2-5

 いつも俺が先に風呂へと入る。神様を差し置いて人間がー、なんて怒る人も中にはいるかもしれないが。これは天音が言い出したことだ。


「主殿よりも先に風呂を頂こうなぞ、わしはそこまで図々しい狐ではないぞ」


 神様のくせに律儀というかなんと言うか。だから俺が先に入り、入れ違いで天音が後で入る。

 というわけで風呂に浸かっているのだが……。


 今日はなにやら脱衣所でがさごそと音がするのは気のせい――ではなかった、どころか次の瞬間には浴室の扉が開いていた! 何事かと振り返り湯気が逃げていくのを目で追い、この目に飛び込んできたものに唖然とし、呼吸をするのも忘れるくらいに俺は言葉を失った。


 目の前に、髪を結った銀髪の女性が立っていた。ここ何日かで見慣れた少女、ではない。豊かに熟れた肉体を持つ大人の女性。

 白いバスタオルを体に一枚巻いて、銀色の獣耳と四本の尻尾を持つ、凛とした中にも愛らしさを覗かせる、妖艶とまではいかないまでも艶かしい女の人。


 思わず水を求める魚のように、口をぱくぱくさせてしまう。


「ふふっ、主殿、息を吸わぬと死んでしまうぞ」


 聞き慣れた幼い声ではない。声変わりし成熟した、リンと鈴を転がすような綺麗な声だった。


「いや、あの、だ、だれ……誰、だ」


 状況が頭で整理しきれずに、動揺しすぎて声がぶれまくりだ。

 問いに答えるわけでもなく、おもむろに女性は浴室の扉を閉め、風呂椅子に腰掛けた。そして持ち手付きの手桶を掴むと、俺が浸かる浴槽のお湯を掬い上げ、体にかける。


 ……いや、不味い。

 俺は慌てて視線を湯へと落とした。

 白いバスタオルがお湯を含むことによって、徐々に透けてきたんだ。

 薄っすらと肌色の透ける、水を弾く瑞々しい肌。下手したら、いや、下手しなくても、美織さんよりもスタイルいいんじゃないか、この女。


 正直、小学生の頃に見たきりの妹の裸以外で、女性の裸を――バスタオルを巻いているが、それ越しでも――初めて生で見た。さっきから喉が鳴りっぱなしだ。


 何をそんなに興奮している神藤陽一、お前は中学生か!

 エロい方向に思考が傾きかけているのをなんとか自制している間にも、俺の存在がまるでないかのような、何事もない風に冷静に、女性はバスタオルを外し体を洗い始めた。


 なんの躊躇もなく、天音用に買ったピンクのバスボールを手に取ると、ボディソープを付け、泡立てた豊かな泡でやさしく肌の上を滑らせる。

 その様子を蹲りながら、ちらりちらりと横目で見ていたら、不意に視線が合ってしまった。


「なんじゃ主殿、そんな熱っぽい視線を投げかけるでない。体温が上昇してしまうじゃろ」


 さっきから主殿と呼ぶ物言い、口調、そして天音用の物を躊躇いなく使っているところを見る限り、予想の斜め上をいかない限りは――


「あ、天音、で間違い、ないんだよな?」


 恐る恐るといった問いかけに、天音らしき狐の女はふふふっ、と笑い、


「どうじゃろうなー……」


 蠱惑的な笑みを口元に浮かべて、誤魔化した。


「一体なんのつもりだよ、というかその姿はなんだよ、何も聞いてないぞ!」

「言うておらんし、知らぬのも無理はなかろ」


 やはり予想した通り、この狐の女性は天音だった。しかしどうだろう、一体誰があのおチビさんからこんな美女を想像できるだろうか。

 見ているだけでも目眩がする。


「主殿、顔が赤いが大丈夫かの? ちょいと興奮しすぎではないかや?」


 くぅう、人をからかって遊んでやがる。したり顔が妙にむかつく。美人だけど中身はあの小生意気な天音そのものってことか。愛しさ余って憎さ一〇〇倍とはこういうことを言うのか。


 丁寧に体を洗い終えた天音は、手桶で湯を掬い体を流す。今まで泡で隠れていたため平気だったが、流されてしまったことにより、自己主張もはなはだしい豊かな胸が、そしてその先端の薄桃色の突起物が、俺の眼に飛び込んできた、慌てた、湯の中に顔を沈めた。


「主……も一緒……ても……か……?」


 外でなにか喋ってる。耳まで浸かっているためにその内容まではよく聞き取れない。

 と、湯船の湯がいきなり大きく波打った。まさかと思い顔を上げ、目の周りの水を払う。

 眼前には、全裸の天音の姿があった。


「う、うわぁ!」

「なにを驚く主殿、ちゃんと許可は取ったであろう?」


 さっきの声はそれだったのか。聞いてなかった俺が悪いのだろうか。


「じゃ、じゃあ俺は先に上がるから、ゆっくり浸かってるといいよ」


 このまま一緒に入っていたら、気がどうにかなりそうだ。

 そう言って立ち上がり、湯船から出ようとしたところで、俺は腕を引っ張られて引きずりおろされた。


「うわっ」


 ばしゃんと湯が大きく溢れる。


「なにするんだよ!」


 反論しようと振り返ったところで、天音は急に接近してきて、その艶かしい肢体を密着させてきた。言葉が止まる、動きが止まり、時が止まる。男なんて、所詮こんなもんだろう。

 なにも、言えなくなってしまった。


「主殿、わしと親睦を深めたくはないかの……?」


 耳元で囁かれる甘い言葉。

 ごくり、と喉が鳴る。ぞわぞわと全身が粟立つ。


「し、親睦って、なんの、ことだ……?」

「男と女が深める仲と言ったら、ふふ、一つしかなかろう」

「…………」


 ダメだ、本当に目眩がしてきた。

 同じボディソープを使っているというのに、天音の体は不思議と、異常なほどにいい匂いがしている。誘惑の言葉は脳を蕩けさせ、まともな思考能力が削ぎ取られていくかのようだった。

 さらにそれに拍車を掛けるのは、腕に触れるやわらかな感触。理性なんて、いつ飛んでもおかしくない状況だった。


「っ!?」


 ザバッ!

 再び急に立ち上がったことに吃驚したのか、天音は豆鉄砲をくらった鳩のように目を丸くした。


「し、親睦とかいう話なら、こ、今度、一緒に寿司でも作ろう、そ、それでいいだろ!」

「あ、ああ、うむ、まあ、そうじゃな……」


 呆然として答える天音。だが視線は俺の顔に向いていなかった。


「主殿、そんなことより、前は隠さんのか?」

「……あ……」


 気づいた。いつも一人で入ってるから、前を隠すタオルなんて持ってるはずがない。


「う、うわあ、天音のバカ!」


 まるで裸を見られた女の子みたいな反応になってしまった。

 顔を隠して前を隠さず。俺は逃げるようにして風呂場から立ち去った。

 曇りガラスの向こうでころころ笑う声がする、「可愛い主殿じゃなー」うるさいほっとけ!

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