第一話 酒井伸太郎 四

 修二はその時のショックもあったのか、園子の葬儀が終わって暫くした頃からアルツハイマー型認知症の徴候を示し始めた。

 物忘れがひどくなり、思い出すのが難しくなる。それが次第に悪化して、とうとう彼は長年続けてきた豆腐の製造工程を、途中でつい間違えてしまった。

 これが最期の引き金となる。

「俺にはもう、誰かを満足させる豆腐を作ることはできない」

 これは豆腐屋を止める決心をした時の、修二の言葉だ。

 そして、即座に彼は自ら老人介護施設の入所手続書類を取り寄せ、記入し始めた。

 伸太郎は引き留めた。流石に、六十前の父親を介護施設に放り込むことは気が引けた。

 しかし、父は頑として聞かない。

「俺の世話でお前に時間を浪費させる気はない。そのかわり、お前の面倒も見られないから、後は好きにしろ」

 それが修二なりのけじめのつけ方だった。

 介護にかかる労力を知らない訳ではなかったから、それを伸太郎に押し付けたくなかったのだ。

 最後には伸太郎が根負けし、泣く泣く修二が余生の場を確保する手助けをすることになる。二人分の老後の蓄えはちゃんと準備されていたので、それを使って修二はそれなりの老人介護施設に入所した。

 残った蓄えで、伸太郎自身をなんとかしなければならなかったが、差し当たって豆腐屋以外の道は思い浮かばない。

 大学はいまだ途中。

 小説の道はいまだ模索中。

 豆腐の他に、これといった人に自慢できる技能は持っていない。豆腐だって怪しいぐらいだ。

 大学を卒業するのに十分な資金はあったものの、それでは豆腐屋の店舗と設備が無駄になる。

 二年も放置したら二度と使えなくなるだろう。

 もう少し前から跡を継ぐ準備していればよかったのだが、中学から大学にかけて修二は伸太郎の進路に関して口を挟まなかった。内心どう思っていたのか分からなかったが、表には出さなかった。

 そんな父の様子に甘えて、伸太郎も「家業を継ぐかどうか」の決断を先延ばしにした面がある。

 また、母親が亡くなる寸前まで、

「大学を卒業したらとりあえず就職して、兼業で作家を目指し、それが駄目だったら豆腐屋でも継ごう」

 と、他の者が聞いたら仰天するに違いない甘いことを、伸太郎は本気で考えていた。

 つまり、すべては彼の先の見通しの甘さと、現状への甘えが引き起こした事態であり、伸太郎自身もその自覚がある。

 小説家になりたいという思いもさほど強いものではなかったし、ちょうど方向性を見失っていた時期であったから、伸太郎はそのままなりゆきで家業を継ぐことにした。


 そして現在に至る。

 伸太郎は手先が器用であり、真面目にこつこつやっていけば、着実に伸びるタイプである。それまで寄り道がひど過ぎただけのことで、豆腐屋になると決めたら物になるのは早かった。

 しかし、決して居酒屋『小暮』の大将を中心とした昔馴染や、そして彼自身が満足してはいなかった。作り方は同じはずなのに、どうしても修二と同じ味が伸太郎には出せない。

 老人ホームにいる父親に聞こうとしたこともあったが、その度に「いや、まだ早い。聞いてしまったら、僕はそれ以上のことができなくなる」と、伸太郎は寸前で思い留まった。

 それは単なる伸太郎のプライドである。

 別に聞いたからと言って進歩が止まる訳ではないのだが、なぜか伸太郎はその点に拘った。

 周囲で彼を見守っていた人々も、何も言わなかった。時折、黙って豆腐を買っていくだけである。

 黒窓町商店街振興会の会長である白石と会員達、そして居酒屋『小暮』の菜摘が、顔をあわせれば気軽に話しかけてくれるので助かっていたものの、打開策がどこにも見当たらない。

 結局、伸太郎は中途半端な思いのまま、中途半端な豆腐を作り続ける日々を続けていた。

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