第三十七話:七十二時間

 「葵さん!」とひと声叫んで古橋ケンタが飛び起きた時、その目の前にあったものは、求めた少女の顔ではなく分厚い唇を備えた無骨なアフリカンのそれだった。

 その、あまりに唐突極まる邂逅に、彼は思わず表情を強ばらせる。

 過剰なまでに引きつった口元が、その心情を何よりも雄弁に物語っていた。

 青天の霹靂とはまさにこのことだろうか。

 だが混乱した思考が徐々に鎮まりを見せるにつれ、ケンタはそのアフリカンの顔が見覚えのあるそれだということに思い至った。

 ボブサプだった。

 常陸のちりめん問屋「水戸屋」の隠居・光右衛門の供をしている、遠い異国よりやって来た使用人。

 あるいはケンタをも上回るやもしれぬほど肉厚な体格を有するこの男は、直面した状況の変化にも眉ひとつ動かすことなく、野太い声で板戸の向こうに声をかけた。

「ご隠居さま。いま、古橋殿目覚めた」

 わずかに間を置いて板戸が開くと、隣り合った部屋から複数の男女が文字どおり雪崩れ込むようにしてこちら側へと入ってきた。

 板の間の中央に敷かれた布団の側で膝を折るやいなや、彼らはその上に横たわるケンタへ向かって思い思いに言葉を投げた。

「古橋殿!」

「古橋さまぁ!」

「ケンタ師匠!」

「古橋さま!」

 ゆっくりと顔を傾け彼らの存在を視界に収めたケンタもまた、それらに応じて口を開く。

 「ご隠居……おみつさん……鼓太郎……茂助さん……」と各々の名をそれぞれぽつりと呟いたのち、彼の唇は当然とも言える疑問をひとつ紡ぎ出した。

「ここはいったい……」

「わしがやしろの本殿ですだ」

 その質問に応じたのは、秋山家で住み込みの下男を務めていた老爺・茂助だった。

「やしろ?」

「へぇ」

 茂助は答えた。

「戦国のおり、武田の山県昌景が飛騨攻めに来るまで、わしのご先祖さまはここの神主をしていただよ。随分とむかしのことだて何を奉っておられたのかはさっぱりわからねえだども、それだけは間違いねえです」

「で、そんな茂助さんが受け継いで手入れを怠らなかったこの社を、これ幸いと、いま私どもは隠れ家に使っているというわけです」

 出し抜けにそう会話を引き継いだのは光右衛門だった。

「本当に運がよかった。もし鼓太郎殿らが私どものもとへ来るのがあと少し遅れていたなら、そこなボブサプがあの雨のなか、燃える道場にて倒れ伏すおまえさまのことを見付けられなかったなら、古橋殿、おまえさまはとうにこの世の人ではなかったでありましょうな」

「ありがとうございます」

 ケンタは素直に礼を言った。

「本当なら、ご隠居さんたちにここまでしていただくいわれなんてないはずなのに……」

「何、『袖触れ合うも他生の縁』という奴でございますよ」

 にっこりと相好を崩し、光右衛門は応えた。

「感謝の言葉は、頑丈な身体に産んでくださったおまえさまの御両親に伝えなされ。それと私以外のここにいる者たち、ことにおみつさんにはよくよく申し伝えなされ」

「おみつさんに?」

「いかにもいかにも」

 いささか悪戯っぽく老爺は告げた。

「深手を負い、雨に打たれて冷え切っておったおまえさまの身体を暖めるべく肌を貸してくださったのは、誰あろうそこにいるおみつさんですぞ。おまえさまにとって、いわば命の恩人の筆頭とも申せましょうな」

 肌を貸す、という言葉の意味を当初理解できずにいたケンタだったが、ひと呼吸おいたのちになってようやくその本質へと辿り着くに至った。

 要するにそれは、いま自分の側で心配そうにこちらを見下ろしてくれている木訥そうな村娘が、彼女にとって夫でもない許嫁でもない男の身体へ寄り添ってその身の温もりを分け与えてくれていたのだということである。

 この時点でケンタは気付いた。

 おのが肉体を覆っている異物が、掛けられた薄い布団以外には傷口を覆う包帯だけであるという事実に、だ。

 それがいかなる現実に直結するものかを瞬時にして悟らされ、ケンタは一気に赤面した。

 動揺の色もあらわにおみつのほうに目をやると、彼女もまた鮮やかに頬を赤らめ顔をうつむかせている。

 勢い、怒濤のような気恥ずかしさが背中のほうから押し寄せてきた。

 「あの、その」と決まりが悪そうに目を泳がせてから彼は、「お世話になりました」という聞きようによってはどこか意味深な台詞をおみつにむかって口にした。

 無論、そこにいっさいの他意はない。

 ただ、それ以外の言葉が思い付かなかったからだけの話だった。

「お礼には及ばねえですよう」

 その言葉に、肩をすくませおみつは応えた。

「なんでもできなさるお嬢さまと違って、あたしなんかが古橋さまにして差し上げることなんてこんなことぐらいしかねえものですから……」

「謙遜することはありませんぞ、おみつさん」

 放っておけばそのまま沈黙してしまいそうな両者の雰囲気に光右衛門が助け船を出した。

「誰にでもできる。仮に余所からそう見えたとしても、それが真の意味で誰にでもできることではないという事柄が、この世の中には数多あるものでございます。例を申せば、あなたさまが古橋殿にしてみせた献身などは見事その範疇に含まれましょう。あまりご自身を卑下してはなりませんぞ。あなたの為し得た行いは、誰がなんと言おうとも胸を張っていい立派な行いであるのです。左様でございますな、古橋殿」

「そのとおりです」

 光右衛門の振りに、短くも確かな口調でケンタは答えた。

 それは断じて社交辞令などではなく、彼の本意に相違なかった。

 そういえば、いまはいったい何時なんだろう?

 そんな愚にも付かない疑問符がケンタの脳裏に浮かび上がってきたのは、彼がそうした一連の会話を終えたまさにその直後のことであった。

 改めてケンタがおのれの周囲に目を運ぶと、彼が寝かされているのは六畳ほどもあろうかという狭い板の間の中だった。

 その壁面の一角には、かつて何かが奉ってあったのだろう名残がきっちりと残されている。

 鼓太郎ほどの子供がひとり、窮屈ではあるがなんとか座れる程度の空間がその部分には穿たれてあった。

 なるほど。その造りを見る限り、ここが神社の本殿なのだという茂助の説明に疑う余地はなさそうだ。

 もっとも、戦国時代、それも武田信玄が現役だった頃の話となれば、元禄の世から遡ること百年以上もむかしのことだ。

 そこに果たして何が奉られていたのかは、もはや忘却の彼方にある事象と述べても構うまい。

 事実、この社を代々受け継いできた茂助ですらがそれを知らずにいるのだから、それは余人であれば推して知るべき事柄だった。

 社の中は妙に薄暗いものだった。

 もっとも、外界より明かりが射し込めていないのだからそれも当然なことだと言える。

 およそ空間内で光を発しているものと言えば、ケンタの枕元に置かれた燭台、その上で灯る一本のろうそくだけだった。

 時間の感覚がまったくなかった。

 そのことを自覚したケンタは、まだ完全に覚醒しきらぬ頭の中で漠然とだが自問する。

 果たしていまは夜なんだろうか?

 それとも昼なんだろうか?

 いやそもそも、俺が秋山道場で意識を失ってから、いったいどれぐらいの時間が経過しているんだろう?

 少なくともそれは、一時間や二時間じゃあ済まないはずだ。

 ここが茂助さんの地元なのだとしたら、多分それは久々野村の近辺に違いない。

 もしその予想が当たっているなら、秋山先生の道場からここまでの行程は余裕でその倍以上かかる計算になる。

 ましてや、あのボブサプにしてみたところで、百二十キロある俺の身体を抱えながら雨の夜道、それも峠を越える道筋をそれ以下の時間で踏破できたとはとてもとても思えない。

 となれば、あれから半日から丸一日……もしかしたら、それ以上の日にちが経っているんじゃないのか?

 そうなっていても不思議じゃないんじゃないのか?

 だとしたら、だとしたら……

 不意にケンタの中で、何かが激しく爆発した。

 突如として上体を跳ね起こした彼は、まるで親の敵にでも食ってかかるような勢いでもって水戸屋の隠居に噛み付いた。

「ご隠居さん。いま何日ですか?」

 まさしく掴みかからんばかりの形相で、ケンタは光右衛門に肉迫する。

「あれからいったい何日経ったんですか?」

「な、七日だ」

「七日だって」

 勢いに負け半ばうろたえたように返された光右衛門の答えを聞き、ケンタは思わず瞠目した。

 茫然自失とさえ見える表情を浮かべ、「なんてこった……」とひとりごちる。

「こうしちゃいられない!」

 彼が布団をはねのけ立ち上がろうとしたのは、次の刹那の出来事だった。

 衆目に全裸を晒すことも厭わず、ましてや咄嗟のことになんの反応も示すことができずにいる周りの者など視野にも入れず、ケンタはおのれの衝動がおもむくままに外界へ向け飛びだそうと試みたのだ。

 だが、肉体の損傷がそんな彼の試みを見事なまでに掣肘した。

 刀槍により深手を負ったケンタの身体は、その所有者の意向に完全無欠な「No」を突き付けたのだ。

 想像を絶する激痛が彼の全身を走り抜けた。

 これまでケンタが積み上げてきた苦痛への耐性など銃弾に対抗する障子紙にすら等しかった。

 立ち上がることすらできずに、獣のような唸り声を上げてケンタはその身を屈ませた。

 みるみるうちに震える背中から脂汗が滲み出してくる。

 ぎりぎりと音がするほどに歯を食いしばり必死になってその痛苦を克服せんとするケンタだったが、その努力は一向に実を結ぶ気配を見せなかった。

「それみたことですか!」

 そんな風にケンタを一喝した光右衛門が、彼の両肩をゆっくり押して床の上に寝かしつけようとする。

「およそ昨日の今日まで死にかけていた人間が、左様な無理無茶をするものではありませんぞ! おまえさまの身体は、いまおまえさまが思っている以上に傷付き弱っているのです。大体、縫うた傷口ですらまだ塞がっておらぬのというのに、いったい何をしにどこに行こうというのです? せっかく助かったその命を、今度こそ無駄に捨てようとでもいうのですか? 私どもの尽力を無に帰そうとでもいうのですか?」

「葵さんが──」

 肩に乗った光右衛門の手を上から握り、きっぱりとケンタは応えた。

「葵さんが、俺を待っているんです。俺は行かなくちゃいけない。あのを助けに、助けに行かなくちゃいけないんです!」

「落ち着きなされ、古橋殿」

 決死の形相を見せるケンタに向かって、光右衛門は優しく諭すように促した。

「まずはおまえさまと葵さんの身にいったい何が起こったのかを、この年寄りに話してみてはくださらんかな? さすればこの光右衛門、年の功からおまえさまに良い知恵を授けることができるやもしれませんぞ」

 深みを備えた老爺の眼差しが荒れ狂うケンタの心魂をまともに捉えた。

 そこに込められた掛け値なしの誠実さが、大時化の海原にも似た激情をたちまちのうちに宥めていく。

 その経過は、見ている者にとってまるで魔法のごときですらあった。

 やがて落ち着きを取り戻したケンタは、光右衛門の導くがままに寝床の上へその巨体を横たえた。

 彼はそのままゆるりと深呼吸を繰り返し、どこか憑き物が落ちたようにまっすぐな視線を何もない天井目がけて送り込む。

 さらにひと呼吸置いたあと、ケンタは自分たちが鼓太郎たちと別れたのちにいったい何が起こったのかをぽつりぽつりと語り出した。

 嘘偽りどころか主観的な脚色さえも込めず、ただ自らが遭遇した現実のみを蕩々と皆へ伝えた。

 その口から過去の事象が言葉となって紡ぎ出されるにつれ、光右衛門の表情には段々と険しさが増し、鼓太郎のそれからはうっすらと血の色が失せていった。

「城代家老・姉倉玄蕃、でありますか」

 光右衛門が、文字どおりの嫌悪とともにその男の名前を吐き出した。

「できる男、とは聞いておりますが、同時に芳しからぬ噂をも持つ御仁でございますな。なんでも、若い時分には罪もなき城下の娘を自ら手込めにしたこともあるとか。家中に置ける先祖伝来よりの権勢なくば、とうに処罰されてしかるべき仁と申せましょう」

「そんな奴に、あの頭白さまが従ってるなんて……」

 虚ろな目でおのれの膝上を見詰めつつ、鼓太郎が呆然とした口振りでそんな思いを口にした。

 やむを得ない反応だろう。

 益田川の河原にてケンタを一蹴した彼の武人──白髪の僧侶・頭白とは、彼にとっては優しくも頼りになる、まさしく実の親同然の人物であったのであるから。

 そのような信愛すべき男性が、こともあろうかいま自分たちの「敵」として現れ出でたというのである。

 いまだ世の中の裏表を知らぬ齢十の少年にとって、それは易々と受け入れることはばかられる事象に相違なかった。

 そのことを想像するのは、余人にとりあまりにも容易い行為であった。

「その頭白なる法師」

 惚けたように沈黙する鼓太郎の様子を横目で眺めた光右衛門が、あえてそれに気を掛けることもなくさらりと話題を切り替えた。

「それほどに使える者でありますのか?」

「ええ」

 小さく頷いてケンタは答えた。

「もし俺の身体が五体満足でも、あの状況で勝てたとはとても……」

「左様か」

 光右衛門もまた、そんなケンタの反応をまこと素直に受け止めた。

「おまえさまがそうおっしゃるのなら、それは確かな真実であるのでしょうな」

「でも、俺は行かなくちゃならないんです」

 ケンタはそう光右衛門に告げながら、ふたたび身体を起こそうとする。

「俺がこんなところでこんなことをしているうちに、葵さんがどんな目にあっているかと思うと……」

「古橋殿、左様焦りなさるな」

 そんなケンタを改めて押し止めつつ、諭すように光右衛門は言った。

「とりあえず何か名案がないものか、この年寄りがひと晩じくと考えてみますゆえ、いまはゆるりと養生なされ。おまえさまの成すべきことは、まずその身体を癒やすことにございますぞ。考えてもみなされ。そのような身体で、たとえ五体満足でも及ばぬと思える敵手にいったいどのようにして立ち向かうおつもりなのです? それこそ無謀を通り越し、千尋の谷へおのが身を投げ落とすのと同様の暴挙ではありませぬか」

「身体を治す、か」

 ケンタの瞳に小さく明かりが灯ったのはその時だった。

 彼はおもむろに茂助とおみつのほうを向き、「肉はないですか?」と唐突極まる質問を投げかけた。

「肉、でございますか?」

「そうです」

 まさしく真剣そのものといった風情で彼は言った。

「鳥でも魚でも獣でも構いません。とにかく血の滴るような肉って奴を、たっぷりと用意してはもらえませんか?」

「そげなもの、いったいどうしようっておっしゃるんです」

「食う!」

 きっぱりとケンタは言い放った。

 光右衛門の制止を振り払って上体を起こした彼は、その目の奥に強靱な意志を秘めた輝きを爛々と湛えつつ、大声でおのが持論を宣った。

「三日です。三日のうちに、この身体、万全の状態にまで持ってって、俺は葵さんを助けに行きます。でも、いまのままじゃあ『血』が足りない。食って食って食いまくって、まずはそいつを補充します。だから、なんでもいいんです。俺の血肉になるような食い物を、じゃんじゃんここに持ってきてください!」

「三日って」

 気でも狂ったのか、とでも言いたげな表情を浮かべて鼓太郎がケンタに言った。

「その怪我が三日でなんて治るわけないじゃないか。師匠! 師匠は本当に本当、ご隠居さんの言うとおり昨日の今日まで死にかけてたんだよ。それを三日で治して葵姉ちゃん助けに行くなんて、そんなの無理だよ。できるわけないよ」

「うるさい!」

 そんな愛弟子の哀願をケンタは文字どおり一蹴した。

「七十二時間あれば家だって建つ。プロレスラーってのはな、怪物なんだ。超人なんだ。普通の人間ができないことだって、道端の石ころ拾うみたいに平然とやり遂げられるものなんだ。一般常識、大いに結構! 無理無茶無謀、大いに結構! そんなものにいちいちこだわってたらな、金の取れるプロレスラーになんてなれやしないんだよ!」

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