5-6

 現在、夜の八時半過ぎ。

 昼間はあんなに晴れていたのに、夜になって急に空が曇りだし翳ってきた。

 もしかして、これは不吉なことが起こる前兆か? そんな不安が鎌首をもたげる。


 夜坂神社から千歳稲荷までは、およそ十五分くらいかかる。

 道中。電灯の明かりの下で見慣れない怪異相手に、自慢の鎌で大立ち回りをする鎌鼬に出会い、武運を祈られた。

 別に俺が戦うわけではないけど、気を引き締めるのにいい機会だった。


 この着物に添えて置かれていた、夜坂神社特製の魔除けの鈴のおかげとあってか、怪異が俺たちに寄り付くことなく(むしろ怪異が自ら道を譲るような形で)、無事に、天音の霊力を温存しつつ、千歳稲荷の石段までたどり着くことが出来た。


「主殿、もう感じておるやもしれんが、この先は死地になるじゃろう。一瞬たりとて、気を緩めるではないぞ」


 そんなことは百も承知だ。あの美織さんを負傷させたほどの妖気だからな、俺が気なんて抜けるわけないだろう。

 了解を頷きで返し、俺たちは、境内へと続く長い五十階段を、一段ずつ踏みしめながら上っていく。


 足を上げるたび、澱んだ空気の流れが肌に纏わりつき、進入を拒んでいるかのように不快感をもたらしてくる。夏の夜だからという暑さによる不快さではない。

 まだ半分上がるまででこれだ。渦中に身を投じたのなら、どれほどの嫌悪感だろう。


「気をしっかり保つのじゃ」


 天音の激励を受け、気を取り直し、さらに階段を上がっていく。

 もう外は真っ暗だというのに、上のほうにボウっと燈るオレンジの明かり。


 千歳稲荷は、もうほとんど誰からも忘れ去られた神社だ。よりつく人間は、子供すらいない。なのに明かりが灯っている。間違いなく、鳩羽がいる。気配を感じたんじゃない。きっと、決戦を演出し、自分で設えたんだろう。


 ようやく上がりきった階段。境内へ到着する頃には、体から汗が噴出していた。

 意外と着物って重いんだな、と普段洋服しか着慣れていないためにそう感じたが、汗の原因はそれだけじゃないみたいだ。


「あ、天音……あれか……?」


 それは、すぐに分かった。明確すぎるほど、それは目に見えて知覚できるほど、凶悪だったから。嫌な汗が背中をなぞる。


 ボロくさい本殿へと続く石畳の通路。そのど真ん中に、隕石でも落ちてきたのかというくらい、派手に穿たれた直径五十センチほどの穴が開いていた。

 辺りには石畳の欠片が散乱し、土も外周に沿うように、盛り土みたいに盛り上がっている。


 そして特筆すべきは、蠱毒の埋没地点のその周囲だ。

 俺の拙い霊視でも確認できる、ぐるぐると不吉な渦巻く紫の帯。それは八岐大蛇みたいにうねうねと蠢き、空気を陵辱するかのごとく何重にも妖気が張り巡らされた、文字通りの結界と化していた。


「――遅かったではないか、待ち草臥れたぞ、天音」


 声と同時に、俺が天音に憑かれた日に土下座していた賽銭箱の上に、女が出現した。

 半丈の黒い着物に赤い帯、天川学園制服の黒色ミニスカート。

 学園で見慣れた普段の姿とは違い、今はその頭には金獅子みたいな立派な獣耳。背後には意思があるようにふよふよと動く計九つの金色の尾っぽ。


「玉藻……」


 天音は緊張した面持ちで、キッときつく睨みつけるが、その視線を鳩羽は何事もないようにさらりと去なす。


「命乞いの準備は済んだのか? お前の主殿とやらは禊いできたようだが……何故だ。まさか、我を再び封印せしめんと、悪足掻きをしにきたのではないだろうな」

「愚問じゃな。そんな分かりきったことを聞くとは。姉上はこの四百年で、ずいぶんと阿呆になったようじゃな」

「くくくっ、減らず口は相変わらずか。してどうする。お前は我の妖気を祓えるのか? 蠱毒の壷ごと消し去るには、奥義に頼らざるを得ないはず。だが妖気を祓わねば霊気が減算され、壷を破壊することは叶わぬぞ。ましてやその容姿で、それが可能だと?」


 一触即発の空気の中、二人のやりとりを、唾を飲み込んで静観する。

 実際、禍々しくて気持ち悪くて、口を開きたくないっていうのが本音だったりするんだけど。


「玉藻――」


 天音は静かに口を開き、


天鼓雷々てんこらいらい


 言葉を発した次の瞬間、天音の周辺に、まるで雷神の背にある雷太鼓みたいに、計七つの小太鼓が出現した。

 しかし雷神とは違う点がある。それは、それらを霊体の小さな狐たちが各々手に持ち、さながら電電太鼓みたいに左右に振り回し音を奏でているところだ。


 そうして発生したいくつもの小さな雷が、パリパリと音をたてながら徐々に天音の体を包み込み、やがて天音の体が白光に包まれた。

 瞬間、小さかった天音のシルエットが、しだいに大きく形作る。


 光が収束した頃。姿を現したのは、あの大人バージョンの、本性である天音の姿だった。

 夜闇に浮かぶ雪のような純白の白装束は、提燈の明かりを受けて、淡い橙色に染まっている。

 紫色の帯が差し色となって、銀髪と相まってその姿がとても綺麗に見えた。

 こうやって毎回、元の姿に戻ってたのか。


「久しいな、その姿。四百年ぶりでも、あの頃とちっとも変わらない」

「それはお互い様じゃろ」


 言いながら、天音は腕を夜空に掲げた。いつになく、その瞳は威圧的なものだった。

 気が立っているのか、ふさふさの自慢の四尾がぴんと張り詰めている。


「万雷!」


 威勢のいい掛け声とともに、天音を取り巻くように、目視では数え切れないほどの小さな稲妻が発生した。やがてそれらは、天音が腕を前方へと向けたことにより、一点へと集まっていく。


「集い集いし天の火や 束ね束ねよ幾重にも 猛り猛りて雷槌の 神解けの天音響かせり」


 詩のような言葉とともに、集束した雷はバリバリと、文字通り雷を幾重にも束ねて折ったような轟音を響かせながら肥大していく。


「――わしを……なめるなよ。武御雷たけみかづち!」


 発声とともに、天音の術らしきものは狙いを過たず、蠱毒へ向かって飛んでいく。

 万の雷を重ねたように発光するあまりの凄まじい光景に、言葉を失ってしまった。そして内心、これならあの妖気流を祓えるんじゃないかと期待してしまった。

 が、そんなことは全然なかった。


 天音の武御雷は、妖気の渦の前で、がりがりと削がれるようにして掻き消えてしまったのだ。


「っ!?」


 こんなはずじゃない、といった風に瞠目すると、天音は悔しそうに歯噛みする。


「ふふふ、その程度か。そんなものでは、我の妖気は祓えんぞ?」


 至極愉快だ、そんな気持ちが嫌でも伝わってくる、人を馬鹿にしたように嗤う鳩羽。


「これほどの怨嗟とは……」

「ん、なんだ天音、もう終いか? ほれ、次はどうした、時間がのうなってしまうぞ。十八番を潰されて、身を窶しておるのか?」


 切羽詰まった様子の天音と違い、鳩羽は変わらず余裕な態度でくすくすと笑う。


「くっ!」


 ぎりっと歯軋りすると、犬歯を剥き出しにして睨みつけ、天音は再び腕を天へと掲げた。


雷霆らいてい!」


 そこから一気に腕を振り下ろす。刹那、空が雷光で瞬いたと思ったら、突如激しい雷が空から降ってきた。

 けれどその雷も、妖気の渦に阻まれて、バンッ! と弾け飛んだ。


「お、おい天音!」


 俺は思わず天音の肩を掴んでいた。


「鳩羽の挑発に乗りすぎだぞ。霊力の温存しなきゃならないんじゃないのかよ」

「あ、ああ、すまん」


 はっとして、ようやく頭が冷めたのか、天音はぽつりと謝った。


「ふん、脆弱にして非力な人間風情が、邪魔しおって」


 鳩羽がつまらなさそうに鼻をならす。

 蠱毒を挟んで対峙する俺たち。

しばらくの間、天音も反省したのか行動することもなく、互いに緊張した膠着状態が続いていた。


「――はぁ、はぁ、はぁ」


 そうして、背後の階段から誰かが駆け上がってくる足音と、息を切らせる吐息とが聞こえてきた。ようやく、真打の登場だ。


「天音様、陽一君、お待たせしました!」


 やってきたのは言うまでもなく、永瀬紫音だった。

 黒髪のサイドに垂れた房を、紅い和紙のようなもので結んで纏め、紅白の彩り鮮やかな巫女装束に身を包み、なにやら刀袋を二本携えての登壇だ。

 はっ、と小さく息を吐き、永瀬は気息を整え、


「ずいぶん、厄介な大きさの結界のようですね。いや、もうすでに呪界を成しています」


 鋭い目つきで前方を見る。


「紫音、お主……」


 不安げな顔をする天音にちらりと目配せすると、永瀬はにこりと意味深にやわらかく微笑んだ。


 そうして無言のまま、一本の刀袋の紐を解いていく。

 それは、いつも永瀬が抱えている妖刀禍刈の、紫紺の刀袋だった。


 真剣さながらの顔つきに、内から溢れ出んばかりの闘気を感じ、思わず息を呑んで見入る。

 刀袋を払い、現れた愛刀をすらりと抜き放つと――永瀬はふっと息を吐き、蠱毒の結界ぎりぎり外まで一気に間合いを詰め、その刀を大きく振り上げた。


「はっ!」


 気合いとともに振り下ろされた刀は、ビュンッと音が鳴るほどの鋭い斬撃だ。

 けれど、渦巻く妖気に阻まれ、挙句――


「っ!?」


 キンッ! と音がした。

 見れば、刀の外見が変化していた。

 禍刈が、折れた。見事に、真ん中から真っ二つに、切られたような鋭さで、半分に折れた。

 勢いよく回転する折れた刃が、地面に突き刺さる。

 後方に飛びずさり、


「ふぅ、やっぱり、私にはまだ無理ですね」


 永瀬は残念そうに息を吐くと、おもむろにもう一つの刀袋へと手を伸ばす。

 そう。永瀬は、刀を二振り携行していた。


「紫音……お主、それは……っ!?」


 一振りは、今しがた折れたばかりのお馴染みの禍刈。

 そして、取り払われた漆黒の刀袋から姿を現したもう一振りは、見たこともない朱塗りの拵えだった。

 まるで血に漬け込んだように鮮やかなそれは、息を呑むほど妖しくも美しい。


 鎌鼬かとも思ったが、けれど天音の反応を見る限り、どうやら慣れ親しい刀ではないようだ。


「我が一族に伝わる至宝刀、天叢雲です」

「天叢雲って、もしかして、八岐大蛇から出てきたっていう草薙か?」

「それとはまた別ですよ、陽一君。そもそも、あれはただの鉄剣じゃないですか。これは平安の名刀工が陰陽師を相槌に据え、呪術式を織り込みながら打ち鍛えたとされ、江戸中期に拵えを改め、歴代の巫女の神聖な舞踊で霊格を上げられてきた、真正の退魔刀です」


 真正、確かにその名の通り、禍刈からは感じられなかった、邪気を祓う厳格な荘厳さを刀から感じる。


「お主に、扱えるのか……その刀?」


 わなわなと手を震わせ、驚愕を顔に貼り付けて天音が問う。


「どういうことだよ」

「あの退魔の刀、天叢雲は、夜坂に伝わる秘伝の継承者でないと扱えん。それはそれ相応の修練と禊、血の滲むような修行を行い、初めて扱える代物じゃ。まさか紫音はこの齢で、あれを使いこなせるというのか……」


 戦慄く天音に振り返ると、永瀬はくすりと微笑んだ。

 少しだけ困ったような顔をして。


「まさか。天音様、そんなわけないじゃないですか」

「ではお主、それは一体どういうつもりで――」

「唯一、この刀で大妖怪を封じた桜華、彼女に委ねます」

「それじゃあ、お主まさか……っ」

「はい、天音様のご想像の通りです。少々手こずりましたが、お目当ての方を降ろせましたので、安心してください。では、時間もないですし、始めます――」


 言って、瞳を静かに閉じる。誰かと会話しているかのように、ぶつぶつと、聞こえないほど小さな声で何かを喋っている。

 そして、ふらりと体が崩れかけた瞬間に足を踏ん張って立ち留まると、ゆっくりと顔を上げ、辺りを見渡した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る