第四十二話:巨漢咆吼

 高山城の縄張においていわゆる中段屋形と呼ばれる曲輪は、臥牛山頂上に築かれた本丸のほぼ東側、その場所に張り出すがごとく配置されていた。

 三の丸南側にある西の二の丸、庭樹院館という名を持つその部分からさらに山の斜面を登ったところに存在する、本丸防衛のための最終陣地だ。

 曲輪自体はぐるりと分厚い土塀によって囲まれているが、石垣などの堅固な構造を保有しているわけではない。

 曲輪の直下に広がる臥牛山の急斜面が、そのようなものなくしても攻め手に対する十分な地形的障害になると考えられていたからだった。

 本丸部分から中段屋形へと降りるためには、およそ三間約六メートルほどもある石垣の、その上部に穿たれた頑丈な城門を用いるほかに手段はない。

 そこを潜り、これまた頑丈に作られた幅広の石段を経ることで初めて下の曲輪へと足を踏み入れることができるのである。

 飛騨高山藩主・金森出雲守頼時とともに天守の間を出た秋山葵が彼に付き従うがごとく姿勢を正していた場所は、本丸からちょうど城門を抜けて出たすぐそのあたり、およそ石段の最上段と言える部分であった。

 不意に吹き込んできた秋を感じさせる微風が、そっと彼女の頬をなでる。

 普段の葵なれば、そのなんともいえぬ心地よさにやんわりと相好を緩めたものかもしれない。

 されどいまの葵には、そのような心の余裕など欠片も存在しなかった。

 間もなく直面するであろう現実への期待と不安。

 そんな陰と陽との入り交じった複雑な感情が、彼女の胸中にて激しく渦巻いていたからだ。

 否応なしに心の臓が高鳴りを始め、知らず知らずのうちに口の中が渇きを覚える。

 無理矢理に心の安定を保たんとして、葵はわずかな唾液をかき集め、意識してそれを飲み込まんと試みた。

 だが、それもまったく無意味な努力だった。

 いまおのれが心より欲している輝かしい希望に我が身のすべてを賭けていたいと思う一方で、それが肩透かしとなった場合にのしかかってくるに違いない真っ暗な絶望のことを思い浮かべると、どうしても平常心ではいられなくなるのだ。

 気が付けば、その小さな身体が小刻みに震えていた。

 大きな瞳がゆらゆらと揺れ、小さく歯の根が鳴るほどだった。

 そんな怯える子鼠のような少女を、この時、緩やかに落ち着かせ得たものは、そっと彼女の肩に載せられた暖かくも力強いひとりの男の掌だった。

 葵がふっと顔を向けた先に、彼女の叔父・金森頼時のなんとも柔和な笑顔があった。

 それは、明らかに家長が家人に見せる表情ではなく、主君が家臣に見せる表情でもなかった。

 無論、生身の男が生身の女に見せるような、下心のあるそれではない。

 それは、紛れもなく年長の保護者が年若い縁者に向けて投げかける、そんな無償の優しさの込められた例えようもない笑顔であった。

 いま彼女の右に並び立つ若者──病み疲れたおのれの肉体を強引にここまで運んできた飛騨高山藩の主は、先だってきちんとした身形に改め、いまは一国の君主らしいなんとも凜々しく威厳のある風格を整えていた。

 つい先ほどまでおのが姪の眼前でただはらはらと落涙していた女々しき咎人とがびとの姿など、その様子からはまったくもってうかがい知ること叶わなかった。

 そのふたりからわずかに下がった段上には、まるで彼らを守る衛士のごとく直立する柳生蝶之進重明、いや、いまは自ら出家して頭白坊を名乗る白髪の僧侶が、鋭い視線を階下に向けて注いでいる。

 その鋭利な眼差しの先にあった者は、飛騨高山藩重臣中の筆頭、藩主不在のおりにはそれに成り代わって政務のすべてを取り仕切る、城代家老・姉倉玄蕃守重平だった。

 このでっぷりと肥満した鷲鼻の男は、藩主である頼時のそれよりもはるかに豪奢な、ふんだんに金色を用いた柄物の羽織を衆目に隠すことなくまとっていた。

 それは、この身分制度の世にあって、およそあってはならない傲慢だった。

 主君に勝る財力の主張は、事情を知らぬ者の人の目には容易く実権力の格付けとして映る。

 場合によっては、反逆の意志ありとして公儀よりきつい叱責が下されても仕方のない行為だと言えた。

 だが城に詰める侍たちは、自分たちを包む現実の力関係というものを十二分に知っていた。

 すなわち、いまこの飛騨高山藩を実質的に牛耳っているのはこの魁偉な容貌を持つ城代家老にほかならないという事実を、である。

 予期せぬ急病によって倒れた若き君主の名代として、この男は思うがままに権勢を振るい、やがて巧みな弁舌にて家臣団までもを手懐け、時には悪辣な商人どもに便宜を図ってまでおのが欲望を存分に満たした。

 残念ながら、その行いを非難する者は家中において数少なかった。

 わずかに抵抗の意志を見せた心ある家臣も、ある者は鼻薬を嗅がせられ、またある者は搦め手より脅しをかけられ、遂には渋々ながらもその口をつぐんでしまった。

 力は金なり。

 金は力なり。

 そんな詠み人知らずの格言をそのままに実行した姉倉玄蕃に足りぬものは、もはや実際上の権力を名目上のそれと重ね合わせることのみと評しても過言ではなかった。

 彼にとっては、まさしくこの世の春だった。

 おそらくは、当人もそれを自覚しているのだろう。

 ちょうど石段の半ばあたり、主君のそれよりも数段下った場所とはいえ明らかにそれを先導するかのような位置を占めたこの男は、傲然と胸を張りつつおのれの存在感を誇示し続けていた。

 主を差し置き、我こそがこの舞台における真の主役であるのだといまにも言い放ちそうに見えるほど、それは不遜極まる態度であった。

 右手に持つ閉じた扇子を左掌に等間隔で打ち当てながら、玄蕃は眼前に展開する光景をゆるりと眺める。

 中段屋形の曲輪内には、およそ数十名に達する城侍たちがおのおの槍や刺股をその手に携え集結していた。

 いずれも、おのが険しい面持ちを隠そうともせず得物の穂先にぎらぎらとした殺気をみなぎらせている。

 その雰囲気たるや、まるで合戦前の一齣のごとくにさえ思えるほどだ。

 いや城方としては、いっそ戦に臨むのと同じ心構えであったのかもしれない。

 あたりをよくよくうかがえば、鉄砲に火種を挟んだ足軽どもが各所で睨みを効かせているのが見て取れた。

 およそ泰平の世においては考えられない、あまりにも殺伐とした情景だった。

 周囲の空気が冷たく張り詰めていた。

 私語を話す者などひとりもおらぬ。

 それは、どこか遠くに聞こえる名もなき小鳥のさえずりでさえも、なんの妨害もなくこの空間いっぱいに響き渡るのではないかと思えるほどの静けさだった。

 曲輪の城壁に設けられた分厚い門が音を立てて開き、武者奉行・山田恵一郎に先導されたひとりの大男とひとりの少年とが中段屋形内に迎え入れられたのは、まさしくそんなおりの出来事だった。

 城侍たちの視線が、一斉にそちらへと集中した。

 無論、歓迎の眼差しなどでは断じてない。

 招かれざる客人ふたりの後方でふたたび門が閉じられたのは、その直後のことだ。

 それは、彼らが用いるべき唯一の退路が完全に封殺されたことを意味していた。

 ふたりにとって、この場は明らかな死地だった。

 だが、おのれの置かれた状況を察してはっきりと狼狽の色をうかがわせる少年とは対照的に、その相方たる大男の歩みにはいささかの乱れも生じてなどいなかった。

 群れ集まった城侍たちの長柄も、おのれへと向けられた複数の銃口も、男の足下を微塵とも揺るがすこと叶わずにいた。

 深く被った編み笠ゆえにその表情を見て取ることはできずにいたが、それは到底やせ我慢とは思えない、実にしっかりとした足取りだった。

 なんと見事な胆力よ。

 恵一郎に促され石段下にて仁王立ちする大男の様相を目の当たりにし、藩主・頼時はまこと素直に感嘆した。

 いま自分が知るすべての男女のうち、敵意に満ちた幾十ものまなこに晒されながらなお平然と背筋を伸ばし続けられる人物など、果たしてどれだけの数を数えられるものなのであろうか。

 あるいは皆無であっても不思議ではないとすら思えてしまう。

 そう思考を巡らすだけで、不思議と胸中に熱い何かが漲ってくる。

 どこか羨望、いや嫉妬にすら近い。

 それは、おのれの身体が病を得て以来、久しく覚えていなかった生きていることへの充実感だった。

 こちらから何事かを語りかけるべきだろうか。

 頼時がふとそのように考えたまさにその時、彼に先んじて口を開いた者がいた。

「頭白さま!」

 発言者は、大男が連れ立ってきた少年だった。

 いそいそと編み笠を脱ぎながら、感情的になって彼は叫ぶ。

「なんでそこにいるんだよ。なんでそんなところにいるんだよ!」

 あらわになったその素顔を目の当たりにし、頭白と葵とが同時にその名を呟いた。

「鼓太郎」

「鼓太郎さん」

 そう、その少年はふたりが見知った者だった。

 鼓太郎という名を持つ、その利発で快活なひとりの少年。

 それは、頭白にとっては長らく一緒に生活してきた同居の者であり、葵にとっては名古屋から高山までの旅路を共にしてきた道連れの者であった。

 しかし、同じ名前を口にしながらも、放たれたふたりの声には明確な色合いの違いがあった。

 頭白のそれにはわずかな苦悩が、そして葵のそれには煌めく希望が含まれていた。

 それは、知己である少年の登場に対し、彼らの抱いた咄嗟の感情がいかなるものであったのかを如実に表す何よりの証左だった。

 驚愕とは明らかに違う衝撃を受けて、しばしの間たたずむふたり。

 そんな彼らの片割れに向け、鼓太郎はおのが激情を遠慮仮借なしに叩き付ける。

 彼は言った。

「見損なったよ。いまのいままで信じていなかったけど、やっぱり師匠の言っていたことは本当だったんだね。悪い奴の手先になって、師匠を傷付けて、葵姉ちゃんをさらう手助けをしたっていうのは本当だったんだね。最低だよ。最低じゃないか。そんなのは、おいらの知ってる頭白さまじゃない。おいらの好きだった頭白さまじゃない」

 少年の放つ身を捩るような指弾が耳に届いたその刹那、頭白の眉根は押し寄せる感情を前に醜く歪んだ。

 唇が真一文字にかみ締められる。

 心の痛みが、みるみるうちにその顔色を土気色へと変えていった。

 だが、彼の口が弁解の言を紡ぎ出すことはついぞなかった。

 あるいはその意志こそあったのかもしれないが、その直後、割り込むように発せられた姉倉玄蕃の口上がそれを許しはしなかったのだった。

 おのれの権勢を高らかに主張するがごとく、この鷲鼻の重臣は眼下に屹立する大男に向け大音量で言い放った。

「そこの者! 殿の御前である。その方も被り物を取らぬか! 無礼であろう!」

 少年と頭白らのやりとりなど端から眼中に入ってないことをうかがわせる、なんとも傲慢極まる言いぐさだった。

 右手に持った扇子の先を、段上より芝居がかって突き付ける。

 とても君主の名代を自覚している者の仕草には見えなかった。

 心ある者が見れば、苦々しさに眉をしかめるに違いない態度だと言えた。

 されど、大男は一向に動じる素振りを見せなかった。

 彼はさも平然とした態度で編み笠の端に手をやりつつ、壇上に立つ者たちを仰ぎ見る。

 ことに、その視線は最上段に立つふたりに対して注がれているようだった。

 彼の唇が小さく動いた。

 それは誰か人の名前を呟いたかのごとき動きだったが、周囲の者は誰ひとりとして発せられた内容を聞き取ることができなかった。

 大男が改めて声を発したのは、それに続いてのことだった。

 放たれた言葉は、石段の半ばに立つ鷲鼻の重臣へと向けられていた。

「城代家老の姉倉玄蕃というのはあなたのことか?」

 舌鋒鋭く彼は尋ねた。

「いかにも」

 見るからにふてぶてしく胸を張り、傲然たる口調で玄蕃は答える。

「わしが当飛騨高山藩城代家老・姉倉玄蕃である。おぬし、いったい何者じゃ。名を名乗れい!」

「そうか」

 高飛車な玄蕃の要求を真っ向から受け止めた大男は、自ら小さく頷くことでこれに応じた。

 ゆっくりと編み笠のあごひもを解きながら、勿体振りつつ彼は言う。

「殿さまに直談判しようと思ってここまで来たんだが、事件の張本人がいるっていうんなら、そっちのほうが話は早い」

 言うが早いか、男の右手が一気に動いた。

 被っていた編み笠が勢いよく頭上へと投げ捨てられ、ゆらゆらと落ち葉のごとく宙に舞う。

 精悍なその素顔が、猛々しいその眼光が、文字どおり白日の下にあらわとなった。

 その刹那、黄色い稲妻が葵の背筋を一閃した。

 これまで費やしてきた十四年余りの生涯において彼女が一度として経験したことのないまさに未曾有の衝撃が、その体幹を電光石火に貫いていく。

 もしその時が来たならば、必ずや語りたいと思っていた言葉があった。

 もしその時が来たならば、必ずや告げたいと思っていた気持ちがあった。

 だが少女の胸に押し寄せてきた怒濤のごとき激情は、これを瞬く間に那由多の彼方へと運び去ってしまう。

 彼女が多分に備えていたはずの知恵も、分別も、思慮も、そのどれもが頭蓋の中より押し出され、深淵の果てへと投げ捨てられてしまう。

 いまやたったひとつの情動だけが、彼女のすべてを支配していた。

 思わずその眼に涙が溢れ、たちまちのうちに視界が歪んだ。

 心臓が痛いほどに早鐘を打ち始め、見る見る間に呼吸自体が乱れ始めた。

 そんなふがいない我が身をあえて鞭打ってみせるように、葵は音を立てて喉を鳴らした。

 その行為をはしたないと思えるだけの心の余裕など、どこを探しても見当たらなかった。

 そして次の瞬間、彼女は叫んだ。

 思いの丈をこれ以上もなく詰め込んだただ一節の言の葉を、その身体全体から一気呵成にほとばしらせた。

「古橋さまぁっ!」

 少女の放つ魂の咆吼が、この場にいる者すべての耳と心とをしたたかなまでに打ち据えた。

 それはいま、彼女の眼中にひとりだけその存在を許された人物においても、まったく例外ではなかった。

 男は──古橋ケンタという名前を持つこの時代唯一無二のプロレスラーは、向けられた想いにひとたび大きく頷くことで応えたのち、実に雄々しくまっすぐに、おのが左の人差し指を鷲鼻の城代家老目がけて突き付けた。

 その指先に猛禽を思わせる眼差しを乗せ、彼は高らかに宣言する。

「俺の名前は古橋ケンタ。城代家老・姉倉玄蕃! 葵さんを返してもらいに来たぞ!」

 聞きたかったその声。

 待ち望んでいたその姿。

 それらをいま現実のものとして受け取った葵の目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。

 体奥からこんこんと湧き上がる耐え難い何かを堪えるように、おのが両肩を力一杯抱きしめる。

 ああ、と感動の声をあげながら、心の底から彼女は思った。

 生きて……生きていてくださった。

 生きて、そして……いま、私のもとへ帰ってきてくださった。

 古橋さま……古橋さま……

 私の……私の古橋さま……

 感極まるとは、まさしくこのことなのであろうか。

 少女の膝が激しく打ち震え、時を移さずその身が足下へと崩れ落ちそうになる。

 それを咄嗟に阻んだのは、隣に並ぶ頼時の両手だった。

 この若き藩主は、小柄な姪の身体をしっかとその手で支えつつ、改めて眼下に立つ大男のもとへと視線を移した。

 葵──頼時は心の中で、そっと少女に語りかけた。

 あの者が、そなたの抱く希望なのか。

 あの者こそが、そなたのすべてをその手に掴んだけしからぬ男なのか。

 だとしたら美事だ。

 美事に過ぎる。

 いや、あの男が、ではない。

 確かにあの男もまた言うまでもなき極上の天晴れであるが、左様な男を見初めたそなたの眼力こそがまことの美事なのだと私は思う。

 我が身の危険を顧みず、幾百人ともしれぬ城侍がひしめくであろう我が城へ堂々正面から乗り込んでくるような大莫迦者をおのが生涯の伴侶と定めて疑わぬ、そんなそなたをこそ私は真の天晴れだと褒め称えたい。

 葵よ。

 雅が娘よ。

 私はそなたを見くびっていたのやもしれぬ。

 そなたほどの女子おなごに伏してまで許しを請い、情けなくも我が体裁を必死になって整えようとしたことは、私がそなたを見くびっていたゆえの過ちであったのやもしれぬ。

 美事だ、葵。

 美事だ、美事だぞ、葵。

 言葉にならない感傷が、頼時の病んだ身体を次第次第に加熱していった。

 知らぬうちに両の指へと力がこもる。

 だが、ふたりがおのれだけの美しい世界へ人知れず浸っていられたのは、ほんのわずかな間だけだった。

 それは、城代家老・姉倉玄蕃の放つ怒号がその場の空気を文字どおり震撼させたからだった。

「葵を、我が義娘むすめを返せだと!」

 両目を真っ赤に血走らせ、獣のように彼は叫んだ。

「この痴れ者が! ふざけたことを! 葵は我が義娘であるばかりではない。金森の跡を継がれる若君の妻として、その血を後世に残す役を得た大切な身じゃ。それを、そなたのごときどこの誰ともしれぬ犬っころに渡す義理など毛頭ないわ! 不届き者め。おのが分相応を知るがいい!」

 恰幅のある魁偉な容貌が真っ赤になって膨れあがる。

 それはこの男にとり、これまでおのれの論敵を幾度となく威圧するのに用いてきた有意義な武器のひとつだった。

 確かに玄蕃ほど押し出しの強い男が目をむきながら大声で怒鳴れば、それを理性的にやり込めようとする論者はさほどの数には及ぶまい。

 しかし古橋ケンタは、その心胆は、そんな彼を前にしてなお小揺るぎすらもしなかった。

 寸分も声を荒げることなく、玄蕃の怒声に彼は応えた。

「ふざけたことを言っているのはそっちのほうじゃないのか」

「なんだと?」

 玄蕃の掲げた疑問符に、ケンタは正論を投げかける。

「葵さんのお父さんは、いまもむかしもこれからも、秋山弥兵衛先生ただおひとりだ。そっちこそ、世迷い言は大概にしてもらおうじゃないか。そして、葵さんの人生を決めるのは、あくまでも葵さん本人だ。それ以外には誰もいない。神さまや仏さまだって、その例外じゃあないはずだ。なのにあなたは、いったいなんの権利があって葵さんの人生を、その行き先を自分の都合で決めつけようとしてるんだ?」

「黙れい!」

 その発言が玄蕃の感情に油を注いだ。

 憤怒の余りおのが顔面を般若のごとく歪ませながら、鷲鼻の家老は口角から泡を飛ばして吐き捨てる。

「この葵は、母方より金森が血を引く紛れもない金森が姫じゃ。秋山が娘であったのは、その筋から言えばあくまでも仮の姿。金森が姫であるいまの葵こそが、この者の誰疑うことなきまことの姿じゃ。

 金森が姫が金森の娘として生まれた家に殉じるは、それこそ当然のことであろうが。おぬしにはそれがわからぬのか! 第一、秋山弥兵衛はすでにこの世におらぬ。そなたは黄泉路へと旅立った者を盾に、理不尽にも我が義娘がおんなとして幸せを掴むを阻もうとするのか」

「ふん。葵さんの幸せか」

 ケンタは玄蕃の口上を、鼻を鳴らして嘲笑った。

「秋山先生を手に掛けさせた黒幕が、よくそんな綺麗事を言えたもんだ」

 「な、何を言うのだ、おぬし」と狼狽の色を見せる玄蕃を無視して彼は言う。

「しらばっくれるな! 武太って男が教えてくれたぞ。秋山先生を襲い、葵さんを拐かそうとしたのは、全部あなたの指示だったってな」

「ぬうう……黙れっ!」

 言い逃れはできないと察したのであろう。

 鷲鼻の城代家老は、ケンタの言を圧殺すべく真っ向から開き直った。

「黙れ黙れ黙れ黙れぃ! すべては我が私利私欲のためにではない。すべては我が主家たる金森が血筋を守るため。我が仕えるべき飛騨高山藩を救うためじゃ。そなたのごとき小者にはわかるまいが、事のすべては飛騨金森三万八千石を守るための義挙。およそ正義を貫くためとあれば、少々の犠牲などは常に付き物となるのじゃ! 

 それとも古橋とやら。おぬしは、百年続く由緒ある金森家が絶え、飛騨高山三万八千石が潰えても一向に構わぬとでも申すのか?」

 それは、個人の自由よりも血筋や家系の重みこそがより優先される武士の時代において、いわば正論とも捉えられる発言だった。

 玄蕃個人も、そしてそれを聞いていたほかの藩士たちも、およそ異論などは口にできなかったことだろう。

 おそらくは葵や頭白の立場においても、その思想は同様の価値を持っていたに違いなかった。

 しかしこの場にいる成人たちの中で、ケンタは、古橋ケンタだけはそうでなかった。

 毅然として胸を張り、彼は寸分も悪びれることなくとんでもないことを言ってのける──そのとおりだ、と。

 玄蕃の、藩士たちの、そして葵や頭白、なかんずく頼時の表情に戦慄が走った。

 瞬時にして、彼らの口から言葉というものが消失する。

 そしてケンタはそんな者たちを一顧だにせず、おのれの思いを一気呵成に言い放った。

「聞こえなかったのか。じゃあ、もう一度だけ言ってやる。

 そのとおりだ!

 あなた方は侍なんだろ? 侍ってのはなんだ? 侍ってのは、士道に生き、士道に殉じる覚悟を持った、そんなまっすぐな連中のことを言うんじゃないのか?

 そして、士道ってのはなんだ? 士道ってのは、守るべき何かのために自分のすべてを費やしてもなお悔いない、そんな清廉で揺るぎない魂のことを言うんじゃないのか? 

 いまは亡き秋山先生が、この俺にそう教えてくれた。ご自分の命を賭けて、ご自分の生き様でもって、この俺にその真髄を示してくれた。

 だから、いまここで俺は断言する。

 あなた方は間違ってる!

 あなた方はいま、葵さんを、なんの責任も持たないひとりの女の子の人生を踏みにじってまで、自分たちだけの今日と、そして明日とを必死になって守ろうとしている。

 それは侍にとって相応しい行いなのか? 士道に則った行いなのか? 

 いいや違う! 断じて違う! 絶対に違う!

 いまあなた方がやろうとしている行いは、侍にとって相応しい行いじゃない。士道に則った行いじゃない。いやそれどころか、その行いは人の道にすら反してしまってるじゃないか。

 俺の聞き間違いじゃなければ、さっきあなたはこう言ったよな。葵さんが犠牲にならないと、由緒ある金森家は絶え、飛騨高山三万八千石は潰えると。

 じゃあ、俺のほうからあなたに向けて尋ねたい。

 侍としての矜恃をなくし、胸の内から士道までも投げ捨て、いま人の道からも外れようとしているあなたに向けて、この場ではっきりと尋ねたい。

 あなたにとって、侍のいない金森家ってのは、いったいなんのための金森家なんだ?

 士道を忘れた高山藩ってのは、いったいなんのための高山藩なんだ?

 もしあなたの言うとおり、そのを生け贄に差し出さなければすべてがうまくいかないっていうのなら、むしろそれこそちょうどいい機会じゃないか。

 そんな誇りを失った大名家なんて、藩なんて、世のため人のためさっさと滅んでしまえばいいんだ!」

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