第二話 西宮乙姫 四
「いつもながら可愛いですね」
乙姫は目を細めて言った。
彼女には昔から嫌味を言うための回路が欠落している。状況次第では微妙なニュアンスになりかねない言葉であっても、彼女が言うと決して嫌味にならない。先程のように自分の名前の呼び方を訂正する時であっても、決して非難しているようには聞こえなかった。だから澤山が調子に乗って直す気にならない訳だが、彼女はそれに気づいていない。
その時も、乙姫の声は実に羨ましそうに聞こえた。本気でそう思っていたから当たり前ではある。
彼女には女の子が好んで使いそうなお弁当箱は、三つまとめてでないと足りなかったから、使ったことはなかった。小学校の遠足の時には、よく男子からからかわれたものである。だからといって無理をして小さなお弁当箱で我慢することはしなかった。子供心に「そんなことをしても長続きしない」と分っていたのだろう。ただ、小さなお弁当箱への憧れは残っている。
男は日焼けした顔を綻ばせながら、可愛い絵の描かれた蓋を開く。
中から現れたのは、小さな収納スペースの大半を占める黄色い卵焼きと、申し訳程度に入れられた赤いソーセージだった。卵焼きはところどころ焦げる寸前まで焼かれており、狭い空間に不恰好に押し込められている。ソーセージのほうも少々焼きすぎのようで、裂け目が出来ていた。別な容器に入れられた白いご飯は、持ち運びの最中に偏ってしまい、容量の四分の三ほどに圧縮されてしまっている。
それでも、乙姫の目には宝箱に収められた宝石のようにきらきら輝いて見えた。
誰がどんな思いで作ったのか知っていたからだ。
「いただきます」
男は手を合わせると、きっちり三秒間首を垂れる。そして、男の手には小さすぎる可愛らしい箸を持って、堅くなるまで焼かれた卵焼きを持ち上げた。
口に運ぶ。
途端に男の目尻が下がる。彼は実に楽しそうに卵焼きを咀嚼した。
乙姫はこの様子が見たくて、男が昼食のために事務所に戻ってくるのを待っていた。自分が食べ終わった後だと、彼は気を使って外で食べようとする。
半年前からお弁当を持参するようになった男は、裂けた赤いソーセージを摘まむと、半分だけ噛み切る。残りを大事そうにお弁当箱に戻すと、口の中にあるほうを目を細めて噛んだ。
作った人に見せてあげたいと思う。ここまで嬉しそうに食べてもらえるのだから、作った甲斐があるというものだ。
最初のうち、乙姫は自分のランチボックスに入っているものを男に勧めることがあった。今は決してそのようなことはしない。その可愛いお弁当の中で完結している世界に、他のものを付け加えるのは不粋だと思ったからだ。
二人は黙っておのおのの昼食を続けた。それでも全然気詰まりではない。
男の楽しそうな顔を見ながら食べていると、自分のランチボックスもいつもより美味しく感じるし、なにより空間に流れる雰囲気が好ましい。
乙姫と男は、ほぼ同時にお弁当を食べきる。男のほうが調整して時間をあわせているのだろう。そんな細かい配慮も嬉しい。
「お茶を入れましょうか」
「あ、いつも有り難う」
男が丁寧に頭を下げる姿を見ながら、乙姫は腰を上げる。視線の片隅で見たお弁当箱は、米粒ひとつ残すことなく綺麗に平らげられていた。
量からいったら、全然足りないに違いない。それでも彼が我慢している様子はなく、十分に満ち足りているように見える。量の問題ではなく、心が満腹状態になっているに違いない。
それに、もっと大きなお弁当箱にしてしまうと、作る方の労力が増すだろうから、彼はそれを避けているのだろう。聞いたことはなかったが、そんな気遣いが伝わってくる。
中学生の娘さんが、眠そうな目をこすりながら毎朝作ってくれるお弁当である。課長の上島にとっては、それだけで完璧なお弁当に違いない。
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