第四十四話:この紋所が目に入らぬか!

 それは、異様なまでに重々しい存在感の出現だった。

 凄まじいばかりに力感みなぎる何者かの気配。

 とてもではないが、まっとうな人間の放てるそれだとは思えなかった。

 例えるなら、猫科の大型肉食獣が醸し出す一種独特の闘気に近いとさえ言えるほどの代物だった。

 突如として空気の潮目が湾曲され、轟々と巨大な渦に海水が飲み込まれるように、人々の意識がそこに向かって吸引された。

 頭白も、葵も、そして頼時も玄蕃も、いやこの場にいる者たちの知覚、そのことごとくが不意に現れ出でた特異点目がけて一気呵成に流れ込んだ。

 それら意識の濁流が目指す最奥に佇んでいた人物は、だが、およそどこにでもいるような外見を持つひとりの小柄な老爺であった。

 片手に長い杖を持ち、山吹色の頭巾を被ったその老人。

 両脇を渡世人風のなりをした屈強な男と小山のような黒人の大男とに固められた彼は、まるで場が鎮まる刹那を計っていたかのようなタイミングでもってやんわりとしたひと言を放った。

「双方、それまで」

 続けざまに老爺は言った。

「これはまた、なんとも見苦しい行いではありますまいか。仮にも由緒正しき大名家に仕える武士たちが、正々堂々真正面より自らの城へと乗り込んできた、いわば勇士たる者を遇する術すら存じておらぬとは。これぞまさしく、嘆かわしいことこの上なき事態であると言えましょうな。皆の者、いまからでも決して遅くはありませんぞ。その胸にとくと手を当て、おのれの恥をおのれ自身で噛み締めなさいませ」

 ありえないほどの驚愕がケンタを襲った。

 それは、彼がこの老人の風貌を確かに見知っていたからだった。

 切れた唇が、思わずその名を口ずさんだ。

「水戸屋のご隠居……」

 そう、その老人は紛れもなく、ケンタの知る常陸の国のちりめん問屋「水戸屋」の隠居・光右衛門そのひとだった。

 彼にとっては、飛騨街道をともに旅してきた同行のともがらであり、傷付いた自分を匿い、その生命を救ってくれた大恩ある人物だった。

 完全に意表を突かれた人物のあまりに唐突な登場に、ケンタだけではなく彼と同様にその姿を見知っていた葵と鼓太郎もまた、唖然としておよそ一言をすら発することができずにいた。

 なぜ、あなたがこのような場所にいるのか?

 驚きのあまり、そのように問いかけることすら叶わなかった。

 白昼の蛇とはまさにこのことであった。

 そんな彼らの心情を知ってか知らずか、光右衛門は囚われの身となっているケンタに向かって、するするとその歩を進めた。

 周囲にいる藩士たちが彼の行く手を遮るようなことはいっさいなかった。

 その理由は、彼ら自身にもわからないものだった。

 あえて言葉にするならば、まったく気を呑まれ切っていたからだとでも表せばいいのだろうか。

 藩士たちはこの時、あたかも木偶人形のごとく、ただ無言でその場に立ちすくんでいるばかりだった。

 いやむしろその一部は、自ら進んで光右衛門の前に道を空ける素振りすら見せている。

 無人の野を行くような気楽さで藩士たちの壁を突き破り、老爺は巨漢の目の前に到達した。

「古橋殿。遅ればせながら、この年寄りがあなたさまを助けに参りましたぞ──」

 人好きのする笑みを満面に浮かべつつ、光右衛門はケンタに告げた。

 周りにいる高山藩士たちのことなど寸分も意に介しておらぬとでも言いたげな態度で、彼はのんびりと言葉を続ける。

「──と、素直に言いたいところではございますが、先ほどあなたさまが仰った言。あれはさすがにいかがなものかと存じまする。

 いみじくも御公儀より認められた一国の主家に対し、面と向かって『滅んでしまえ』とまで直言するとは、古橋殿、これは決して誉められた行いではありませぬぞ。その言は、侍の世をもって成すこの徳川のまつりごとに対し、およそ真っ向から喧嘩を売るような所行ではございませぬか。この私としても、立場上、あなたさまの言をこのまま聞き捨てておくわけには参りませぬわえ」

 一見してケンタをたしなめているよう聞こえるその声の奥に、隠しようもないほどの嬉しさと楽しさとが判然と顔をのぞかせていた。

 それはまるで、年端もいかない悪戯小僧を思わせる、なんともやんちゃで腕白な雰囲気を持つ物言いであった。

「よろしい」

 改めて相好を大きく崩し、光右衛門はケンタに告げた。

「あなたさまが売った、その御公儀への喧嘩。斯様に腰の引けた飛騨金森に成り代わり、この老いぼれがそちらの言い値で買い受けて差し上げましょうぞ。それで異論はございませぬな」

 この時、ケンタは彼の発言がどのような意味を持っているものなのか、さっぱり理解できずにいた。

 俺を助けに来た?

 徳川への喧嘩を買う?

 いったい何を言っているんだ、このひとは?

 困惑が困惑を呼び、意味不明な幻想がケンタの脳裏で渦を巻く。

 無論、この時点で左様な状況に置かれた者は彼ひとりなどではなかった。

 と言うより、この老爺の言動をまことに正しく解釈できた者など、この場にいる者のうちでは皆無であったと断言できた。

 予想を遙かに上回る状況の変化は、理路整然としたひとの意識を一時的にしろ麻痺させる。

 恐慌心理パニックとはまた異なった意味で、それは人々の行動を強く左右する理不尽な要素のひとつだった。

「いったいなんじゃ……いったいなんじゃ、そのじじいは!」

 いち早く集団的なほうから立ち直った姉倉玄蕃が、極めつけの不快感を込めつつ怒気を交えて吐き捨てた。

 それは、城代家老の地位に就く者として至極当然な反応だと言えた。

 まがりなりにも主の居城を預かる責任者として、これほど容易く曲者の侵入を許すという事態など、断じてあってはならないことだからだ。

 しかもそれがケンタのごとき武勇ひと一倍の者であるならともかく、此度の場合、いかに逞しき輩を引き連れているとはいえしょせんは小柄な老人ひとりが相手だ。

 警備を司る者どもが腹切らされるだけでは済まされない、それほどの重大事と受け止められてもやむを得ない事柄であるとさえ思われた。

「ええい、何をしておるか。さっさとその者どもを引っ捕らえい」

 つい先ほど口にしたものと同じ内容の命令を、鷲鼻の家老はふたたび発した。

 押さえきれないいらだちが、言語となって空気を震わす。

 ケンタと鼓太郎を取り囲んでいた藩士たちの一角がばらりと崩れ、光右衛門を捕縛しようとして左右同時に躍りかかる。

 それを察し迅速に身を翻す老爺を守らんとして、その供の者ふたり──常陸国の盗賊・松之草村小八兵衛とエチオピアの黒人戦士・ボブサプとが、疾風のごとく両者の間に割って入った。

 彼らの握る長さ二尺約六十センチ余りの木の棒が、瞬く間に数名の藩士たちを打ちのめした。

 明らかにただ腕っ節が強いというふたりではない。

 理論と経験とが幾重にも分厚く積み重ねられた、それは極めて実戦的な身のこなしだった。

 ふたりはそのままおのが主を挟むようにして後退り、藩士たちが形成する円陣を一望できる、その外縁部へと陣取った。

 その間、一行を追撃してきた十名ほどの藩士が小八兵衛とボブサプとに迎撃され、ほとんど抵抗する間もなく一方的に地を舐めさせられた。

 素人目に見ても、両者の強さは驚かんばかりのものだと言えた。

「莫迦な」

 その有様を見て姉倉玄蕃は絶句した。

「あれらはいったい何者じゃ。ただの爺とその供の者ではないというのか」

 さもあろう。この場に集った藩士どもは、先に三の丸にて古橋ケンタに蹴散らされた番卒などとは比較にならぬ者どもだった。

 決して名人とはいえぬ腕前であるとは言え、どの藩士もそれなりに剣術や槍術を修め、それを日々磨き続けている者たちであった。

 その藩士たちがあそこまで歯の立たぬ相手とは、少なくとも尋常の腕前ではあり得ない。

 同様の驚きは、光右衛門ら一行を見知るケンタや葵、鼓太郎らにとっても等しくもたらされたものだった。

 彼らもまた、鷲鼻の家老と同じ思いを得て、同じ台詞を口にする。

 ご隠居さん。

 あなたたちはいったい何者なんですか?

 もちろん彼らも、光右衛門ら一行がそこいらにいる極々普通の商人あきんどだ、などとはこれぽっちも思っていなかった。

 大体において、普通の商人は真っ黒い肌を持つ異人の巨漢を引き連れながら旅をしたりなどするわけがない。

 それだけで並大抵の経歴を持つ人物でないことは明白であったが、それでもなおこれほどに「できる」者たちであることは、ケンタたちにとってまさしく青天の霹靂に近い現実だった。

 彼らは、再度、同じ疑問を繰り返した。

 ご隠居さん。

 あなたたちはいったい何者なんですか?

 その質問に答えうる人物が、実はたったひとりだけこの場所にいた。

 飛騨高山藩主・金森出雲守頼時である。

 もっとも、光右衛門らの躍動を目の当たりとしたことで思わず茫然自失し立ちすくむ彼の姿は、同種の心理に陥った他の者たちと比べてもさほどの違いがあるわけではない。

 ただし、その者たちと頼時とでは、たとえ同じようなレベルの驚愕を得たにしてもその根源となる理由と内容とが決定的なまでに異なっていた。

 頼時は光右衛門を、いや正確に言えば「水戸屋の隠居・光右衛門」を名乗るの老爺の持つ真実の顔を、かねてより十分なほど心得ていたのである。

「あり得ぬ……」

 江戸城内で何度も見かけたその姿。

 あろうことか、将軍・徳川綱吉に向けためらうことなく苦言を呈するその姿。

 柔和な老爺としての外見を保ちつつも、なお戦国武将にも似た威厳をまとうその姿。

 そんな彼の姿をおのが心中にて繰り返し繰り返し反芻しながら、呆けたように彼は呟く。

「なぜあの方が……なぜあの御方が、このようなところにおられるのだ」

 だが、そんな藩主の表情を周囲にいる者たちは誰ひとりとしてその眼で察することができずにいた。

 その者たちの筆頭こそ、誰あろう城代家老・姉倉玄蕃そのひとだった。

 この鷲鼻の家老は、予告なくおのが胸中へとやってきた情動を制御することに失敗し、あたかもそれに振り回されるがごとく責任ある重臣とはとても思えない台詞をその口から吐き出し続けている。

「もうよい!」

 見苦しく両腕を振り回しながら、子供のように玄蕃は叫んだ。

「この上は生きたまま捕らえずとも構わぬ。それ以上手向かうなら、その者ども、この場にてことごとく討ち取ってしまえ!」

 号令一下、半円の陣形で迫る藩士たちの槍先が横一線に構えられた。

 鋭利な刃の先端が、あからさまな復讐心を帯びぎらりと光る。

 藩士たちの両目にも、それと同種の感情がほむらのごとく揺らめいていた。

 彼らの背後では、光右衛門らに叩きのめされたばかりの者たちが地面の上に倒れ伏し、身を捩りながら苦悶のうめきを上げている。

 一部の者は、木の棒で打たれた箇所より真っ赤な血を滴らせてさえいた。

 その者たちは、言うまでもなく藩士たちにとっては「友人」であった。

 同じ家の禄を食み、時には同じ釜の飯を食ったこともある大切な「仲間」であった。

 無論、藩士たちはいまおのれの抱いている感情が、まずもって理不尽な怒りであることをはっきりと認識していた。

 光右衛門らが振るった暴力が、こちらから先んじて仕掛けたものに対応した、いわば自衛行為の類いに属するものであるのだと、心の奥では十二分に理解していた。

 向けられた武威に対し、武威をもってこれに報いること。

 それは侍である彼らにとっては至極当然の行いであり、それが責めるべきことでも責められるべきことでもないことぐらいはもはや自明の理ですらあった。

 が、それでもこの時、藩士たちは目の前の老爺たちを断然許すことができずにいた。

 よくも友人を、よくも仲間を!

 意を親しくする集団の構成者としては至極まともな心理状態が、掛け値のない憎悪となって藩士たちの群れをじっとりと包む。

 危険水位を超えた激情はさらにその内圧を高めつつ、藩の重臣たる城代家老の許可が出たことともあいまって、いままさに臨界点を突破しようとしていた。

「ご隠居さん!」

 そんな空気を本能的に感じ取り、ケンタは思わず声をあげた。

 おのが戒めを解かんとして、無駄とわかりつつも左右の四肢に力を込める。

 しかしそんなケンタの心情とは裏腹に、光右衛門らの表情に焦りの色が宿ることはなかった。

 むしろいまだ余裕綽々と言った風体を装った彼らは、じりじりと後退っていたその足をすら止めて、眼前に迫り来る溶岩のごとき藩士たちを迎え撃たんする素振りさえ見せている。

 それはもう、誰の目にも狂気の沙汰としか映らないであろう決断だった。

 玄蕃の顔が嗜虐の情に醜く歪んだ。

 彼は思った。

 ついに観念したか。

 我の力に屈するだけの覚悟を決めたか。

 その心中が、左様、邪な全能感によってじわりじわりと満たされていく。

 だがもう遅いわ。

 おのれ自身の愚かさを、その身でもって味わい尽くすがいい。

「やってしまえ」

 玄蕃はその決定的なひと言を発するべく、大きく口を開きかけた。

 はっきりとそのように決断して、我が身に対して命令を下さんと試みた。

 それに気付いた頭白が急いで段を駆け下りる。

 残念ながら、それは到底間に合うようなタイミングでありはしなかった。

 その時点において、藩士たちの槍先が光右衛門ら一行を血祭りに上げる結末は、もはや揺るぎない未来であるとすら予想できた。

 無為な時間の浪費というおのれの致命的な失策を悟った頭白が、思わず奥歯を噛み締めた。

 私としたことが!

 そんな悔恨の情が、強かに彼の後頭部を痛打する。

 だが結果として、そんな玄蕃の目論見が現実の言葉となるようなことはなかった。

 もちろん、機を逸した頭白の行いがなんらかの形で実を結んだというわけではない。

 それを成し遂げたものは、光右衛門らの背後より風のごとく駆け込んできたひとりの侍が発する、一種威圧的なまでの一声だった。

「鎮まれぃ!」

 一見優男風に見えるその若い侍は、皆々を一喝するようにしてそう叫んだ。

「者ども。鎮まれ、鎮まれ。鎮まらんかぁっ!」

 この場にいる者たちすべての視線が、その騒々しい来訪者目がけて文字どおりに殺到した。

 数人の藩士たちを従えつつ息せき切って姿を現したこの若者は、決して豪奢ではないにしろ、しかし明らかに上質だとわかる立派な着衣を身に付けている。

 それを見る限り、彼が高い身分の武士であることに疑う余地などどこにもなかった。

「おお、これは重詰殿」

 その顔を認めた玄蕃が、険しい表情をたちまち一転させて石段上より駆け下りた。

 彼は、この若い男がいったい何者であるのかをはるか以前よりよく知悉していた。

 いや玄蕃だけではない。

 藩主たる頼時も、武者奉行たる恵一郎も、そしておそらくはこの場に集った高山藩士たちのすべてもが、この予期せぬ登場を果たした若者のことを存分なまでに心得ているはずだった。

 さもあろう。

 この若者の名は金森重詰。

 飛騨高山先代藩主・金森頼業が次男にして、現当主が実弟に当たる人物であったのだから。

 仮にも金森が禄を食む人間が、その主家の血筋を知らぬ存ぜぬで済ませられようはずなどなかった。

 藩主たる頼時とその元後見人たる彼の叔父・近供を除けば、重詰は金森家中においてもっとも大きな影響力を持つ者のひとりだった。

 おそらくは、病に倒れた現当主が身罷り、姉倉玄蕃を筆頭とする重臣どもの望むとおりに年若い養子が金森の家を継いだおりには、その実質的な後見人としてさらに家中での発言力を増すこととなるだろう。

 少なくとも玄蕃はそのように考えていたし、彼の知恵袋たる用人の生島数馬もその予想を裏付ける発言を繰り返していた。

 その一方で玄蕃は、この若者のことを当面「神輿」として扱う腹づもりを持っていた。

 見た目優しげなその風貌に違わず、重詰は時に剛毅で融通の利かぬ面を持つ兄・頼時あたりと比べると考え方も柔軟で、周囲の意見に耳を貸しながら物事を進める調停者としての顔を色濃く備えていた。

 だが、その性格は大集団の指揮者としては実に得難く有意義な資質であると同時に、アクの強い部下の個性に引きずられてしまいかねないという弱点をも有している。

 有能な政治的寝業師であるこの鷲鼻の家老にとって、そういった重詰の個人的な性質はまさしく歓迎すべき事柄だった。

 その妻の実家がいまの玄蕃の後ろ盾たる先代藩主正室との折り合いはなはだ悪きゆえにいずれなんらかの手段で始末せねばと目論見ながら、なお利用価値高しと値踏みしているのはそういったことが理由だった。

 でっぷりと肥満した肉体を小刻みに揺らし転がるように段を降った姉倉玄蕃は、なんとも急ごしらえな愛想笑いをその顔面に貼り付けつつ、この若者とひれ伏すような言葉遣いで相対した。

「なんとも見苦しき有様をお目にかけ申した」

 相好を崩しながら彼は告げた。

「秩序を預かる城代家老と致しましては、まさしく汗顔の至りにございます。さすればこの無礼者どもをいますぐ捕らえ、その上できつく裁きを加えますゆえ、何卒、この場はご容赦いただきたき所存にてござる」

 玄蕃は、なろうことなら重詰にこの状況への関与を許したくなどなかった。

 兄に先んじて妻をめとり、そのことで家を分かつ立場にあった重詰には、もとより本家の内情へと関与する意思は希薄であった。

 しかしながら、それでもその影響力は無視できないものだ。

 彼のことを「軽い神輿」と考えている者が自分だけではないことを、この鷲鼻の家老は痛いほどに感じ取っていた。

 出る杭は打たれる。

 これまで自分が散々構築してきた結果を自分だけは被ることがないなどと考えるほど、彼は愚かな男ではなかった。

 さればこそ、玄蕃は意図して下手に出て、重詰にこの場からの退出を促すことに決めたのだった。

 とりあえず余計な現認さえされなければ、あとでいかようにも取り繕うことができるだろう。

 それこそが、この時点においてもっとも単純でかつ効果的な対応に違いないものなのだと彼は信じていた。

 しかし、重詰が、よりによってなぜこの場に、なぜこの機をもって姿を現したのか、その理由に深く思い巡らせるまでの余裕は持たなかった。

 重詰の住む屋敷は、城外武家屋敷群の一角に存在する。

 高山城から見て、さほど距離が離れているというわけではない。

 たぶん、城門での騒ぎを聞きつけた彼の側近が手早く注進するに至ったのだろう。

 玄蕃は、せいぜいその程度の予想しかしていなかった。

 だから、彼はおのれの意思が簡単に通るものだと確信していた。

 微塵たりともそのことを疑ったりなどしていなかった。

 その背後にさしたる意志を持たぬのなら、手頃な安堵を手土産に持たせてやれば大概の者は納得しながら引き下がる。

 そんな現実を、この鷲鼻の男は嫌と言うほど経験していたからだった。

 ゆえにこの時、金森重詰がおよそ激怒にすら近い強烈な反応を示したことは、彼にとって完全無欠に想定外の出来事だった。

「たわけ! 無礼者とはそなたのことだ!」

 顔中を真っ赤に染め上げ重詰は怒鳴った。

 しかし、玄蕃はなぜこの若者が斯様な態度を示しているのかが理解できなかった。

 当然であろう。

 この時の彼は、なんの許しを得ることもなく城内へと侵入してきた不埒者どもを、まったく正当な理由をもって成敗しようと試みていただけなのだからだ。

 何をどのように考えてみようとも、それは彼の立場からしてみて、非難されるべき内容の行いだとは思えなかった。

 少なくとも、重詰に咎めを受ける行為でないことだけは確かだった。

 そのはずだった。

 否応なく、激しい困惑がその目付き顔付きに表れる。

 重詰が決定的な言葉を発したのは、まさにその直後のことであった。

 彼は、必死という表現すらおこがましく感じられるほどの勢いで、玄蕃の顔面目がけておのが知る真実そのものを声にして叩き付けたのである。

「玄蕃。あそこにおられるを、いったいどなたと心得るのだ!」

 彼は告げた。

「あの方こそ、恐れ多くも徳川副将軍・水戸光圀公にあらせられるぞ!」

 その名を聞き、玄蕃はおのが耳を疑った。

 水戸……光圀だと。

 莫迦な。

 あり得ぬ。

 あり得るわけがない。

 そんなことがあり得て良いはずがない。

 徳川幕府、その頂点に座する征夷大将軍をすら面と向かって叱責できる陰の実力者……そのような者が、そのような者がこの場に現れるはずなどない!

 左様な態度を示した者は彼だけではなかった。

 信じる信じないを問わず、重詰の言を聞いた者たちのすべてが、一瞬にして身体を硬直させ皿のごとく眼を見開く。

 空気が、張り詰めていた場の空気が完全に静まりかえった。

 衝撃が思考を奪い、畏怖を覚えた肉体がその機能を麻痺させる。

 それは文字どおりの恐慌だった。

 一同は等しくひととしての意識を喪失し、あたかも白痴のように立ちすくんだ。

 それは、まさしく千載一遇の好機。

 戦において値千金の刻とされるその一瞬に、見事つけ込んだ者がいた。

 松之草村小八兵衛だった。

 彼は、いま自分たちが対峙する敵勢に向け、その混乱に拍車を当てるべく大音量で宣った。

「いかにも! こちらにおわすは水戸光圀公!」

 懐に突き入れられた彼の右手が、そこから小さな物体を取り出した。

 およそ片手の中に収まるほどの、漆で塗られた小さな何か。

 それを皆々の眼前へと突き出しつつ、小八兵衛は獅子のごとくに咆吼する。

「この紋所が目に入らぬか!」

 それは常備薬を入れておく携帯用の薬入れ、すなわち印籠であった。

 造りこそ実に立派なそれではあったが、だからといって特に珍しい代物というわけではない。

 それなりに身分高き者、あるいは豊かな財を成した者であれば、常日頃より持ち歩いていても不思議ではない至極あたりまえの小物であった。

 だが、小八兵衛の掲げたそれに燦然と輝く金色の家紋が、その存在を圧倒的なまでに特別なものへと昇華させていた。

 それは、見紛うことなき「三つ葉葵」の紋章だった。

 俗に「徳川葵」とも銘打たれる、江戸将軍家のみが保有する絶大な権力そのものの証だった。

 それが表に出された刹那、この場にいる者たちすべての心中を突風にも似た何かが一気呵成に吹き抜けていった。

 それは、もはや衝撃とすら呼べぬ。

 そんな生易しい言葉では到底表しきれない、それほどの怒濤が彼らの自我を抗う間もなく押し流していった。

 左様な彼らの頭上目がけて、張りのある小八兵衛の声が畳みかけるように降り注ぐ。

 それは、文字どおりとどめとなる一撃だった。

 士気を失い敗走する敵軍に向け放たれる、騎兵集団の突撃だった。

 彼は叫んだ。

 腹の底に力を込め、最大限の威を込めながらひと息のもとに言い放った。

「一同。御老公の御前である。頭が高い! 控えおろう!」

 次の瞬間、ケンタは自らの目の前で起きた光景を生涯忘れまいと思った。

 それはまさに、彼の生まれ育った時代、その世界における常識とは完全にかけ離れた映像であったからだ。

 ほんの少し前まで憎悪に満ちていきり立っていたはずの藩士たちが、手に持った長柄をかなぐり捨てて平伏していた。

 それはもう深々と膝を折り、上半身を前方へ放り出すようにして額ずいていた。

 藩士たちだけではない。

 あの傲慢不遜な態度を隠そうともしていなかった姉倉玄蕃も、古強者の風格を漂わせていた山田恵一郎も、藩主の弟たる金森重詰と並んで見事なまでのかしづきを見せていた。

 一体全体、何が起こったのかわからない。

 突然起きた事態の変化に心の中身がついて行けない。

 そう感じている者がほとんどだった。

 平伏している皆々のうち、ある程度の覚悟を決めていた重詰を含むほんの一部を除いては、およそ自分というものを保っている人間はまさに絶無の状況だと言えた。

 姉倉玄蕃でさえも、その例外ではいられなかった。

 威に屈したように額を地に擦りつける彼の口は、「そんな莫迦な……そんな莫迦な……」という呟きを、無意識のうちに繰り返している。

 その自我が一時的にしろ崩れかけていることだけは、もはや疑いようもない事実だった。

 そんななか、ただ唖然として案山子のごとく突っ立っているケンタだけが、周囲の中で浮いているような存在だった。

 おのが自由を拘束していた荒縄と刺股とが、どちらも持ち手を失うことでその目的を果たせなくなっていたにもかかわらず、しかし彼はなんら新たな行動に移ろうとはしていなかった。

 地に着いていた片膝を伸ばし、ゆるゆると立ち上がってみせたのがほぼ唯一の動きと言えた。

「嘘だろ……」

 呆けきったケンタの口が、おのずとそんな言葉を紡ぎ出す。

「水戸黄門って……夢でも見てるんじゃないのか、俺」

 無論、この状況は夢などではなかった。

 ケンタにそのことを知らしめた者は、改めて目の前にやってきた水戸屋の隠居・光右衛門、いや天下の副将軍・水戸光圀そのひとであった。

 彼は、立ちすくむケンタの首から垂れ下がる荒縄を自らの手で取り去りながら、にこやかに笑って、二、三度小さく頷いた。

「済みませなんだな、古橋殿」

 光圀は言った。

「決して黙っておるつもりはなかったのですが、聞かれてもおらぬことをこちらから口にするのも、これまた礼儀に反することかと思いましたのでな。いやはや、申し訳ないことをいたしました」

 語りかけられたことでいきおい自らを取り戻し、次いであたふたと膝を折ろうとする大男を「左様、かしこまらずとも構いませんぞ。ともに旅をしてきた仲間ではございませんか」という言葉でもって労いつつ、光圀はなおも悠然と話を続けた。

「ときに古橋殿。先ほど私のほうから申し出た事柄、あれは、まっことこの光圀が本心からのものでございますよ」

「先ほどの……事柄?」

「左様、左様」

 頷きながら老爺が応じる。

「あなたさまが徳川の御政道に向けて売った正々堂々の喧嘩を、この私が御公儀を代表し、あなたさまの言い値で買い受けると申し上げたことにてございます。あなたさまがそこにいる白髪の法師殿と見事立ち合い、勝てば葵殿を連れて帰る、負ければいかなる罰も受け止める。その条件を、一字一句違えることなくこの老いぼれが受けて立つということにてございます。異論はございませんな、出雲殿──」

 そう言いながら光圀が頭を巡らせた先には、いつの間に石段より降りてきていたものか、高山藩主・金森出雲守頼時がその姪・葵と白髪の僧侶・頭白とを従えながら座していた。

 作法に則り美々しいまでの座礼をとったこの若き君主は、「はっ、御老公様の仰せのままに」と、光圀の言葉に対し全面肯定を口にする。

 続いて「法師殿はいかに?」と言葉を振られた頭白もまた「願ってもないこと」と単刀直入に答えを返す。

 それを聞き、「よしよし」と満足げな表情を浮かべた老爺が、やんわりと葵に向かって微笑みかけた。

 彼は、これが締めだとばかりに少女へと問う。

「無論、葵さんにも異はございますまい?」

「はい!」

 彼女の返答は明確だった。

 これをもって、すべての欠片ピースがことごとくあるべき位置へと収まった。

 そして事態は、まさにいま、光圀の裁定どおりに決着するかのごとくうかがえた。

 だがしかし、ことはそう簡単には鎮まらなかった。

 なぜならこの時、その裁定に真っ向から異議を唱える人物が現れたからだ。

 言うまでもなくそれは、飛騨高山藩城代家老・姉倉玄蕃そのひとであった。

 藩主たる頼時、そしてその弟・重詰の制止を振り切り、この傲慢不遜な鷲鼻の男は、おのれよりはるか格上の身分にあたる老爺へと向け、あたかも餓狼のように噛み付いた。

 悪びれる様子を微塵とも見せることなく、彼はむしろ非難めいた声色を込めつつ光圀目がけて言い放った。

「おそれながら、御老公様に申し上げます。此度の一件、新たに当藩主となられるであろう殿が御養子と我が義娘・葵との婚礼につきましては、これすべて飛騨高山藩並びに飛騨金森家自らが解決せねばならぬ事案にてございます。こと御家に関する事柄なれば、たとえ御公儀といえどこれにいっさいの口出し無用。それは幕府より下されし諸法度にも、しかと明記されていることにてござる。

 ゆえに本件に関しましては、これがいかに御老公様からのものであろうとも、御法みのりに外れたお裁きは断じてお受け仕るわけには参りませぬ。そもそも、あえて当藩がそれを承るだけの道理が、いったいどこにあると仰るのでございますか。

 御老公様におかれましては、何卒、その御心をいたずらにお騒がしなされぬよう、この玄蕃、不躾ながらここに謹んで忠告いたしたき所存にてございます」

「何々、堅苦しく考えることはありませんぞ」

 ある意味、無礼千万とも受け取れる玄蕃の言上を、光圀は真正面から受け止めた。

 にこやかな好々爺たる表情を変えることなく、淡々とした口振りでゆっくりとその言葉におのが言葉を返していく。

 彼は言った。

「そもそも私は、今年の秋で隠居の身。仮にそのような権限があったとしても、わざわざ余所さまの藩政に口出しをしたり、余所さまの家中に我意を通したりなぞする気は毛頭ございません。第一、そのような義理なき行いをしたところで、この私にいったいなんの楽しみがあるというのでしょう。ただ、なんとも面倒なだけではありませんか。姉倉玄蕃と申されましたな。そのほうも左様に思われはしませんかな?」

「はっ。まこと仰るとおりにてございます」

「ゆえにこそ、私は飛騨高山藩の政に関わるような真似はいたしませんし、金森家がどこから養子をいただき、どこの誰をその妻として嫁がせるのかに意見するつもりもございません。それらはすべて、私ども徳川の者が決めることではなく、あくまでも飛騨高山の者が、そして飛騨金森の者が定めることでありましょうからな。されど──」

「されど?」

「されど玄蕃とやら。いまこの私が成そうとしておる事柄は、そこにいる古橋ケンタなる武芸者から我が徳川へと売られた喧嘩を正々堂々買い受けることのみ。それこそ、飛騨高山藩に、飛騨金森家に文句を言われる筋合いなどこれっぽっちもありませんぞ。当然、武士たる者の頭領が血筋であるからには、名誉にかけてもその言い分を違えることなどあってはならないこと。そこもとも、当然そのことを理解されておりましょうな?」

 そのひと言をきっかけに、玄蕃の顔色が一気に変わった。

 互いの会話が進むにつれ徐々に赤らんできていたそれが、たちまちのうちに血の気の引いた真っ青なものへと変化していく。

 彼の様子は、もはやまともな言語すら発することのできない、それほどの状況へ追い込まれたかのごとくであった。

 その口からかろうじて漏れ出した言葉は、「いや」「あの」「その」といった類いの要領を得ないものばかりだった。

 そのことを確認した光圀の口元が、まるで悪戯坊主のように吊り上がった。

 逃げ場のない穴の底へとはまり込んだ鷲鼻の家老になお決定的な一打を与えるべく、老爺は強い口調で確認の言を送る。

「玄蕃」

 彼は言った。

「そなた、たかだか三万八千石が家老の分際で、この私に約を違わせ、徳川の血筋に恥をかかせるつもりではありますまいな?」

 この時点をもって鷲鼻の家老は完全に沈黙した。

 それは、おのれが後ろ盾としていた存在よりもなお高位のそれに対し、公の場で逆らってみせるという愚を犯す危険性に気付いたからにほかならなかった。

 周りから見えぬよう低く伏せたその表情が、屈辱と憎悪とによって阿修羅のごとく歪みきっていた。

 光圀は、そんな玄蕃の心情をほぼ完璧に把握していた。

 やはり役者が違うとでも言うべきであろうか。

 狡知も洞察も見識も、彼の有するそれらすべてが、もはや常軌を逸した位置にいた。

 およそ、鷲鼻の家老ごときが到達できる場所になど存在してはいなかった。

 だがこの時、光圀は玄蕃のことをあえて無視した。

 この者を言葉によって糾弾し掣肘することは彼にとってあまりにも容易い仕事であったが、それよりもさらに優先させるべき事柄をきちんと成立させることをこそ光圀は選んだのだった。

「さて古橋殿」

 おもむろにケンタのほうへと向き直り、老爺は相好を崩しつつ質問を放った。

「あなたさまは、そこにいる白髪の法師殿と立ち合うことでこの光圀と立派に雌雄を決するおつもりであるとのことですが、果たしてその立ち合いには、いったいいかなる技でもって応じられるご意向であられますのかな? この場でしかとお聞かせいただきたい」

「プロレスです!」

 間髪入れずにケンタは答えた。

 腫れ上がったまぶたの下でなお爛々と輝く両目を光国へと向け、この江戸時代唯一無二のプロレスラーは、おのれを奮い立たせるような大音量でもってきっぱりと言い放った。

「この俺が命を賭けて戦う場は、プロレスのリング以外にはありません! 俺はひとりのプロレスラーとして、俺の愛するプロレスを使って頭白さんと勝負したいと思ってます!」

「よろしい。その願い聞き届けた」

 大きく頷き光圀は応えた。

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