第二話 西宮乙姫 三

 乙姫がツーポイントの眼鏡をかけた色素の薄い目で壁紙時計を見上げると、必要以上に正確な時計の時刻は十二時を少しばかり過ぎていた。

 ――お昼にしよう。

 彼女は長年愛用している大きめの革鞄から、これまた大きめの布包みを取り出す。事務所の南向きの窓際には打ち合わせ用に大きめの会議机が置いてあり、彼女はその机のほうに歩いてゆくと布包みを机の上に置いた。

 よく動く白くて細い指で、布を解く。

 すると、その中から女性のものにしては迫力のある黒いランチボックスが現れた。スープ、主菜、副菜、ご飯がそれぞれ別に収められた四段重ねのもので、保温効果の高い点が彼女の一番のお気に入りだ。

 昔からよく友達に驚かれるのだが、見た目の細さに反して彼女はよく食べる。正確には、基礎代謝が高めなので食べないともたない。

 しかも、ただ食べるだけでなく、作る方も好きである。手の込んだ料理を時間をかけて作るのが趣味で、休日には編物をしながら何かを煮込んでいることが多い。それは洋風のジャムであることもあれば、和風のモツ煮込みであったりもする。

 乙姫は両親と同居しているので、食べてくれる人に事欠かないものの、それでも余ることがある。基本的に日持ちがするものが多いので、それをランチボックスに詰めて職場まで持ってくることが多かった。その日は日曜に煮込んだ治部煮が残っていたので、それをメインとして常備菜をいくつか詰めてきた。

 両親も今頃は同じものを食べていることだろう。晩婚だった両親は既に仕事を辞めて、悠々自適な生活を送っている。二人で楽しそうに話をしながら食べているに違いない。一方、営業担当の男性達は出先から戻ってくることのほうが稀であるから、しばらく前まで乙姫は独りで昼食をとることが多かった。

 周辺の事務所はどこも似たような業種の営業所なので、日中に事務所で勤務している人間は少ない。さらに、女性事務員を配置している会社も少ない。顔見知りを作って一緒に食事をしたくても、そもそも女性が稀少動物である。

 居酒屋『小暮』が昼間に営業してくれれば問題はないのだが、大将にそんなつもりはないようだ。しかもお弁当作りは全然苦にならない。自然とこのスタイルが定着して、もう五年以上になる。

 乙姫は、

「出歩かないから、出会いもないのかな」

 と思うことがあったが、出歩いたところで大差はない。建築関係の会社が入っているオフィスビルであるから、当然のように紳士協定のことも知られている。

 それに、一人で食べていることが侘しいとも思わない。乙姫は自分の足で立つことが出来る人間なので、それはそれで静かでよいと割り切っていた。

 ――でも。

 最近は少しだけ、昼食を始める時間が遅れ気味である。

 その日も、窓際のテーブルの上には万全のセッティングが完了していたが、箸に手を伸ばすのが躊躇われた。お腹が空いていない訳ではない。さきほどからお行儀よくお腹が鳴っている。


 誰かが廊下を歩いて近づいてくる。


 規則正しい音。律儀な性格をよく反映している。事務所のドアにはめ込まれた摺ガラスの向こう側に、人影が現れた。スチール製の平凡なドアが内向きに開けられる。

「西宮さん、ちょうど食事を始めるところですか?」

 乙姫とほぼ同じぐらいの身長の、痩せてはいるがしっかりと筋肉の着いた男性が、笑いながら言った。

「はい。ちょうど始めるところでした」

 乙姫はいつものとおり、穏やかな声で答える。僅かにキーが高くなっていることに彼女は気がついていない。

「それはよかった。今日もご一緒してよいですか」

 男は平凡なブリーフケースの中から、キャラクター物の絵柄が賑々しい小さな布包みを取り出すと、乙姫のほうに歩いてきた。包みを机の上に置く。

 よく鍛えられた大きな手が繊細な動きで布を解くと、中から男性のものにしては小さすぎるお弁当箱が現れた。

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