黒窓町商店街振興会
阿井上夫
第一話 酒井伸太郎 一
居酒屋「小暮」の店主、
その皿の上には、何の薬味も添えられていない、醤油すらかかっていない、端の部分が少しだけ欠けた白い豆腐が一丁、所在なさげな様子で載っていた。
「有り難うございました」
伸太郎は頭を下げると皿を自分のほうに引き寄せて、その上にある豆腐を彼が三分ほど前にその豆腐を取り出した青いビニル容器に戻した。
容器を透明なビニル袋に入れ、口を縛ると右手に下げて立ち上がる。
彼はそこでふと、中学校の進路相談で先生に何度も頭を下げながら、出来の悪い息子の背中を押しつつ教室を出る親の気分、になった。
ただ、彼はまだ二十三歳の未婚男性であるから、これは自らの実体験ではない。彼の母、
その時、進路相談で恐縮する母は何も悪くなかった。問題があったのは伸太郎自身だった。
今、青い容器に収まった豆腐は何も悪くない。問題があるのは伸太郎自身である。
伸太郎は茶色いサンダルに両足を差し込んで、店の奥にある小上がりから出る。細長いカウンター席のほうに目を向けると、そこに立っていた
「あ――」
菜摘は何か言おうとして、そこで固まってしまう。何と言っていいのか分からないのだろう。
残念に思う気分が半分、気の毒に思う気持ちが半分、彼女の表情の上で入り混じっていた。
――菜摘ちゃんは、考えていることがすぐに顔に出るからなあ。
伸太郎は彼女の複雑な表情を見て、いつもの気弱な笑みを浮かべた。
「また来週、挑戦しに来ますから」
そう言って菜摘に頭を下げると、伸太郎は背中を丸めて店を出ていった。
菜摘は小上がりから空の皿と箸を持って出てきた大将の顔を見る。
大将は、
「まだ駄目だ」
と短く言って、厨房のほうに歩いてゆく。その姿を菜摘が目で追っていると、彼は皿と箸を厨房のシンクに丁寧に置きながら、思い出したようにぽつりと言った。
「ただ、食べ残しの豆腐を決して置き去りにしない姿勢は買えるがな」
「――暖簾を出しますね」
菜摘は、カウンターの上に長々と置かれていた暖簾を手に取ると、元気よく表に出てゆく。
その後ろ姿を見ながら大将は思った。
――豆腐屋の癖して、どうして分からんのかな。
豆腐は水と大豆から出来ている。そんなことは見れば誰にでも分かる。
しかし、固めるためには目に見えない「にがり」が必要だ。
伸太郎は、菜摘の表情から気持ちを汲み取っている。そんなことは常連ならば誰でも出来る。
しかし、彼に対してのみ微量に含まれる菜摘の「にがり」が見えていない。
*
伸太郎は、居酒屋「小暮」から二百メートルほど離れた自分の店に戻ると、作業場の中央にあるステンレス製の台に袋を置いた。
現在時刻は午後四時五十五分。
酒井豆腐店の営業は午前六時から午後三時までであるから、今は営業時間外である。ただ、今日は月曜日で、大将が伸太郎の作った豆腐を試食する日だった。
居酒屋「小暮」の開店時間は午後五時なので、伸太郎はその三十分前に店を訪れると、大将の目の前に用意された皿の上に豆腐を置く。
大将は、その豆腐の端を少しだけ摘まむと、何も加えずに口の中に放り込む。
そして、きっちり十五秒後に頭を横に振る。
もう一年近くも同じことを続けていた。その前は「小暮」に豆腐を持ち込むことすら出来なかったので、少しは前進しているらしい。
「でもなあ――」
伸太郎は独りごちながら、ビニル袋から大将が食べ残した豆腐を取り出す。
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