第二話 西宮乙姫 二
では仕事のほうもピントがずれているかというと、決してそんなことはなかった。
むしろ何事も先回りして効率良くてきぱきと捌いてゆくので、営業所の他のメンバーからは完全に頼られている。
その迅速さと正確さは他の営業所でも有名らしく、同僚が出張した先で、
「お前のところには乙姫さんがいるから楽でいいよな」
と頻繁に言われるほどなのだが、当の本人はまったく自覚がない。ごく普通にやっているだけだと思っていた。
彼女はむしろ、手間と時間が膨大にかかる細かい作業をちまちまと続けることのほうが本当は好きで、その結果、趣味は編み物だった。
その世界で彼女の名前は割と知られている。
年間で発表する作品数は少ないものの、信じがたいほど繊細な文様を編み上げる作家として何人かの熱狂的な愛好家がついていた。その世界で生きていこうと思えば、出来ないことではない。
しかし、彼女は生活のために必要な仕事の世界と、生きがいを持つための趣味の世界とを、完全に切り離して考えるタイプである。編物は休日の愉しみと割り切っていた。
一方、編物のような面倒な作業が好きな割には、乙姫の性格はさっぱりとしている。あまり物事に拘らないし、嫌なことはすぐに忘れることにしている。
あまりに淡々としすぎているために、それで婚期を逃したのではないかと裏で噂されるほどだ。そのことを乙姫はさほど気にしていなかった。
それに婚期を逃した裏には、彼女の知らない別な理由がある。
実は、近隣の水道工事店の経営者は澤山社長を筆頭に、密かに乙姫のファンクラブのようなものを結成していた。彼らはおかしな虫が乙姫につかないように、業界関係者に釘を差すことに熱心である。
しかも建築業界関係者の常で、彼らは変に顔が広い。業界外にもその紳士協定は広がっており、隠然たるその権力を恐れて乙姫に近づく勇気を持った男はなかなか現れなかった。
もちろん、同じ営業所の人間は真っ先にその洗礼を受ける。新任の営業所長は業界関係者の会合に初めて顔合わせで出席した際、冒頭にいきなり、
「乙姫ちゃんに手を出したら、出入り禁止だからね」
と澤山から真顔で宣言され、前任者からの引き継ぎ事項を肝に命じることになった。
そのため、頼りにしている割に同僚達は乙姫と距離を置こうとする。裏の事情を知らない彼女は、
「私、あまり人に好かれないタイプなのかな」
と密かに悩んでいたものの、たまに行く居酒屋『木暮』の大将と看板娘の阿部菜摘とは仲が良い。だから余計に意味が分からなかった。
身長が百七十五センチもあるのがいけないのだろうか、と考えることもある。しかし、女子高でも女子大でも周囲に友達の輪が絶えたことはなかった。彼女から接近しなくても人は集まってきた。
ある意味、乙姫の「事務員にしておくのは、日本国民の怠慢としか思えない」美貌は、近づくだけでも勇気が必要になるほどで、彼女を高嶺の花にしている。
更に親父連合の暗躍がそれを北アルプス以上の断崖絶壁にしていた。彼女は最高峰の頂点にのみ咲く、稀少植物並の存在だ。
それをものともしなかったのが、三年前に中途入社した課長の上島(うえしま)陽一(よういち)である。入社時は何の肩書きも持っていなかったのに、圧倒的な営業実績から一年後には課長に抜擢されていた。
彼だけは乙姫に普通に接してくれた。その裏側には、着任早々に澤山の会社の社員が引き起こした発注ミスを彼が迅速に処理し、澤山の絶大な信頼を得たという事情があるものの、それを知らない彼女は、
「優しい人だな」
と感謝していた。さらに一年前に澤山から聞いた彼の過去が、次第に彼女の心を別な方向へ向けようとしていたが、今はそれを語る時ではない。
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