第二話 西宮乙姫 一

 JRの駅から黒窓町商店街のアーケードを真ん中ぐらいまで歩いてくると、小さな個人商店が立ち並んだ先に、急に不釣合いな大きめのオフィスビルが見えてくる。

 持ち主は結構有名な建設会社であり、建物は元々その会社の本社ビルだった。

 さびれゆく一方の商店街とは違って順調に業績を伸ばした建設会社は、手狭になった本社ビルをさっさと見限ると、十五年前に隣町に新たに本社ビルを建築してそこに移転していた。

 そして、残された建物は細かく区割りされて、今では多くの会社が入居する賃貸ビルになっている。

 店子は大家と関係が深い建築資材会社の営業所が殆どで、水道の上水配管とその関連製品を製造及び販売している中堅メーカー、「松本パイプ株式会社」もその一つだった。

 ここ黒窓営業所では五名の所員が勤務しているが、四名の男性は営業担当で日中は得意先を巡回しているため、事務所には殆どいない。

 その時も、営業事務を担当している西宮(にしみや)乙姫(おとめ)がぽつんと一人、自分の机で事務用品の発注フォームに数字を入力していた。

 卓上のIP電話が鳴り始めたので、乙姫は手を止めて三コール以内に受話器を上げる。

「お電話有り難うございます。松本パイプ黒窓営業所の西宮でございます」

「あ、乙姫(おとひめ)ちゃん。澤山(さわやま)だけど、浦島(うらしま)さんいるかね」

 最初の「あ」の声で、既に水道工事会社『澤山商事』の社長と判断していた乙姫は、少しだけ砕けた口調に切り替えた。

「澤山さん、何度言ったら分って頂けるんですか。私の名前は『おとめ』で、課長の名前は『うえしま』ですよ」

「悪い、悪い。で、浦島さんはいるのかね」

「上島は只今外出中です。もうすぐお昼休みの時間ですから、戻ってくる頃だとは思いますが」

「そうかい。じゃあ、戻ってきたらすぐに電話するように浦島さんに伝えてくれ」

「分かりました」

 そう乙姫が言い切る前、「した」ぐらいのところで電話は切れる。

 乙姫は受話器を静かに戻しながら、溜息をついた。

 澤山社長は決して悪い人物ではないのだが、せっかちで人の話を全然聞かない。それに馬鹿丁寧な言葉遣いを嫌う一方で、馴れ馴れしい口調でも気分を害する。だから、良い具合に加減する必要があった。

 三十路に入ったばかりの乙姫は、短大を卒業してからこの営業所で十年近く勤務していたので、馴染みの業者の癖をだいたい把握している。恐らく向こうもそうだろう。

 ――それにしても、どうして課長の携帯に直接かけないのかな。

 業界でも多忙で知られる澤山社長は、何故かいつも営業所の代表電話にかけてくる。しかも大した用事ではないことが多く、今日も恐らく週末の草野球に関することだろう。課長の上島とは草野球仲間だ。

 ――しかも、課長がいない時間にしかかけてこないのは何故かな。

 乙姫は頭を捻るが、理由は分らなかった。きっと偶然だろうと考えて、再び入力作業に戻る。

 同時刻、澤山の会社の従業員が社長秘書に対して、

「社長、今日は乙姫様(おとひめさま)のところに電話してたか? した? だったら機嫌が良くなっているはずだよな。やばい案件の相談があるから時間をくれ。待ってたんだ」

 と話していることを、彼女は知らなかった。

 壁掛けのアナログ時計を見ると、時刻はもう少しで正午になる。得意先から周年行事の記念品として二年前に頂いた電波時計で、流石に狂うことがない。

 その前の時計は気がつくと五分程度は前後にずれていたから、これに変わった時は素直に感動したのだが、今はそうでもない。むしろ、以前の時計のほうがやんちゃ坊主のようで可愛げがあったように思う。

 乙姫は万事そのような調子で、人と微妙に感覚がずれていることが多い。

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