2-4
門扉をくぐり、砂場がある程度のそこそこの広さを持つ庭を抜け、そして玄関を開けた。中へ入った。靴を脱いだら、天音が肩から飛び降りて、
「さぁ主殿、夕餉の仕度が待っておるぞ」
振り向きざまに声をかけてきた。
らんらんと目を輝かせ、溌剌とした声だった。
お前からしたら、そこは仕度が、じゃなくて仕度を、だろ。
俺を見上げる天音の顔は、暗がりだった先ほどよりも、眩しいくらいに輝いて見える。期待に満ち溢れた、夢を追いかける子供みたいだ。もしくは、好物を目の前に差し出された犬。
「お前、さっきの嬉しそうな表情は、寿司が食えるからか?」
「決まっておろう、ほかに何があると言うのじゃ」
天音は堂々とぺたんこの胸を張った。
元気がなかったから、昔馴染みに会えて嬉しいんだと勝手に分かった気になってたけど……。
感動の欠片もないやつだった。
「ま、そんなことだろうと思ってたよ。じゃ、さっさと手を洗ってこいよ。夕飯の準備するからさ」
「かたじけない」
にへらと笑うと、踵を返して洗面所へと走っていく。下手したら体くらいの大きさを持つんじゃないかという、銀色のもふもふな尻尾が大きく左右に揺れている。相当嬉しいらしい。
俺は俺で手荷物を二階の自室へ放り込み、部屋着に着替えた後、洗面所で手を洗ってからリビングへと入った。
天音はすでにテーブルに座り、五〇インチの大画面液晶テレビでバラエティ番組を見ていた。
言っていることの大半についていけないと思うのだが。なにがおかしいのか、時折くすくすと笑ったり、派手にテーブルを叩いて爆笑したりしている。
笑いは時代を超越する、そう悟った瞬間だった。
「主殿、夕餉はまだかの」
俺に振り返ることなく天音は言った。
家に居ついてからというもの、馴染むのが早すぎやしませんか?
これじゃ尻に敷かれる惨めな旦那じゃないか。
「はいはい」
肩を落とすのもそこそこに、適当に返事をし、俺は夕飯の準備に取り掛かる。
けど今日は楽でいい。永瀬家特製の稲荷寿司を貰い受けたからな。
もう作るのも面倒くさいからこの寿司と、かき玉汁でいいや。
二人分のかき玉汁を作り椀に盛り、そしてテーブルに運んだ。
天音はテレビのリモコンを操作し、テレビの音量を下げた。
重箱を開けると、つやつやと照明を照り返すお稲荷さんが、文字通りすし詰めになっていた。
天音は椅子に立ち上がり、待ちきれない様子でぴょんぴょん飛び跳ねる。
まあ、嬉しいのは分かるけどね、子供じゃないんだから。
「行儀が悪いだろ、ちゃんと座りなさい」
まるで母親のような口調で諭してしまう。これが母性というやつだろうか。
けれどそんな俺の言い分も聞かず、
「主殿は一列でよいな? ほかの五列はわしが食すから、安心されたし」
天音は勝手な言葉を口にした。
なにがされたしだ。
弁当の残りを五時限目終わりに食べたから、別にそこまで今日は腹が減っていない。それに俺はそこまでがめつくはないし、大人だ。だからここは大人な対応を心がけよう。
……決して、譲歩したわけじゃない。
「一列七個。俺が七個で、天音が三十五個食べる計算になるわけか」
「そういうことじゃ。では頂こうかの」
パチンと簡単に手を叩き合わせ、天音は重箱に手を伸ばした。
――ぱちん。俺はそれを、ゴリ直伝のハエ叩きを想像しつつ軽くはたいた。
「いたっ、何をするんじゃ主殿!」
すると不当な扱いだと言わんばかりに、当然のように天音は抗議してくる。
「ちゃんと、頂きますを言ってからだ」
「頂きます、これでいいじゃろ。では」
――ぱちん。再度伸ばした手を叩いた。
「また叩きおって! なんじゃと言うんじゃ、燃してしまうぞ主殿」
おぉ、なにか知らないけど、パリパリと天音の体に電気みたいなのが走ってるのが見える。
もしかしてこれが能力か? 片鱗なのか?
「手を合わせてから頂きますだろ、いつも言ってるだろうが」
けれどここで引き下がるわけにはいかない。どんな脅しにも屈するわけにはいかない。
稲荷寿司に夢中になってマナーを忘れるなど言語道断だ。我が家の家訓だからな。
親父が出張し、それに同伴した母さん、「兄ちゃんといると何されるか分かんないから、私もいく!」と失礼なことを言ってそれについて行った妹ともに出ている今、俺がそれを守らねばならない。
業に入らば業に従え、という言葉を、よもや神様が知らないわけがないだろう。
「むぅう、分かった。背に腹は代えられんからな」
観念したように唸り、手を合わせ、「頂きます」と天音は口にした。
お前は一体なにと葛藤してるんだ……。
瞬きの次の瞬間には、その口の中にお稲荷さんがダイブしていた。
「ほほお、これはなかなか。当時の味がよく再現されておる」
口をもぐもぐさせながら寿司を一つ摘まみ上げ、感心したように眺める。
「お前は審査員かよ」
呆れつつ、俺も一つ寿司をつかむ。見た目は普通のお稲荷さん。味付けなんて大して変わらないだろう。そう高を括っていた。そして、口に運んだ。
「美味い……」
素直にそう言葉がもれた。酢飯の味付け、お揚げの味付け、寿司の握り加減。どれをとっても俺のとは別格。全ての味が調和の上に帝都を築いているような、そんな完璧な味だった。
完膚なきまでに叩きのめされた。……もう、俺はゴングの音は聞きたくない。
「って、俺は誰と戦ってるんだ!」
「まあ、これはわしが、昔に無理を言って困らせた挙句に出来た作り方じゃからな。年季が違うじゃろ」
なんでもかんでも、年の功というわけか。
――けど、そう前置きし、天音は俺を見返す。
「主殿が作ってくれた不器用なお稲荷さん、わしは嫌いじゃないぞ」
すごく愛らしい、少女のような照れた笑顔。
ドキッとし、不思議とそれに見蕩れてしまう自分がいた。
いけない、そう思い頭を振ってごまかした。相手は妖怪みたいな神様だぞ。そんな甘言に惑わされてころりと騙されてみろ。きっとご近所さんから後ろ指さされて笑われるに決まってる。
食べるのに夢中なのか、天音は何も言ってこなかった。たぶん聞こえてないんだろう。
終始にこにこした笑顔を見ていれば分かる。
自分の分のお稲荷さんを食べ終え、かき玉汁でそれを流し、食器の片付けをしながら俺は尋ねた。
「そういえばさっき、お前の体から放電してなかったか? もしかしてあれが天音の能力?」
「なんじゃ、気づいたのか。そりゃあそうか。いまわしは実体化しておるし」
「え?」
聞き捨てならない言葉が混じってたような。……実体化?
試しに目の集中を解いてみた。霊視モードオフ。
「うおっ! ちゃんと見える」
霊視状態でなくても、天音の姿をしっかりと認識できた。
「だからじゃろ。普通なら、お主のような素人に、霊力の発散なんぞ知覚出来るはずはないからの」
「でもなんで、お前、見えるようになってんの?」
「それはあれじゃ。この家にいま、わしと主殿の二人しかおらんじゃろ? それに、少し前からそうしておるのに、気づかなんだか? まあ、主殿の前でだけならよかろうて」
二人きり……。背徳的な言葉であるにもかかわらず、なにも興奮しないな。
よかった、大丈夫、俺はロリコンじゃない。
ほっと胸を撫で下ろすと、パンと手を合わせ、「ごちそうさま」と天音は言った。
ちゃんと家訓を実践している。
本当に神様なのか? もっとこう傍若無人で聞き分けのないものだとばかり想像していたけど。どうやらそれは勘違いだったらしい。
「うむ、なかなか美味じゃったなー。吸物も美味かったし、わしは果報者じゃな」
「お粗末さまでした」
神様からお墨付きを頂いた。こんなものでよければ、まあ頑張れるかな。
幸せそうな天音の横顔に、俺はそう返事した。
「話戻すけど、さっきのあれが天音の能力って、いったい何に使うんだ?」
用途の問いかけに、天音は振り向きながら答えた。
「先刻の話に出ておったろ? わしが桜華に憑いておった頃、妖狐を退治したんじゃ」
「てことは、退魔のための力ってわけか」
「まあそういうことじゃな。退魔師の巫女だった桜華に憑いて、いろいろ暴れたもんじゃ」
なるほど。その退魔の巫女の血を引く永瀬は、専門のハンターみたいなものか。
そしてあの妖刀禍刈は、そのためのアイテムなんだろう。
同級生がそんな生業をしているなんて、果たして俺以外の誰が知っているだろう。表立っているのならいざ知らず、一般人には知覚出来ない、完全に水面下での、枠の外での出来事だ。
それどころか、神様や、妖怪や幽霊といった怪異、それらの存在を本当に信じている人間が、この世にどれだけいるだろうか。当事者の自分ですら俄には信じられなかった、というよりは信じていなかった。
初詣に行ったとしても、ただお参りしているだけ。いったい何に願っているのかも正直よく知らないし。
けれど、この辺りで大きい神社は永瀬の実家がある夜坂神社なため、必然的に皆そこへ参るのだが。いまなら、今まで俺は、このちっちゃな狐の神様と、その桜華って人に願っていたのだと理解出来る。
と――そこで疑問が浮かび上がった。
「でもどうしてお前はあんなボロ稲荷――もとい千歳稲荷にいたんだ?」
ボロと口にした途端、剣呑な目つきになったのを見逃さず、俺はすかさず言い直した。
それは正解だったようだ。いまや表情は元に戻っている。
「なんというかまあ、桜華は変わった娘でな」
「変わってるって?」
「言ってみれば天然なんじゃ。やることなすこと突拍子もなく、悪意なく悪気なく、それでいて場をかき乱していることをまるで気づいておらん、そんな娘御でな。あやつの勘違いで、たまたまあの稲荷に封印されたんじゃ。……まるで無邪気な子供のようじゃった」
思い出を懐かしむように目を細める天音。「紫音とは大違いじゃな」なんて本音をぽつりと吐露する。
その様子は寂しさを滲ませる、神様とは思えない、子供みたいに小さな在り方だった。
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