第一話 酒井伸太郎 二

 そして、ステンレス台の上に置かれている箸箱から割り箸を取り出すと、大将が削り取ったのとは反対側の角を、大将よりも大きめに削った。

 薬味も醤油も加えずに口の中に放り込むと、上あごと舌で豆腐を押し潰すようにしながら、口の中で味わう。

 そして伸太郎は眉をしかめた。

「ああ、これでは確かに駄目だ」

 持っていく前には気がつかなかったが、にがりが僅かに強すぎて後味が悪い。口の中に塩化マグネシウムの苦みが残る。

 スーパーの豆腐を食べ慣れている人には分からないほどの微妙さだが、大将は騙せない。

 それに大豆の質が悪かった。舌で擦り潰した時の感触が柔らかすぎる。ということは豆乳を掻き混ぜた時の手触りも軽かっただろうから、そのせいでにがりを入れ過ぎたのだ。

「はあっ……」

 伸太郎は残りの豆腐を見つめて、溜息をついた。


 *


 アルツハイマー型認知症の徴候が現れ始めた父、酒井さかい修二しゅうじから、この酒井豆腐店を引き継いで三年が経過した。

 最初の半年間は、とても客に出せるような出来ではなかったが、そこそこ品質が安定してからはなんとか経営が成り立っている。

 しかし、近所に住んでいる昔の馴染み客と大将はなかなか満足させられなかった。

 父の馴染みの客は、時折顔を出しては豆腐を一丁だけ買ってゆく。しかし、その後しばらくは姿を見せなかった。

 大将は父が作る豆腐を愛していた。真面目な職人が作る素朴で丁寧な味だ、と言っていた。そして、それ以外の豆腐を決して店で使わなかった。

 お陰で現在、居酒屋「小暮」のお品書きには豆腐を使った料理がない。

 有り難いといえば有り難い話なのだが、どうしてそこまで大将が父の豆腐に拘るのか分からなかった。

 父の作る豆腐は、決してこだわりの最高級豆腐ではない。

 大豆はアメリカからの輸入品、水はただの水道水である。

 しかし、それでもスーパーで売られている国産大豆を使った高級豆腐よりも味が良いと、馴染みの客は口々に言っていた。大将は口にこそ出さないものの、同じ意見だろう。


 伸太郎は中学生の頃から店の手伝いをしていた。

 高校から大学にかけては部活動に専念していたので、店の手伝いは片手間でしかやらなかったものの、豆腐作りの工程はだいたい分かっていた。

 最初から最後まで自分の力だけで豆腐を作ったことは、店を引き継ぐまで一度もやったことはなかったものの、各パートの作業を繋ぎ合わせてゆけばちゃんとできるものと思っていた。

 ところが、考えが甘かった。

 最初から最後まで自分の知識だけで豆腐を作ろうとすると、まともなものが作れなかったのだ。

 恐らく、伸太郎は常に問題のないパートのみ、父から任されていたのだろう。

 自分でやってみて分かったが、季節や気温、豆の状態からその産地まで、細かい変数の組み合わせで手順を変えていかないと品質は安定しなかった。

 それに、父は伸太郎が気づかないところでさらに細かく気を配っていたのだ。

 例えば、父は常々、大豆を卸してくれる業者に礼を尽くしており、盆、暮、正月の付け届けは決して欠かさなかった。

 何故かというと、卸業者から貨物船で届く大豆のうち、一番外側の上にある袋のものを優先して確保してもらっていたからである。

 一番下の、しかも中央部にあった大豆は、船旅の間中ずっと周囲から押され、風通しの悪い中で蒸されているから、品質が劣るのだ。

 しかし、父が倒れ、馴染みの卸業者も定年退職でいなくなった現在、大豆の品質はその日その日で大きく異なっている。

 前述の話も定年退職の挨拶にやってきた業者から聞いたことで、彼がいなくなってしまった卸に伸太郎が無理を言うことはできない。

 この状況で安定した品質の豆腐を作るためには、今の伸太郎ではまだまだ経験値が足りなかった。

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