1-4
「あれ、陽一じゃないか。お前いったい何やらかしたんだ?」
生徒会室へと向かう途中、紙パックのジュースを啜る鏡也に呼び止められた。
「なにもしてないさ。それより、悪いな。今日は昼、一緒に食べられそうにない」
「ああ、それなら気にするなよ。俺は芽依の世話でもしておくさ。そんなことより急いだ方がいいんじゃないか? 美織さんに角が生えない内にさ」
鏡也は角のジェスチャーをしながらそう言うと、ストローのささった飲みかけのイチゴオレを、こちらに向かって放り投げてきた。
「うわっ、と……サンキューな鏡也!」
「なぁにいいってことよ。今度、学食でラーメンでもおごってくれよな!」
「これ飲みさしだぞ……しかも半分って、割りに合わなくないか」
左右に振ってみると、明らかに半分くらいの位置で、ちゃぷちゃぷと手の平に抵抗を感じる。
「ははっ、冗談じゃないから気にするなよ」
って本気なのかよ! タダでくれてもいいと思うんだけど!
そうか、これが俗に言う、
「タダより高いものはない――」
ってやつか。
「って言うだろ?」
思考が丸かぶりなんだが……。
「ほら、さっさと行った行った!」
「あ、あぁ」
背中をバシッと叩かれ、納得出来はしないが、促されるまま俺は廊下を早足で急ぐ。
こういう時、『廊下は走らない』なんていう小学校の標語みたいな校則が邪魔をする。
傍から見たら、きっと競歩でもしているのかと思われてただろうな。
誰と競ってんのか分からないけど……。
そうしてひた歩くこと数分。長い道のりだった。
それはそうだ。
生徒会室は、俺たち一年生の教室と保健室を擁する東棟とは反対の、二年生の教室と職員室を内包する西棟に設けられている。
ちなみに三年生は北棟。しかも生徒会室は五階にあるため、東棟一階にある保健室からはそれなりに距離があるのだ。
美織さんが待っているであろう生徒会室の扉の前で、俺は軽く気息を整える。
「すー、はー。んん!」
コンコンと二度扉をノックし、
「失礼します」
一言断りを入れると、
「どうぞ」
扉越しでも分かる、深窓の令嬢みたいな透き通った声が返ってきた。
静かに扉を押し開ける。キィ、と小さく軋んだ蝶番が妙にうるさく聞こえた。
なんで生徒会室に呼び出されただけでこうも緊張するんだろう。職員室よりも緊張する。
目の前には案の定、美織さんと奏先輩がいた。
部屋を見渡してみるが、どうやら二人だけのようだ。十数席ある長机の椅子には会長しか座っていなく、なんだか伽藍とした印象を受ける。
美織さんはいつものように扇子を口元に当ててこちらを向き、奏先輩はその後ろで疲れた顔をして立ち呆けていた。
「陽一さん、意外と早かったわね。まあ立ってるのも辛いでしょう。適当に腰掛けて頂戴」
言われるまま、俺は美織さんの対面の位置に腰を落ち着けた。
「ところで、話ってなんですか?」
生徒会室に呼ばれるほどのことをした覚えがないため、単刀直入だが聞いてみた。
「あら、分からない、と言った顔をしているのは冗談かしら? 陽一さんなら気づいてると思ったんだけど」
「えっ、なんの話ですか?」
「はぁ、呆れた。本当に分からないだなんて。腕の話に決まってるでしょう?」
「腕? ――ぐぉっ!」
まるでワードに反応したようなタイミングで、痛みが再び襲ってきた。
まさか、まさかな……。
「でも、さっきは何も視えないって――」
「あれは芽依がいた手前、情報漏洩を危惧して説明しなかっただけよ」
「なっ!?」
じゃあまさか、本当になにか、俺に憑いてるってのか?
「さっきも言ったけど、あなたに妙な女の子が憑いてるわ。コスプレしてるのかしらね、頭に耳がついてる」
「耳? コスプレ?」
鬼ならぬ、うさぎみたいなポーズをとる美織さんに、ついつい聞き返す。
自分で聞いておいてなんだけど、とても信憑性に欠ける言葉だった。
コスプレした女の子が俺に憑いてる? そんな馬鹿な。
「は、ははっ」
思わず乾いた笑いが口から漏れた。
「冗談だと思ってるのかしら?」
「ハッ! い、いえ、そんな馬鹿なことがあるわけないじゃないですか、冗談だなんて」
「陽一さん、かなり動揺しているようね」
「そりゃそうですよ。信じてないわけじゃないですけど、さすがに鵜呑みには出来ないです」
「なら、自分の眼で確かめなさい。――真実を」
そう言って立ち上がると、机を迂回し、美織さんはこちらへと歩み寄る。
そして俺の両眼に手をかざすと、眼の周りがだんだんと温かくなってくるのを感じた。
「なにをしたんですか?」
「少し力を送っただけ。本当はあまりしたくないのだけれど。一時的なものだけど、眼に意識して力を込めるようにしてごらんなさい。きっと、もう視えるようになってるから」
半信半疑だったが、俺は言われたとおりに眼に意識し集中してみた。少し眼球が熱っぽい気がする。そのまま視線を左腕へ――――っ!?
いた。視えた。確かに、女の子が噛み付いてる。
流れるような艶やかなストレートの銀髪、ふわふわしてるのが目で見て分かるほどのもふもふな獣耳、瞳は大きくくりくりとしていて美しい空色。頬っぺたはふっくらと柔らかそうで、花弁のような唇は小さく、真っ白な着物に身を包んだ可愛らしい女の子だ。
「…………」
目が合っても、女の子はうんともすんとも言わない。ただ無言で俺と視線を交わしている。
「どう、ちゃんといたでしょ?」
「そ、そうですね、確かに。でも美織さん、これはいったい……?」
唖然としつつ、言いながら女の子の頭に付いた、獣耳の真贋を確かめようと手を伸ばす。
が、危機を察したのか。女の子はこれ以上回らない万力を、さらに締め上げるみたいに、ぎりぎりと腕を噛み締めてきた。
「痛い痛い痛い! ごめんなさいごめんなさい!」
半端ない痛みに半泣きになりながら、必死でその許しを乞うた。
「ふん……」
すると決死の覚悟が実を結んだのか、はたまた功を奏したのか。女の子が初めて音を発した。しかし、機嫌が悪そうにただ鼻であしらわれただけだった。
なんだか、自分がものすごく小物に思えてならない、そんな鬱な気分にさせる、針の筵みたいな音だった。
「お嬢ちゃん、いきなり噛み締めたら陽一さん……お兄ちゃんが可愛そうでしょ?」
腕に噛み付く女の子と視線を合わせるように、美織さんは傍らでしゃがみ、諭すような優しい口調で語りかける。
「…………」
けれど、獣耳の女の子はなにも反応を示さない。
それどころか、不機嫌極まりないといった表情で、美織さんを睨み返している。
「はぁー。陽一さん、あなた確か、千歳稲荷へ行ったんだったわね?」
呆れたようにため息をつき肩を落とすと、美織さんは確認するように聞いてきた。
「うん、それは間違いないです」
「そこでこの子に噛み付かれた」
「いや、女の子じゃなくて、なんか犬っぽかったんですけど、いてっ」
さっきから犬だのボロだのといった言葉に反応している気がする。
……気のせいか?
「なるほど」
あごに手をやり、なにか思考をしている様子の美織さん。
少しして、ゆっくりと立ち上がると、女の子に向かって言った。
「お嬢ちゃん、稲荷寿司は好きかしら?」
腕に噛み付く女の子の体が、一瞬だけピクリと反応を示した。
頭にばかり目がいっていたため気づかなかったが、見れば尻尾まで付いているようで。
無表情の顔からは感情を読み取れないが、尻尾なら可能なようだ。視界の中を右に左に、忙しなく何度も往復している、毛布を束ねたような豊かな尻尾。
「お寿司をご馳走してあげるから、少しお話を聞かせてくれないかしら?」
その反応はもちろん美織さんにも視えているわけで、いけるとの確信があるのだろう。相手が怪異だろうと遠慮している素振りなど一切なく、交渉の言葉を繰り出した。
「うー、うー」
稲荷寿司がそんなに好きなのか、困ったような顔をして唸る女の子。
気づけばよだれを垂れ流していた。
「うわ汚い!」
「っ!?」
その言葉に気分を害したのか、それとも条件反射か、はたまた無意識か……。
女の子はがじがじと何度も腕を噛んでくる。
「うぅ、う……」
今度は俺が呻き蹲る。
「奏、稲荷寿司を用意してちょうだい」
「でも美織、今日は君サンドウィッチだろ? 稲荷寿司なんて持ってきてないじゃないか」
「なければ作るまでよ。調理室でも職員室でもどこでもいいから借りて作ってきて」
「って僕が?」
「他に誰がいるの? それとも、芽依にでもやらせる、お兄ちゃん?」
「いや、芽依はダメだよ芽依は。それに僕も寿司なんて作ったことないからね、味なんて保証できないよ」
側近であるはずの奏先輩の言葉に落胆したのか、美織さんは嘆息すると、やれやれ、そう言って首を横に振った。
「しょうがないわね、なら私が作ってきてあげるから、数十分待っていてちょうだい」
「数十分って、米どうするんですか?」
「今日、調理実習でなにかしら作ってるクラスがあったはずだから、そこから少しばかり拝借してくるわよ」
「でも昼休み終わっちゃいますよ? 授業どうするんですか」
「そんなものは腹痛で保健室で寝てたとかにすればいいでしょ、仲良く三人で」
「それはあらぬ誤解を生みかねないと思います」
生徒会長が何を言っているのやら。大の高校生が男女三人で、川の字になって一つのベッドで寝る? 明らかに不純異性交遊だと風紀委員に厳罰くらっちゃうじゃないか。
美織さんは時々、会長らしからぬいい加減さを披露するから対応に困る。
「まあそこらへんは適当でいいのよ。じゃあ、少しだけ待っていてね陽一さん。それとお嬢ちゃん、ちゃんと作ってくるから、あんまり陽一さんをいじめないようにね」
ぱちりとウインク一つ残すと、美織さんは奏先輩を同伴して生徒会室をあとにした。
部屋には俺一人、となぜか腕に噛み付く獣耳少女。会話なんてもちろんない。が、好物が食べられるとあってか、さっきまでとは打って変わったような腕の痛みのなさ。
よだれは垂れ流しだけど……。
それから十数分後。
「あれ、ずいぶん早かったですね」
思いのほか早く、二人は戻ってきた。
「作るのも面倒だったから、家に電話して持ってきてもらったわ」
「なるほど」
「でも、私が作るよりは少しはマシでしょ、老舗の寿司屋から取り寄せたものだもの」
再び対面の椅子に美織さんは腰掛けると、奏先輩は会議机の上に、稲荷寿司のぎっしり詰まった重箱三段を広げた。
それにしても凄い自信だな、まあ、美織さんなら納得できる気もするけど。
「お、おお、おぉおおー!」
そしてついに腕から口を離した女の子は、宝物のように目の前で輝く(輝いて見えているであろう)稲荷寿司の山を、ため息とともに前のめりで見つめる。
まるで餌を前にしている、サルのようだった。
「誰がサルじゃ空け」
「あ、喋った」
ようやく口を利いてくれた。といっても出会って? いや認識して十分そこそこなんだけど。
初めて聞いた少女の声は、幼くて愛らしくもあり、どことなく威圧的でもあった。
俗に言うジジイ言葉というものがそう聞かせているのかもしれない。
「餌に釣られるとは、随分と簡単な怪異ね」
「怪異? ってことはこの子、やっぱり妖怪とかお化けかなんかですか?」
「誰が妖怪じゃ失礼な、わしは神様じゃ」
そう強く言い放つと、少女は腕から離れて机の上にふわりと降り立った。全体像を見るのは初めてだが、耳と尻尾をなくせば可憐な美少女、という気もしないでもない。
にしてもちっちゃい子だな。身長六〇センチくらいしかないんじゃないのか?
「でもその耳と尻尾、それに千歳稲荷で陽一さんに憑いたという事実。どう照らし合わせてみても、あなたが狐の妖怪であることに変わりはないでしょう」
冷静に分析した結果を自信たっぷりに口上する美織さんは、まるで体は子供頭脳は大人などこぞの名探偵みたいだった。いや体も十分大人だけど……。
「…………」
論破されてしまったことが悔しいのか、少女はだんまりを決め込んでいる。
「私には残念ながら祓う力までは備わっていないの。だからあなたを今どうこうするということはないから安心して。だから聞かせてほしい、どうしてあなたは陽一さんに憑いたのか」
美織さんにしてはずいぶん腰の低い物言いだ。まるでお願いし頭を下げるかのような。
するとそんな美織さんの切実さが伝わったのか、腕組し仁王立っていた少女は小さく息をはいた。
「しょうがない奴じゃ、観念するぞ。わしは確かに狐の怪異じゃがな、厳密には妖怪ではない。ちゃんとした神の位も持っておる。そりゃあ八百万の神々には及ばないかもしれんがの」
がさごそと着物の帯を探り、ほい、と言って狐の少女は、美織さんに枯葉を差し出した。
「なになに、
「あまなだの、おとひめのかみ? ってよく読めましたね美織さん」
「だって、ルビ振ってあるし」
あ、なるほど。感心して少し損した気分だ。
「齢千歳を超え、天狐となったわしを、皆は敬意を込めて天音と呼ぶ」
「天音……」
素直に、綺麗な名前だと思った。まるで空が音を奏でるような、美しい響き。
「敬意がまるでこもっておらんな、主殿」
なぜかは分からないけれど、感動していたのに狐にダメ出しをされた。
「ところで天音さん、いまの主殿というのは?」
ダメ出しをくらい肩を落とす俺とは違い、美織さんはちゃんと言葉を聞いていたようだ。そしてどうやらそれは、狐の少女が俺のことを「主殿」と呼んだことに起因するらしい。
……ん、主殿?
「そりゃそうじゃろう、噛み憑いてしまったんじゃから、当分の間は我が宿主になる」
なんだか寄生虫みたいな話だな。
「誰が寄生虫じゃ空け者」
神藤陽一は心の声を読まれていた!
「つまり、天音さんは当分の間、陽一さんの腕に憑いたまま、ということかしら?」
「まあその通りじゃな。して娘、このお稲荷さんはわしがぜんぶ貰っても構わんのじゃろ?」
「ええ、いいけど――」
言葉の途中で、すでに天音と名乗った狐は手を重箱へと伸ばしていた。
「私の質問にあと一つ答えてくれるかしら?」
寿司に触れるか触れないかの距離で、天音の手がピタリと止まる。
お預けをくらった犬みたいな悲しそうな顔をして、美織さんを見返す。
ごくり、とその白い首筋の喉が鳴る。
「どうしてあなたは、陽一さんに憑いたの?」
その質問は、俺も一番聞きたかった話題だった。
手を伸ばした女豹のポーズのまま、天音は口にした。
「そんなものは……たまたまじゃ。というのは些か適当すぎる返答じゃな。言い直そう、たまたま悪い霊体に纏わりつかれとったそこの御仁が、余りに不憫に思えての。だから祓ってやったまでじゃな」
「つまりは、悪霊に憑かれていた陽一さんを助けた?」
「助けたと言うほどのことはしておらんよ。代わりにわしが憑いたんじゃし」
ちょっと待てよ。悪霊っていったい、なんの話だ。
「いや俺、そもそもそんなものに憑かれた覚えないんだけど」
「お主、日常的に倦怠感を覚えたりはなかったかの?」
倦怠感なら確かにあった。ここ数週間くらい、それは毎日感じていたことだ。
「その倦怠感の正体が、悪霊じゃ。
「確かに、言われてみれば怠くはないけど」
肩に圧し掛かるような気怠さはもうすでにない。ということは、俺にとって物凄くありがたいことをしてくれたんじゃなかろうか、このお狐様は。
「ようやくわしの有難さが身に染みたようじゃな、主殿」
見れば、ハムスターみたいに口いっぱいに寿司を詰め込み、もきゅもきゅと口を動かしながら天音は言う。ここだけ見ていればどうということもない、ごく普通の女の子だ。
少し老成しているようだけど。
けれど俺は、この後にやってくる試練、もとい使命を、この時には知る由もなかった。
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