蛛の巣に絡め取られたいなごのごとく、巨漢の四肢はそれらによってたちまちのうちに召し捕られてしまう。

 まともな抵抗を図る機会さえ与えられなかった。

 続けざまに、無数の刺股が前後左右より繰り出された。

 U字型の金具が、身体の各所、ことに関節部分を狙い撃つ。

 膝裏への一撃を受けたケンタの左脚が音を立てて地に屈した。

 複数の刺股が背後から彼の首と肩とを制圧したのは、その直後のことだ。

 ぎらりと輝く槍の穂先が、それらを支援せんとばかりにケンタ目がけて突き付けられる。

 ここからの逆転などまず考えることができないほど、まさにそれは絶体絶命な状況だと断言できた。

「どうしたどうした古橋とやら」

 勝ち誇ったように玄蕃が吼えた。

「この伝統ある飛騨金森に対し『滅んでしまえ』とまで言い切った分際で、いったいなんじゃ、そのざまは。身の程を知らぬとは、まさにまさにおぬしのことよ。しょせん武芸者のごとき卑賤なともがらに、天はその程度の末路しか与えようとはせぬのじゃ。

 どうじゃ、此度はその身をもって得難き学びができたであろう? 何か言いたいことがあれば、遠慮することなくこの場で申してみるがいい。せめてもの情けじゃ。わしが直々に、この耳にて聞き届けてくれようぞ」

 侮蔑の視線と高笑いとが、囚われの身となったケンタの頭上に降り注ぐ。

 玄蕃の目は明らかに、自己を満たすべき何物かをこれからケンタが見せるであろう態度の上に求めていた。

 それは服従と観念。

 そう、彼は彼自身がおのれの力と信じるその前に、いま眼下にて片膝をつく大男が心底から屈服するさまを現認したくてしたくてたまらなかったのである。

 何が武人だ。

 何が武芸者だ。

 にやにやと嫌らしい笑みを浮かべて玄蕃は思った。

 おのが手で、立ち合うた敵を倒す力。

 おのが手で、立ちはだかる困難を越える力。

 左様なものが、この現世うつしよでいったいなんの役に立つというのだ。

 力とは、すなわち権力ちから

 力とは、すなわち財力ちから

 おびただしい汗を流し、おのれの肉体を極限まで痛めつけた果てに獲得できる肉の力など、我の得たそれら真の力を前にしてはもはや蟷螂の斧とすら呼べぬ。

 たとえ誰がなんと言おうとも、それこそが現実まことだ。

 それこそが真実まことなのだ。

 思い知れ。

 跪け。

 怯え、戦慄き、命乞いをせよ。

 直面した無様な敗北とおのれの立場とを素直に受け入れ、この偉大なる姉倉玄蕃にすべてを賭して許しを請うて見せるのだ!

 それはまさしく、狂おしいまでに強烈無比な承認欲求の表れだった。

 次いで彼の双眸から、どろりとした粘液質の眼差しがケンタ目がけて放たれる。

 自身の圧倒的な優越を背景とする、なんとも嗜虐的としか言いようのない、ある種の妄執を孕んだ眼光だった。

 殺気に等しい「殺し」の念波と言い換えても、あながち間違いではなかっただろう。

 ケンタの両眼りょうがんがそんな代物と真正面から激突したのは、次の瞬間の出来事だった。

 見えない火花が、互いの中間点にて音を立てんばかりに炸裂する。

 まったくもって絶望的としか言いようのないこの状況下。

 まともな精神の持ち主であれば、とてもではないが正気を保っていられようはずがなかった。

 たちまちのうちに心を折られ、自己の生存本能に従って必死になって我が身の保全を図っていたに相違なかった。

 だが、だがそれでもなお、彼の瞳は一歩たりとも退しりぞかなかった。

 あろうことか、彼の魂は断固として襲い来る絶望を拒否し続けていた。

 その表情からは、この期に及んでなお一向に生気が失われようとしていない。

 むしろ、より一層その輝きを増しているような趣さえある。

 そう。

 古橋ケンタは端からおのれが背水の身であることを、誰よりもはっきり認識していた。

 引き返すことなど許されぬ道へと進んだ我と我が身とを、誰よりも深く知悉していた。

 ひとたびおのれの意志で選んだ以上、それに殉じることこそが何にも増して優先されるべきなのだと、誰よりも確かに信じていた。

 彼は無言のまま訴えていた。

 おのが背にその夢を背負うと決心したたったひとりの少女秋山葵に向かって、彼はひと言も発することなくただ全身全霊でもっておのれの意志を主張していた。

 葵さん、俺は大丈夫です。

 俺は、こんな奴には絶対に負けません。

 絶対に負けません。

 ケンタが放つその歯の浮くような言明に、裏付けなどというものはこれぽっちも備わってなどいなかった。

 むしろその言い分は、ただ心中の妄想をほざいているだけと見て取るほうがよほど真実に近かったことだろう。

 それは紛れもなく、非合理的なロマンチズムのひとつと評すべきものだった。

 幼稚で、愚かしく、そしてなんら建設的でないその思考。

 だがまさにそれだからこそ、その純粋極まる決意の発露は、玄蕃の理解を完膚なきまでに越えていた。

 この現世欲に凝り固まった鷲鼻の家老は、ケンタが見せる不撓不屈の有様を彼の仕える彼だけの女神に捧げる忠誠の証としてではなく、おのれに対する無礼千万な反抗心の表れとしてしか受け取ることができなかった。

 おのれ。

 憎悪の光が玄蕃の両目に揺らめいた。

 おのれ、おのれ、おのれ。

 おのれ、古橋ケンタ。

 まだ、このわしに逆らうというのか。

 まだ、このわしに従わぬというのか。

 まだ、このわしを恐れぬというのか。

 ならばよい。

 ならば、このわしは意地でもそのほうに覚えさせてくれようぞ。

 犬のようにのたうち回り、鳥のように泣き叫ばせてくれようぞ。

 誓ってそうしてくれようぞ。

「恵一郎!」

 どす黒い感情のおもむくまま、大声で玄蕃は命じた。

「その者を、この場にて痛めつけよ。おのれの身の丈というものを、その男の身体にわからせてやるがいい」

 この予期せぬ命を授かった年配の武者奉行は、咄嗟にその表情を歪ませた。

 それは、あからさまな不快の表情だった。

 さもあろう。

 生来の武士にとり、虜となった者に不必要な暴力を加えることは「降り首」と同じく、いわば「恥」として数えられるもののひとつであったからだ。

 ゆえに、いま放たれた玄蕃の言は栄誉ある職に就くひとりの武士に、面と向かって「恥をかけ」と命じているに等しかった。

 だが、「御家老、それは──」と思わず翻意を促す恵一郎を、鷲鼻の重臣は「黙れ」のひと言でもって叱りつけた。

 有無を言わせぬ態度でもって彼は告げる。

「恵一郎。これは命令じゃ。命令なのじゃ」

 城代家老としての地位をもって下された令に対し、忠直な性質を持つ恵一郎はおのが意に反しても従わざるを得なかった。

 それがどれほど心を痛める行為であろうとも、主持つ武士たる者として幼少より厳しく躾けられてきた彼にとり、上位の役職からの下達はいわば絶対の価値を持つも同様だった。

 「御免」と短く断りを入れるや否や、恵一郎はケンタの顔面に石のごとき拳を遠慮仮借なく叩き付けた。

 一発、二発、三発──肉と肉、骨と骨とがぶつかり合う鈍い音が、あたり一面に響き渡る。

 無抵抗でそれを受けるしかないケンタの顔が、連続する打撃を前にみるみるうちに変貌していった。

 まぶたが腫れ、鼻血が滴り、唇が裂けた。

 されど、その眼に宿る爛々とした輝きだけは依然として陰るようなことはなかった。

 玄蕃はそれが疎ましかった。

 断じて許すことができなかった。

 なんとしてもその光を消し去ってやろうとばかりに、改めて藩士たちへと下令する。

「まだじゃ。まだ手ぬるい。他の者も手を貸してやれい!」

 ケンタへの制裁に新手の者たちが加わった。

 複数の藩士たちが、その肉体目がけて得物の尻を打ち付ける。

 より凄惨さを増した私刑リンチが、皆々の眼前で展開を始めた。

 とても見てはおられぬと、目を背け出す者さえ現れだすほどの有様だった。

 葵もまた、その例外ではいられなかった。

 ケンタの肉体が意図せぬ悲鳴をあげるたび、身を切るような罪悪感が彼女の心を切り裂いていく。

 私のせいだ。

 私のせいだ。

 私さえいなければ、あの方があのような目に遭うことなどなかったのだ。

 いっそ、いっそのこと、この身を消し去ってしまいたい。

 年若き者らしい潔癖感でおのれを責める葵は、しかし次の刹那、わずかな違和感を覚えたことでその意をたちまち新たにした。

 一方的な暴力に晒されているケンタが、しかし歯を食い縛りながらただ一言の苦悶の声すらあげていないという事実に、この時、彼女ははたと気付いたのであった。

 古橋さまは戦っておられるのだ。

 反らした視線を改めてケンタへと向け直し、葵は唇を真一文字に引き締めた。

 古橋さまはいまなお戦っておられる。

 誰のためにでもない。

 この自分のために、その身を傷付け赤い血を流してまで戦っておられる。

 なのに、肝心要な自分自身が率先して戦場から逃げ出して、いったいどうしようというのだ。

 それは、あの方の戦いを、あの方の献身を、まったくの無駄としてしまう極めつけの愚挙ではないのか。

 葵は、あの河原での出来事を忘れてなどいなかった。

 おのれの無力さゆえに、想い人へ加えられる理不尽な陵辱を為す術なくただ座視するしかなかったあの経験を、彼女は到底忘れることなどできなかった。

 葵にとって、まさしくこれは雪辱戦だった。

 今度こそ、自分があの方を救う一助となるのだ。

 そこに具体的な根拠などなくとも、そんな健気な志が彼女のすべてを支配するのに要する時間は、ほぼ完全にゼロであった。

 葵の足が、強い意志を伴って石段を駆け下りようと繰り出された。

 それがあの私刑の輪に飛び込み自ら想い人に加勢せんとする試みであることに、疑う余地などどこにもなかった。

 だが、直前でそれを阻んだ者が出た。

 頭白だった。

 彼は振り向きもせず左手を伸ばし、それをもって葵の行く手をその眼前にて遮った。

「頭白さま!」

 葵は叫んだ。

 言うまでもなく抗議の叫びだった。

 きっ、と鋭い視線が頭白の背中に突き刺さる。

 その眼差しの奥に厳然たる彼女の怒りが込められていた。

 またしても、またしてもあなたさまは、私から大切なひとを奪う手助けをしようとなさるのですか?

 私の未来を、私の幸せを、この手から取り上げる手助けをしようとなさるのですか?

 しかし次の瞬間、彼女はそうした自分の思いがまったくの見当違いであることを痛烈に悟らされた。

 この白髪の僧侶は、決して自分の前途を妨げようとしたのではない。

 彼はただ、こんな自分に成り代わって事を為そうとしただけのことだったのだ。

 実力のない非力な娘に成り代わり、彼は自らが古橋ケンタへ助太刀せんと、その身を投じる意思表示をしただけのことだったのだ。

 熱気をまとった頭白の背中に、義憤という名の激情がふつふつと沸き立っていた。

 葵が声をかける間もあろうか、その右足が力強く前に一歩踏み出される。

 彼が発する視線の先には、城代家老・姉倉玄蕃のでっぷりと肥えた肉体が存在していた。

 その背中はおよそ侍とは思えぬほどに隙だらけで、おのれの直後で発生した異常事態などにはまったく気付いている様子がうかがえなかった。

 頭白は許せなかった。

 その感情が理に適っていないことを内心では重々承知しておきながらなお、絶対に許すことができなかった。

 生まれ育った家を捨て、仏の道に進むを自ら志した彼であったが、その魂の根幹を成しているものは、いまもって武士道という名の哲学だった。

 そんな頭白にとって、おのれが認めた者に加えられる一方的な恥辱は、到底看過できるような代物でなどなかった。

 ましてや、その実行者自身が我が身を安全地帯に置いたままときては、それはもうなおさらのことであった。

 卑怯千万。

 道理に適わぬ。

 頭白の両目に剃刀のような鋭さが冷たく宿った。

 彼が何を目論んでいるのかは、その目を見るだけで明らかだった。

 この白髪の僧侶は、自身の雇い主をおのが武威でもって制することで、この莫迦げた祭りを終わらせる覚悟を決めたのだった。


 だが、異変はまさにその瞬間になって発生した。

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