第三十五話:おんなの牙

「友誼と……約定で、ございますか?」

「左様」

 大きく頷いて頭白は告げた。

「巡り合わせゆえ干戈交えることと相成りましたが、それがし、彼の御仁には深い尊崇の念を抱いてござる。

 武の技というものが立身出世の道具と化したこの泰平の世にあって、それを用いておのが心身を昇華させようと目指す者はまさしく希少。そして古橋殿は、紛れもなくその希少な者の数に含まれるべき仁でござる。過日の夜、互いに腹開いて語りおうたおり、そのことが実にようわかり申した。

 葵殿。それがしは益田川の辺にて古橋殿と立ち会った際、こちらから斯様な約定を申し出ました。『いま降っていただけるなら、そこもとと葵殿の身の安全はこの頭白が身命をもって保証致す』と。それがしも、かつては武士の末席に身を置いたひとり。ひとたび口にした約定を違えるなど、到底できるものではございませぬ。

 無論、古橋殿がそれがしの申し出を拒まれあえて自ら争う道を選ばれたからには、左様な約定などもはや存在せぬものと申すこともできましょう。されど、それがしにはそのように考えることなどできませぬ。そのような真似を成すこともできませぬ。

 古来、『男子たる者、千金を積まれてもその言を覆すことなかれ』と申します。確かにそれは賢い術ではないのでしょう。いや、むしろそれは愚か者よと罵られるべき術なのかもしれませぬ。

 されど葵殿。それがしは、たとえ愚者の誹りを受けようとも、こたびおのれの良心にこそ従い、そこもとの身柄を守護させていただく所存にござる。無論、この一命を賭して」

 そこまで一気に語り終えたのち、彼は「これをお返しいたそう」との言葉とともに布の袋に包まれた棒状の品をそっと葵の前に差し出した。

 ちりん、と小さく鈴の音が鳴る。

 それは、まさしくどこにでもありそうな一本の短刀だった。

 しかし同時にそれは、葵がこれまで宝物のごとく扱ってきた大切な大切な懐剣でもあった。

 もはや何物にも代えがたい、この世にたったひとつしかない彼女ひとりの護り刀だった。

「母御の形見とお見受けいたした」

 一瞬だけ言葉を失う葵に向かって、頭白は優しくそう言った。

「ここは葵殿にとっていわば敵地。武士の娘として、これを携えておかねばいささか格好が付きますまい」

 最後の言葉は頭白なりの冗談であったのだろう。

 到底面白く聞こえる内容ではなかったにしろ、それは重く沈んだ空気を和まそうとする彼一流の気遣いにこそ違いなかった。

 だが一方で、そうした気遣いが常に望まれた効果を示すわけでないことは、誰にでもわかる当然の理でもあった。

 ことに、生真面目で筋の通った物事を好む少年少女を前にした場合においては──…

「頭白殿」

 それは妙に淡々とした口振りだった。

 「お母さま……」と呟きながら受け取ったそれを両手でひしと掻き抱いた彼女が、おもむろに口を開いたのだ。

「武士の娘にとり懐剣とはいかな意味を持つものなのか、あなたさまにはおわかりでしょうか?」

 しばし唇を噛み締めたのち、顔を伏せたままで葵は尋ねた。

 問いかけの意味を捉え損ねわずかに声を失った頭白に構わず、彼女はまったく感情のこもらない人形のような仕草でぽつりぽつりと言葉を紡いでいく。

「武士の娘にとり、懐剣とはいざというとき我が身を守る武器であると同時に、辱めを受けようとする自らをその前に害するための刃でもあります」

 葵は言った。

「殿方にはおわかりいただけないかもしれませぬが、私ども武家の『おんな』は、我が身の貞操をかけがえのない名誉と同じに考えるものでございます。ゆえに、おのれがこれと決めた方に捧げんと誓ったそれを望まぬ者の手で汚されるのは、到底耐えがたき恥辱にござります」

「葵殿!」

 その発言の中に伏しがたいある種の決意を感じ取った頭白が、たちまちのうちに顔色を変えた。

 はっと両手を上げて彼は叫んだ。

「断じて、断じて早まってはなりませぬぞ! 死していったい何が得られましょうや。明日とは、希望とは生きていてこそのものでござる。何卒、何卒!」

「ひとつだけ……」

 そんな頭白の様子を意に介す素振りも見せず、穏やかな口調で葵は言った。

「ひとつだけ、頭白殿に確かめたき儀がございます。嘘偽り申すことなく真実をお答えいただけること、この場で約束していただけましょうか?」

「なんなりと」

 わずかに安堵の息を吐き、頭白は答えた。

「それがしの答えられる範疇でありますれば」

「なればお尋ねいたしとう存じます」

 ついと顔を上げ、改めて凜と背筋を伸ばしながら葵は問うた。

「我が父と古橋さまは、いまいかがなされておりましょうや?」

 突き刺すような彼女の目線をまともに受けて、頭白は一瞬たじろいだ。

 答えを知らぬわけではなかった。

 だが、知っている内容をそのまま目の前の少女に伝えるということに、強くためらいを感じてしまったのだ。

 おびただしい量の逡巡が、頭蓋の中で渦を巻く。

 ここはうまくはぐらかすべきなのではないか、とさえ思ってしまった。

 だが、結局のところ彼は、先ほどおのれが口にしたばかりの約定に従い、葵に向けただ真実のみを語った。

 そう、いま彼の知る真実のみを──…

「秋山弥兵衛殿は……亡くなられた」

 頭白は告げた。

 どこか自身のそれではないように思えてしまう視界のなか、小柄な少女がその身をぴくりと震わせるのを彼ははっきりと見て取った。

 胸中に苦い汁がこんこんと湧きだしてくるのを実感する。

 喉の奥が焼けたように痛い。

 しかし、なぜだか言葉を切ろうとまでは考えなかった。

 それがある種の不誠実だと思われてならなかったからだった。

「多数の討ち手を相手に背を向けることなく、武人として立派な御最期を遂げられたと側聞しております」

 努めて冷静さを保ちながら彼は続けた。

「古橋殿は……いまだその亡骸を確かめられてはおりませぬ。しかしながら、あれほどの深手を負われた上であの濁流に呑まれたのです。残念ながら、もはやこの世の人ではありますまい」

 そう言い終えた直後、頭白は、目の前に座する少女がおもむろにおのが懐剣を布袋より取り出すさまを見て取った。

 一時の躊躇もなく、その清廉な刃が抜き放たれる。

 葵はどこか尋常ではない瞳で、その血に汚れておらぬ白刃をまんじりともせず凝視した。

 刀身へ鏡のように映り込むおのが姿を黙って見詰めているのだろうか。

 その目の中には明らかに狂気の片鱗が浮かび上がっている。

「頭白殿」

 冷ややかに口元をほころばせながら葵は言った。

「武家の娘にとって懐剣とはいかなる役を持つものなのか。私、先ほどお話ししたものにもうひとつだけ付け加えることを失念しておりました。それをいま、あなたさまにお教えしても構いませぬか?」

「承りましょう」

 頭白は答え姿勢を正した。

 それを受けた葵は、眼前にかざした鋭刃へさも愛しげな眼差しを這わしつつ、自らの表情を薄ら笑いへと変化させた。

「懐剣は、武家の『おんな』の『牙』にございます」

 葵は言った。

「世の殿方にとって、『牙』とはおのが欲望を満たすための道具なのやもしれませぬ。虎が兎を狩るように、求めた何かを手に入れるための、そうそれだけのための刃なのやもしれませぬ。されど、『おんな』はそうではありませぬ。『おんな』にとって『牙』とは、おのが身と、心と、大切な何かを護るもの。ささやかな『いま』を、そう、ほんの小さな『しあわせ』と『誇り』、それらを護るためのものにございます。そして……」

「そして?」

「そして、もうひとつ。『おんな』の『牙』は、愛しき者を奪った相手、その喉笛に噛み付くためのものでございます。心委ねたその方の無念を晴らし、いまは亡きその方の仇を討つために必要な、唯一無二の武器なのでございます」

 手中の刃に向けられていた葵の瞳が、ふたたび頭白を指向した。

 その奥に猛禽の鋭さを携えた眼差しが、勢いよく彼の双眸を刺し貫く。

 頭白はそこに、限りなく未熟だがそれゆえに果てしなく純粋極まる強靱なひとつの意志を感じ取った。

 そう、殺意という名の、あまりにも澄み切ったひとつの意志の存在を──…

「あなたさまの申されるとおり古橋さまがこの世の人ではなくなってしまわれたのでしたら、頭白殿、あなたは私にとりあの方の仇ということにおなりです。左様、相違ございませんね?」

 葵の表情から薄ら笑いが消失した。

 決然とした面持ちが、それと入れ替わるようにして出現する。

「言い訳はいたしませぬ」

 葵の放った問いかけに異形の僧侶は短く答えた。

 その発言からわかるとおり、彼は眼前の少女から吹き付けられる激情をまったく避けようともしていない。

 むしろその姿勢は、我が身を襲う奔流をあえて正面から受け止めるかのごとくにうかがえた。

 ひと呼吸置き、頭白はゆるりとまぶたを閉じた。

 それは、紛れもなくある種の誘いにほかならなかった。

 さあ、望むがままをなされませ──無言のまま、彼はそうはっきりと告げていた。

 どこか挑発めいた態度であった。

「なれば」

 その直後、葵のまなじりが吊り上がる。

 彼女は叫んだ。

「お覚悟を!」

 刹那ののち、葵は短く突進した。

 どしんと身体ごと委ねるように、異形の僧侶へおのが「牙」を突き入れる。

 鋭い切っ先が彼の右胸を抉った。

 肉を突く手応えがたちまち全身へと伝わる。

 あとひと息、あとひと息深く踏み込めば、彼女の「牙」は「仇」の喉笛を噛み破ることになっただろう。

 その可能性は極めて高いものだった。

 しかし、そのひと息を成すことが叶わなかった。

 葵はおのれの殺意が求めるままに、何度も何度もひととして禁じられた一線を越えようとした。

 越えようと試みた。

 でも、できなかった。

 まるで心のどこかに強いたががかけられているかのごとく、彼女の肉体は持ち主の意志に従おうとはしなかった。

 なぜ、なぜ、と葵は必死に自問した。

 この男は、古橋ケンタを殺めた敵。

 自分から大切な人を奪った憎むべき仇。

 なのにどうして、自分はその報復を果たせずにいるのだ?

 その復仇を果たせずにいるのだ?

 もう、ほんのひと息。

 この手に力が込められるなら、それを果たすは容易なことだというのに。

 なぜ、なぜ、なぜ──…

 知らぬ間に、葵の目からは大粒の涙がしたたり落ちていた。

 くぐもった嗚咽が喉の奥から漏れ出すと同時に、その手からすっと力が抜けていく。

 凄まじい無力感が彼女の全身に襲いかかった。

 自責の念が泉のごとく湧き上がり、膨れあがって爆発した。

 葵は泣いた。

 泣き叫んだ。

 幼子のごとく声を上げ、狂ったように絶叫した。

 彼女の中で、わずかに残った理性の欠片が「みっともないことはやめなさい」と綺麗事を呟く。

 しかし、葵はその忠告に従うことができなかった。

 炸裂する理不尽極まる感情が、秋山葵という利発で気丈なひとりの少女を、いま完全に支配していたからだった。

「おわかりいただけましたか?」

 そんな彼女に、頭白は優しく語りかけた。

 懐剣を握ったままでいる小さなその手におのが掌を柔らかく重ね、ゆっくりと我が身に突き立てられた「牙」を引き抜く。

 涙で滲んだ少女の瞳が彼の顔へ差し向けられた。

 激しい戸惑いに麻のごとく乱れもつれた心中が、その顔色を見るだけでもはっきりとわかる。

 どこか哀しげに相好を崩し、諭すように頭白は告げた。

「おのが手で誰かを傷付け、いわんやそれを死に至らしめんとする行為には、それ相応の覚悟というものが必要でしてな。それは、いまの葵殿にとって到底手に入れることの叶わぬ代物なのでござるよ」

「お怒りになられぬのですか?」

 背なへと押し寄せる重苦しい何かに震えおののき、我が身を激しくわななかせながら、葵はそうすがるかのごとく頭白に尋ねた。

「あなたさまのお命を奪おうとした私を憎悪なされぬのですか? いえそれ以前に、何ゆえあなたさまはその身をかわされなかったのです? あなたさまほどの御仁であれば、この私ごときの刃など避けるも退けるも自在であったはず。なぜです。なぜ、あなたさまは私の刃をその身でお受けになったのです?」

「それが、人を殺めた者の背負う責務だからでござるよ、葵殿」

 頭白は答えた。

 それは、まるで自分自身に言い聞かせているような口振りだった。

 おのれを見上げる少女の瞳に我が目を合わせ、彼はゆるりと語り始める。

「それがし、真の名を柳生蝶之進と申しまする」

「柳生……」

 頭白の名乗ったその姓を葵の唇が繰り返し紡いだ。

「もしや、新陰流の……」

「左様」

 少女の問いかけに彼は大きく頷いた。

「尾張柳生宗家、新陰流五世・連也斎厳包としかねは我が父にござる」

 柳生新陰流の五代目・柳生連也斎厳包と言えば、尾張藩兵法指南役・兵庫助利厳としとしを父に、関ヶ原の合戦にて散華した石田三成股肱の武将・島左近清興きよおきの娘を母に持つ、天下に名だたる剣の使い手だ。

 その彼の嫡男ということもなれば、当然この頭白、いや柳生蝶之進という男は、上泉信綱より連なる剣術の名流・新陰流における正当な継承者ということになる。

 それほどの傑物が、何ゆえいま金で雇われ、悪家老の企みに荷担するまで身を堕としているのだろうか。

 頭白は、そのゆえを直接葵に伝えることはしなかった。

 代わりに彼が口にした物語は、いわば柳生蝶之進というひとりの男がこれまで血を流し歩んできた悲しむべき道筋そのものだった。

「それがしの母は、とある旅籠の飯炊き女でござった。身分あまりに低きゆえもとより父の妻とはなり得ぬひとにてござったが、それでも父は母のことを大事にしてくださったと伝え聞いております。ある意味、母は幸せな女でありました。もっとも、それもこの身が産まれるまでのことでござったが」

 少し悔しそうに頭白は言った。

「我が髪をご覧くだされ。この白髪は、それがしが生来のものにてござる。まさしく異形。かつては、この両目も血のような赤色であったと聞きます。ゆえにそれがしは、幼少のおりより、やれもののけよ、あやかしの子よと蔑まれ、母もまた左様な子を産みしおのれを激しく悔い、遂には自らの手で命をお絶ちになりました」

「それは……」

「同情の言葉は不要にござるよ、葵殿」

 言いながら頭白は笑顔を形作った。

「母を失ったそれがしは父のもとに引き取られ、剣術の修行に明け暮れ申した。蝶之進という名を柳生の家より与えられたのも、まさにその時のことでござる。父のほうにも、どこか負い目があったのでござろうな。どこの者ともしれぬ化け物の子を、家中の反対を押し切りあえて受け入れてくださったのですから。いや、それもあるいは憐憫の気持ちゆえのことだったのやもしれませぬ。

 ですが、たとえそれが哀れみであっても、それがしは一向に構いませなんだ。ひとたび子として求められた以上、それがしは父の名を汚さぬよう懸命に、ただひたすらに強くあろうといたしました。そこにこそ我が身の生きる真実があると信じておりました。

 『闘えば必ず勝つ。これ兵法の第一義なり。人としての情けを絶ちて、神に会うては神を斬り、仏に会うては仏を斬り、しかるのちにこそ極意を得ん──』」

「裏……柳生」

 唐突に葵がその目を丸くし絶句した。

 それを見た頭白もまた、小さく驚きの表情を浮かべ目を見開く。

 彼は尋ねた。

「ご存じでござったか?」

「かつて父が話していたことをおぼえていただけのことにございます」

 眉をひそめ葵は答えた。

「剣名高い柳生一門には、剣術をもって心身の昇華を図る表の道以外に、殺傷の技のみを追い求める裏の道があると」

「いかにも、そのとおりにござる」

 葵の言葉を頭白は肯定した。

「柳生新陰流、ならびに他の流派がいかに活人剣を謳おうとも、『剣』というものが戦の道具、つまり人を殺めるため産まれてきた人斬り包丁であることを変えることなどできませぬ。そして、それはすべての『武』にとっても同じことが言えましょう。若き日のそれがしにとり、武とは強きことこそがすべて。他者を制し、その命脈を絶つ技を極めることこそが正義でござった。いや、その考えはいまもって変わっておりませぬ。左様なそれがしが表の道より裏の道を選んだは、至極当然の成り行きと申せましょう」

「武は……」

 そんな頭白に葵が言った。

「武は……それだけのものではないと思います。仮にそれが『武』というものの正体でありましょうとも、それを用いる者すべてが左様な実像に魅入られはしないと私は信じております。信じずにはおれません」

「戯れ言にござるな」

 頭白は苦笑した。

「それは、深く正しく武を学び、その求められるがままに技を用いた者の口にできる言葉では断じてござりませぬ」

「父が……あるいは古橋さまがこの場におられたなら、そのお言葉にいったいなんと返されましょうや」

「葵殿。残念なことに、それがしの言こそが正当でござる」

 頭白は断じた。

「武術のなんたるかを求め続けたそれがしは、いつしか剣の道を外れ、無手の術へと傾倒して行き申した。それこそが、つまりおのれの五体のみを用いた戦いこそが、人本来の持つべき『武』だと強く感じられたからにござる。柔を学び、異国の技法をも取り入れ、それがしは我が身を、そして我が技を磨き上げることに没頭いたしました。この四肢が刃であるとするならば、砥石となるは他の武人。おのれ以外がその身に修めた武の技だったと申せましょう。

 それがしは数限りない立ち会いの果て、遂には御公儀により禁じられた柔術の闇試合に足を踏み入れ申した。互いのほかには何人たりとも介入してくることなき、純粋な命の取り合い。そこにこそ真の武がある、それがしの追い求める答えが存在するものと固く信じていたからにござる」

 頭白はゆっくり天を仰いだ。

「思えば空しき日々でござった。それがしと同じくただ強さのみを正しきとする者同士が互いに相手のすべてを否定しようと力尽くした結果、そこに残ったものはどちらかの死、それだけにござった。

 それがしも決して例外ではござらぬ。無残にもこの手に掛け申した男たちの数は八名。そのどれもが、いずれは一流を背負って立ったでありましょうひとかどの武芸者でござった。それがしのこの手が、この技が、左様称えられるべき者たちの迎える明日を文字どおり奪い去ったのでござる。なれど──」

「なれど?」

「なれど不思議なことに、それがしどうしてもそれらの者どもの顔を思い出せないのでござる。おのれが手に掛けた男たち。その命脈を絶った武芸者たちがいかなる顔をしておったのか、それをどうしても思い出せないのでござる。

 それがどれほど不自然で、そして人として誤ったことであるのか。そのことを心底思い知らされたのは、この手が都合八つ目の命を奪った、まさにそのおりのことにてござった。それがしが殺めた八人目の武芸者。その者には、まだ年若き許嫁がいたのでござる」

 胸の前で握り締めた右の拳をじっと見詰め、彼は続けた。

「後々になってそれがしは、その娘が自ら喉を突いたを知り申した。心許した伴侶の死が、その者に後を追う道を選ばせたのでありましょうな。それは、それがしにとりまさしく青天の霹靂でござった。おのが武の行使が、我とは直に交わらぬ人生をも左右すると知り得たからにござる。

 空虚でござった。それがしは強さの先、おのれが追い求めてきた正しさの先にいったい何を見詰めていたのでござろうか。そのようなものなど初めからなかった。ありなどしなかったを痛烈に自覚し、それがしは我が行く道を改め申した。

 『武』とはしょせん、戦のための技にござる。それを用いることは、その極みを求めることは、いかな綺麗事を宣おうとも他者を傷付けその生をねじ曲げる行為にほかなりませぬ。それがしの歩んできた道は間違っており申した。ひとは、ひとを害する道を選んでは、選ばせてはならぬのです。遅ればせながら、それがしはその真実に辿り着き申した」

「なれば!」

 頭白の言葉に葵が叫んだ。

「なれば、なぜ私どもの前に姿を現されたのです! なぜその気付きに反してまで、あなたさまがいま御自身で否定なさったはずのあなたさま御自身の『武』を、自ら用いる道を選ばれたのですか?」

「すべては我が未熟ゆえのことにてござる!」

 彼女の抗議を遮るように頭白は吠えた。

 まるで何かのたがが外れたかのごとき勢いで、その唇が次々と激しい言葉を紡ぎ出す。

「葵殿。金に目が眩んだそれがしが自ら選んだ仏の道をおのれの意志でもって外れ、この身に付けた武によって葵殿の人生を歪めたは紛れもないそれがし自身の罪にてござる。たとえ今後、どれほど御身のために心血を注ごうとも、その罪が清められることなしと覚悟しております。人を殺めたこの身が、親愛を覚えた御仁を裏切ったこの身が、今世にて救われることなどあり得ぬと覚悟しております。

 左様無様なそれがしでありますが、それでもなお、いやそれだからこそ葵殿にはなんとしても汲んで欲しい意がござるのです!

 葵殿。生きてくだされ。生き続けてくだされ。

 これから訪れる御身の生がそこもとに喜びを与えるものとなるかどうか。それは、この頭白には恥ずかしきかなとんと見当が付きませぬ。あるいは、ひととして生きることが辛うなる、そのような人生がそこもとの身には訪れるのやもしれませぬ。

 されど! されど……何卒、御身の生を自らの手で空しくする道だけは選ばないでくだされ。生きてさえおれば、必ずやそこに道は開けましょうぞ。たとえそれが望む明日と異なる日々であったとしても、それに目を背けては何事も成せはいたしませぬ。そう、一歩一歩を歩まずして道を進むことなどできぬのでござる。

 そして、もし……もしその意が挫けそうになり、苦渋の道を歩むおのれに絶望しそうになったおりには、この頭白を、頭白のみを深く恨みなされ。憎みなされ!」

「頭白殿……」

「葵殿。古来より、ひとを恨むこと憎むことは、その者に何の利をももたらさぬと申します。人を呪わば穴ふたつ掘れ。むしろ、ひとを恨むこと憎むことはおのが心をこそ傷付け、かえって害をもたらすと申します。そして、それは間違いなく真実の一角なのでありましょう。言わばひとの魂を蝕む病魔と申しても過言ではないのでありましょう。

 ですが、葵殿。誰かを恨み憎むことが、時としてひとの生きるよすがとなることもまた、決して否むことのできぬ真実にござる。

 それがしは葵殿に対し罪を犯し申した。そのことをなきこととする気は毛頭ござらぬ。ただ、それゆえに葵殿がこれより手になさる未来をおのずから拒まれること、それだけはなんとしても阻みたいのでござる。それこそが……そう、それこそがそれがしに許されたただひとつの償いでありますれば!」

 そんな頭白の、文字どおり血涙振り絞らんばかりの嘆願を、葵は顔をうつむかせたまま受け止めた。

 その唇が彼の哀訴に応じて開かれることはなかった。

 鉛のように重苦しい空気が、たちまちのうちにふたりの間で充ち満ちる。

 沈黙の時は、いったいどれほどの間続いたのだろうか。

 唐突にそれを打ち破ったものは、少女がおもむろに放った小さくも決然としたひと言だった。

「見くびらないで」

 蚊の鳴くような声であったが、彼女は確かにそう言った。

「頭白殿、私を見くびらないでください」

 はたと顔を上げた葵の目線が、長槍のごとくに頭白を突いた。

 そこに断固たる意志の光を見出して、この白髪の武人は思わず息を飲み込まされた。

 このか弱い娘の眼差しに、おのが気を丸呑みにされたのである。

 わずかにその身を後ろに反らせ、頭白は刮目して眼前の少女を凝視した。

 そんな彼に向かって、武家の娘が思いの丈を叩き付ける。

「あなたさまのごときに、この私の生を心配されたくなどありません! 何ゆえに、何ゆえに左様な慈悲を与えられねばならぬのでしょうか。私が自らこの生を委ねる御方は、この世にただひとりと決めております。その方以外の手に我が人生を託すつもりなど、葵は毛頭ございません!」

 少女は叫んだ。

「ましてや、誰かを恨み憎みながら余生を送るなど、そのような生き恥を晒すほどに堕ちたつもりもございません。頭白殿。あなたは、ご自分がいったい何者であるとお考えなのでしょうか? よもや、神仏にでもなったおつもりなのでありましょうか? なればなおさらのこと。何ゆえに、そのような惨たらしい生き方をこの私に勧められるのです。それでも哀れみをかけたおつもりですか? それとも、情けをかけたおつもりですか? 見くびらないでくださいませ!」

「あ、葵殿……」

 真っ向から押し寄せた激情に直撃され、頭白は激しく狼狽する。

「それがしは、決してそのようなつもりでは……」

「承知……しております」

 一転して感情を鎮め、彼女は応えた。

 ふたたび視線を下方に落とし、たどたどしい口振りでもって言葉を紡ぐ。

「あなたさまにふたごころなきことは、葵、十分に承知しております……ですが、ですが……何卒いまは、いまは斯様な私をお許しください」

 今宵何度目になるのだろうか。葵の両目に大粒の涙が溢れた。

 それは続けざまに滴となり、膝の上で握り締められた両手の甲にぽたりぽたりと落下する。

「あなたさまのお心、大変嬉しく思います。あなたさまのお言葉に、少しだけ……少しだけ救われたような気がいたします」

 華奢な両肩を震わせつつ彼女は言った。

 無理矢理なのだろうか。うつむいたままのその表情が不自然な笑顔を形作る。

「お願いがひとつあるのですが」

 その場で深々と両手を付き、頭白に向かって葵は告げた。

「しばらくの間、私をひとりにしてはいただけませんでしょうか?」

「葵殿?」

「ご心配なく。いまはまだ、自害する気にすらなれませぬゆえ」

 不安げに掌をさまよわせる白髪の僧侶を気遣うがごとく少女は告げた。

「ただ、少しだけ私を取り戻す、そのための刻をいただきたいのです」

「……承ってござる」

 そう短く答えて、頭白は座敷をあとにした。

 後ろ手に襖戸を閉めたその刹那だった。

 部屋の中より響き出た「わあっ」という号泣の声が、否応なく彼の鼓膜を激しく打った。

 落ち度なき少女の見せる慟哭が、残酷なほど鮮やかにその脳裏へと浮かび上がる。

 振り返りざま頭白はその場で膝を折り、襖戸の向こうで泣き叫ぶひとりの娘に許しを請うべく頭を垂れた。

 許されるなどとはもとより思っていなかったが、いまの彼にはそうするよりほかおのが思いを伝える術がなかったのだった。

 その目からは、知らず知らずのうちに涙の滴がこぼれ落ちていた。

 だがこの時、彼自身がそのことに気付くことはなかった。

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