第三十六話:繋がる命
葵さん!
声を涸らさんばかりにケンタは叫んだ。
葵さん。
どこです?
どこにいるんです?
返事をしてください!
いったい何度、そんな呼びかけを繰り返したものだろうか。
すでにその回数は、彼の記憶の片隅にすら存在していない。
発言者の望む反応が返ってくることは一度もなかった。
張り上げられたその声はすぐさま濃密な闇の彼方へと飲み込まれ、そのすべてが、周囲に響き渡ることもなく霞のように消え失せてしまっていた。
だが、それでもなおケンタは諦めなかった。
深く傷付き、いまも流血が続く肉体を文字どおり引きずるようにしながらも、彼は断じておのが前進を止めようなどとはしなかった。
まるでそれが我が身の背負った宿命だとでも主張するがごとく、歯を食いしばりながら二本の脚を動かし続けた。
そこは、文字どおり墨のような黒一色に満たされた空間だった。
ねっとりとした鬱々たる空気が、ケンタの行く手を阻むかのごとく身体中へとまとわりつく。
いや、それは空気と呼ぶにはあまりにも違和感を覚える存在だった。
むしろ、コールタールに近いとも言えるほどの粘り気と重さとを兼ね備えていた。
いまケンタは、そんなものが充満するこの世界をたったひとりで歩んでいた。
あたかも悪臭立ち上る汚泥の海を掻き分けるようにして、一歩一歩、ときおり苦悶の表情を浮かべながらも懸命に前へ前へと進んでいた。
片足を持ち上げるたび、身体の各所に激痛が走る。
高圧の電撃が、彼の背筋を脳天目がけて突き抜けるのだ。
幾度となく、その喉奥からは痛苦の声が漏れ出していた。
顔面からは滝のように脂汗が滴り落ちている。
見る者によっては、痛々しさに目を背ける筋すらあったであろう有様だった。
だが、ケンタにはそうしなければならない、あまりにも明確すぎる理由があった。
彼はいま、おのれにとってもっとも大事な、この世にふたつとない宝玉を必死になって探し求めていたのだ。
星屑ほどの明かりすら見出すこと叶わぬ暗闇のなか、彼は、古橋ケンタは、秋山葵というたったひとりの少女の姿、ただそれだけを懸命に追い続けていた。
その存在は、この愚直なまでにひたむきな青年にとり、およそ何物にも代えがたい輝きを放つ金剛石にすら匹敵していた。
断じて失うわけにはいかなかった。
断じて損なうわけにはいかなかった。
その飾り気のない使命感が、ともすれば折れそうにもなる彼の肉体と精神とを、まさしく根本から突き動かす原動力となっていた。
ずしりと重い疲労感が、否応なしに全身を包む。
それは、この超絶の体力を持つ大男が思わず膝を屈したくなるほどの代物だった。
おそらくこれが常人の場合であったなら、その者はとうのむかしに足を止め、ぐったりとこの場に座り込んでいたに違いあるまい。
その結果を疑う要素などは、これっぽっちも見付からなかった。
新しく清浄な大気を求め、ケンタは激しく苦しみ喘いだ。
大きく開けた口からおのが肺胞にどれだけ酸素を送り込もうとも、いまにも爆発しそうな胸腔には安らぎなど一向に訪れる気配がなかった。
むしろ、その苦痛はより一層深いものへと変わりつつある。
そんな彼の耳元で誰かが甘言をささやいた。
どうした?
苦しそうだな。
その声がケンタに尋ねる。
おまえはいったい何を好きこのんで、わざわざそんなつらく険しい苦行の道を選ぶんだ?
世にあふれかえってる「普通の奴ら」は、もっと姑息に狡猾に、おまえと違って気軽で易しいなだらかな道筋を選んでいるぞ。
護りたい女?
助けたい女?
おいおい、よく考えてみろよ。
その娘は、いったいおまえのなんなんだ?
少なくとも、おまえの「女」でありはしないよな?
だったら、なんでおまえがそんな娘のために傷付いて苦しい思いをしなくちゃいけないんだ?
その理由は、根拠ってのはいったいなんだ?
もしかして、いまのおまえを支えているのは安っぽい
莫迦じゃないのか?
莫迦じゃないのか?
おまえ自身になんの見返りもないのに、縁もゆかりもない赤の他人の利益のため、自分勝手に汗をかいて血を流す。
まったく、どれだけお人好しなんだか。
そんなだから、そんな考えなしだから、大した富貴も名声も得られずにいまみたいな目に遭ってしまうんだ。
そら、どうした?
苦しいのだろう?
苦しいのだろう?
本当のことを言ってしまえよ。
やせ我慢なんてしないでさ、思い切って楽になってしまえよ。
しょせん違う時代に産まれて生きた、おまえとはまったく関係のないただの小娘のことじゃあないか。
おまえの人生と引き替えにするほどの価値があるようなもんじゃない。
きれいさっぱり見捨てたところで、筋金入りの偽善者以外はおまえのことを責めたりしないぜ。
仮にそう言っておまえを責める奴らがいても、そいつらだってどうせ命がけの人助けなんてできやしないんだ。
おまえが開き直ったところで誰も文句は言えないはずさ。
ほらほら、だんだんその気になってきただろ?
我慢は身体に毒だぜ。
休んじまえよ。
屈しちまえよ。
そいつは、世の中のみんながなんだかんだ言いながらそれでもやっぱり選んでしまう道なんだから、おまえだけがその選択を気に病む必要なんてどこにもないんだ。
遠慮なんてするなよ。
綺麗事なんて言うなよ。
ほら、ほら、ほら、ほら、ほらほらほらほら──…
うるさいぞ、あんた!
姿を見せない誰かに向かって、心の中でケンタが怒鳴った。
俺が莫迦だって?
何をいまさら。
気付くのが十年遅いぞ。
いいかよく聞け。
俺はプロレスラーだ。
プロレスラーなんだ。
「この世で一番凄いプロレス」ってのを求めて、日々自分自身をいじめ抜いてる大莫迦野郎なんだ。
富貴?
名声?
それがなんだ。
それがどうした。
周りの連中がそういうのを必死になって追いかけているから、おまえも負けずにあとを追えってか?
おいおい、そっちのほうがよほど莫迦莫迦しいだろ。そうは思わないか?
俺はな、初めっからそんなものは求めてないんだよ。
求めるつもりなんて、端からこれっぽっちもないんだよ。
なぜかって?
そいつは、この俺の追いかけているものが「夢」だからさ。
俺が夢見てるプロレスラーって奴はな、もとより賢くなんてないんだよ。
たとえその機会があったとしてもな、要領よく立ち回って小金を稼ぐような、そんなせこい真似はしないものなんだよ。
真のプロレスラーってのはな、早い話が「ヒーロー」なんだ。
応援してくれるファンの夢と希望を一身に背負い込んだ、そんなまぶしい存在じゃなきゃいけないんだ。
ヒーローは自分のためには闘わない。
血も汗も流さない。
ヒーローが血と汗を流すのは、いつだって自分以外の誰かのためだ。
ヒーローは、いつだって誰かの夢を希望をその背中に負いながら、そいつを護り成し遂げるため強大な敵に立ち向かっていくものなんだ。
強大な敵に立ち向かうからこそ、ヒーロー足り得るものなんだ。
どうだ、かっこいいだろう?
そうは思わないか?
気持ちの悪い自己陶酔。
現実見てない自己満足。
へっ、なんとでも言えばいいさ。
目に見えるちっぽけな利益にだけ手を伸ばして自分の人生熱く生きられない奴の言葉なんて、俺の胸には響かない。
小賢しく浅ましく、周囲に妥協しながら意地も張れない人生なんて、端からこっちで願い下げだ。
そういうのを「莫迦なことだ」って言うのなら、それこそ勝手にすればいい。
でも、自分の夢を追っかけるのが莫迦なことだというのなら、誰かの夢を背負い込むのが莫迦なことだというのなら、俺は莫迦で結構だ。
むしろ、大莫迦野郎で結構だ。
世界中のどこに出しても恥ずかしい、誰の目から見てもそう見える完全無欠の大莫迦野郎。
俺の追い求める立ち位置の巷での評価がそういったものなら、俺は喜んでその評価を受け入れてやる。
むしろ、そんな評価をして欲しいとさえ思ってやる。
その程度の覚悟もなしに、自分の夢なんか追っていられるか!
誰かの夢なんて背負い込めるか!
おぼえとけ。
この世知辛い世の中、すべてをかけて自分の夢を追いかけるなんてのは、莫迦野郎にだけ許された特権なんだぜ。
護ると決めた誰かのために自分のすべてを費やすなんてのは、莫迦野郎にだけ認められた専売特許なんだぜ。
そうさ。
この俺は、前後左右どこから見ても、この世に生きてる誰から見ても、見間違えのないほどに立派で素敵な大莫迦野郎なのさ。
そんな俺が、本当の意味で誰かのヒーローになれるかもしれない絶好の機会を、みすみす逃すとでも思っているのか?
笑わせるな。
俺はヒーローになるんだ。
どんなことをしてもヒーローになるんだ。
最高のプロレスラーを目指したひとりの男として、俺はあの
こんなことぐらいでその「夢」を諦めるくらいなら、最初からプロレスラーになろうなんて思うものかよ。
思うものかよ!
目の前に立ち塞がる分厚い闇のヴェールの向こうでほんの小さな光が瞬いたように見えたのは、ケンタが絶叫とともに甘美な誘惑をはねのけた、まさにその瞬間の出来事だった。
ちりん、と澄み切った鈴の音が鳴る。
彼が訝しむ間もなく現れた光の点は見る見るうちにその面積を拡大し、それはやがてひとりの少女の形を成した。
白い長襦袢を身にまとった、華奢で小柄で可憐な少女──それは紛れもなく、いまケンタが必死に探し求めていた娘、その「希望」とやらをおのが双肩に乗せると誓った娘・秋山葵そのひとの姿にほかならなかった。
身体全体を投げだすようにして懸命に右手を伸ばす彼女の口から、ケンタの名前がほとばしり出た。
『古橋さま!』
「葵さん!」
ケンタもまた、彼女の呼びかけに全力で応えた。
軋む筋肉に強引なまでの鞭を当て、疲労という名のくびきを無理矢理に引きちぎらんと試みる。
血管が脈動して膨れあがり、肉のたぎりが心身の痛みを一瞬にして忘却させた。
それに応じて、まとわりつく闇の重さが倍増したような気がする。
しかし、ケンタはその抵抗を完全に無視した。
おのが奥歯をすり減らさんばかりに噛み締めつつ、彼は渾身の力でもって右手を伸ばす。
求めた少女の手を取らんとして、文字どおりおのが総力を注ぎ込んだ。
次第次第に距離を縮めるふたりの指先。
その双方がまさに触れ合う寸前にまで接近した、その瞬間にそれは起こった。
影のように実体を持たぬ無数の手が突如として周囲の闇より出現し、少女の身体を四方八方からたちまちのうちに絡め取ったのだ。
それらは海洋生物の触手を思わせる忌まわしき動きでもって、彼女の首に、腕に、腰に、脚に問答無用でまとわりついた。
あたかも、哀れな獲物を捕食せんとするかのごとくに、である。
みるみる動きを封じられ、少女の口から甲高い悲鳴があがった。
彼女は必死になって身を捩り、泣き叫びながら助けを呼ぶ。
『古橋さま、古橋さま、古橋さまあっ!』
だが、おぞましき影の手どもはいっさい容赦などしなかった。
その鋭い爪が音を立てて葵の着衣を引き裂く。
白米のように艶やかで滑らかな素肌が、いたるところであらわとなった。
「古橋さま、古橋さま」と繰り返される葵の叫声が、ケンタの鼓膜をそのたびたびに振動させる。
到底、見過ごすことなどできぬ所行だった。
怒りの感情がケンタの中で湧き上がり、膨れあがって爆発した。
「葵さんっ!」
大気を震わす怒号とともに、ケンタはおのが巨体を突進させた。
丸太のような両腕を振り回しつつ、力を込めて足下を蹴る。
しかし次の瞬間、彼の身にもまた影の手どもが襲いかかった。
音もなく伸びてきた無数のそれらがケンタの足首に巻き付き、その身体を一気に引きずり倒したのだ。
さらに現れた影の手どもはうつぶせに倒れたケンタの肉体を下方より束縛し、地の底深くへ引きずり込むべく計らった。
凄まじい力だった。
烈々たる抵抗も空しく、彼の身体は底なし沼のごとき暗闇のなかへずぶりずぶりと飲まれていく。
「葵さん!」
目を血走らせてケンタは叫んだ。
「畜生」という、あまりにも彼らしからぬ呪詛の言葉までもが、その喉の奥から何度も何度もほとばしった。
ひとならざる異形の者によって、いままさに陵辱されつつある可憐な少女。
敬意を抱いた恩人より託され、自らもまた一命を賭して護らんと誓った大事な少女。
そのかけがえのない存在の放つ聞くに堪えない哀願が続けざまにおのれの耳へと届くたび、ケンタは激しく歯噛みし、そして咆吼した。
ひとりの男として、自らの力不足を心の底から嘆き、悔やみ、呪いの声を張り上げた。
だが、断じて諦めることだけはしなかった。
諦めという怯懦の道を、おのれの選択肢に用意するような真似だけはしなかった。
それは、諦めという甘えを拒絶することこそ、自らが手に入れ得た人生最良の武器なのだと確信していたからにほかならなかった。
ゆえに、であった。
影の手どもがその頭を闇のなかへと押し込み切るまで──そう、双眸が葵の姿を、彼が自ら護るべき存在と定めた娘を映さなくなるまさにその寸前まで、ケンタの眼光は灼熱の精気を失うことはなかった。
必ず助ける!
この時、ケンタの脳裏にはただそのひと言だけが延々と木霊していた。
必ず助ける。
助ける。
助ける!
俺はプロレスラーだ。
ファンになってくれたあの
そうなるって……そうなるって、この俺、古橋ケンタは決めたんだ!
だから絶対に諦めない。
諦めない。
諦めない。
諦めたりなんてするものか!
葵さん、待っててください。
そこにどんな困難が待ち構えていても、俺は必ずあなたのもとに行きます!
あなたのもとに行って、必ずあなたを助け出します!
たとえ俺自身がどうなろうとも……たとえ俺自身がどうなろうとも、です!
だから、葵さん。
待っててください!
必ず俺が助けます……
必ず俺が……
俺が……
俺が……
俺が!
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