第2話 天音と退魔師の巫女

2-1

 天音に噛み憑かれてから幾日が経った。季節は早くも、夏の様相を呈してきている。

 今年はどうやら、梅雨は足早に狐狸ヶ崎こりがさきを駆け抜けたようだ。


 肺いっぱいに溢れる新緑の香りを楽しみながら、俺はいつものメンバーと、噴水のある芝の敷き詰められた公園みたいな学園の中庭で、ベンチに座り昼食をとっていた。


「はい陽ちゃん。大好きなから揚げだよー」

「おっ、サンキュー」


 弁当箱から箸でから揚げをつまみ上げ差し出す芽依から、弁当の蓋を受け皿代わりにして、から揚げを受け取る。

 貰ったばかりのから揚げを口に放り込みながら、芽依に尋ねた。


「そういえば、美織さんと奏先輩は?」

「みぃちゃんとそーちゃんなら生徒会のお仕事だって。会長さんは大変だねー」


 言いながら、芽依は購買でゲットしたというデラックスチョココルネを頬張る。

 購買の菓子パン部門でも女子人気の高いコルネだが、デラックスは五十センチと長大だ。故に一日五個限定販売の稀少品。

 人波を縫っていく芽依の姿が目に浮かぶ。

 しかしコルネを片手におかずを頬張るとは如何なものだろう。味の調和も何もあったものではないと思う。


「奏先輩のことも、少しは気にしてやれよな」


 お兄さんなのにまるで心配されてない奏先輩に同情しつつ、俺は左肩に意識を集中させた。

 先ほどからうーうーと唸る左腕に宿る神様、天狐の天音と会話するためだ。

 なんと便利なことに、念話が可能なのだ。まあ、エッチなことを考えようものならすべて筒抜けな点、とてつもなく不便だけど。


『一体どうしたんだよ、さっきからうるさいぞ』


 あれから何度か美織さんに手伝ってもらい、なんとか安定して天音を認識できるレベルには霊視能力が備わった。まだ少し、集中しすぎると目が疲れるけど。


『うるさいとは何事か! 目の前にお稲荷さんがあるのに食べられんとな? これは拷問以外の何ものでもなかろうて!』


 キーンと耳鳴りがするような怒声が耳を劈く。


 ああ、そういえば。昨晩の残りを詰めたんだった。

 弁当箱の端に申し訳なさそうに鎮座しているお稲荷さん。ちなみに一つしかない。保冷剤のおかげでまだ冷たいが、これからの季節は難しくなってくるだろうな。


『まあ来週あたりにまた作るからさ、それで我慢してくれ』

『主殿はわしに死ねと申すか! わしも手伝うから寿司握ってくりゃれ』


 必死に懇願してくる天音はもうすでに半泣きだ。

 天音に憑かれてからというもの、毎日この調子だから正直疲れる。まだ重老爺とか言う奴のほうがマシだったかもしれない。

 耳元でピーピー喚いては、あじあじと甘噛みしてくる天音をあしらいつつ、俺はため息を一つついてから、皆の注意を引くべくして、バッとその場で立ち上がった。


「おっ、どうしたんだ陽一? いきなり立ち上がったりなんかして。なんかの宣誓か?」


 メロンパンを食べ終えて、いまは紙パックのイチゴオレを飲んでいる鏡也が声をかけてきた。

 そんなことしないよ、まったく。日常に生きていて、そんな宣誓するほどのことなんてなにもないだろ。公開告白じゃあるまいし。


「どうしたの陽ちゃん、また気分悪くなったの?」


 少し眉を下げ気味で、心配そうに芽依もこちらを向いた。

 芽依の心配性も、これはこれで困りものかもしれないな……。

 よし! 心の中で気合を入れ、そして声を張り上げる。


「うおっ! なんじゃありゃー! まさかあの光はゆーえふおー、UFOじゃないのか!?」


 いささか手が古すぎる気もしないでもないが、二人の注意はこれで間違いなく向けられるはず。案の定、宙を指差す俺に釣られて、二人は光の速さで空を見上げた。


「なんだマジかよ! そんなことなら早く言えよな。おい陽一、UFOどこだよ、写メ写メ」

「すごい陽ちゃん、よく見つけたねー。どこかな、どこかなー?」


 単純な二人に感謝しつつ、二人ともありもしない光を探して空を見上げている隙に、タイミングを見計らって、俺は弁当箱からお稲荷さんをつまみ上げた。

 そして左肩付近に手を移動させる。


『ほら、一口で食べろよ』

『かたじけない、主殿』


 ちらりと見やった天音の横顔は、思いのほかデレデレだった。

 本当に好きなんだな、稲荷寿司。というか、こいつはお揚げならなんでもいいんじゃないだろうか? 今度いろいろ試してみるか。

 言った通りに、ぺろりと一口で寿司を平らげた天音から視線を戻し、


「いやー悪い、俺の気のせいだったかも」


 何事もなかったかのように二人の背中に声をかける。


「なんだよそれー、もう少しで俺も一躍時の人になれたかもしれないのによー」


 携帯の電源ボタンを押し、カメラモードから待受けに戻した鏡也が残念そうに呟いた。


「見間違いなら仕方ないよ。でも見たかったね、UFO」


 にこにこ笑ってはいるけれど、芽依も楽しみだったんだろう。

 声からがっかりした感が伝わってくる。


「悪い悪い、今度購買でパンおごるからさ」


 財布の事情的に、学食は無理なのだ。そこはなんとか察してくれ。と、侘しい内情を心の中で吐露しつつ、俺はベンチに座りなおし――たところで気がついた。

 なにやら、強い視線を感じる。

 天音もそうだったようで、俺が反応するよりも先に振り返り、口にした。


『ん、あの娘御は……』


 天音の視線の先には、紫紺の刀袋を携える一人の女子生徒。

 黒髪の姫カットがよく似合う、黒いリボンで纏められたポニーテールの少女。左腕の腕章には、風紀委員の文字が燦然と輝いていた。


「まさか、視えてるのか……」


 女子生徒の表情は、まさに驚きといった風に目を見開いていた。

 普段は冷静でなににも動じない、鉄の少女の異名を持つ、あの永瀬とこのせ紫音しおんがだ。


『おい主殿、あの娘、一体なんじゃ?』


 なんじゃと聞かれても困る。同級生だけど俺も詳しくは知らない。

 というかクラスも違うし、話したこともないしな。でも実家がこの辺りでも大きな神社で、あの夜坂やざか神社の巫女さんだということは知っていたりする。


『夜坂、まさかあの娘……』


 何か思い当たる節でもあるのか、天音は俺の肩を執拗に揺さ振ってきた。


『お、おい、なんだよ一体』

『懐かしい霊気だと思ってみれば……。あやつ、子孫がおったのか……よくもまああんな娘を娶る男がいたものじゃな』


 一体なんの話をしているのか、天音は独り言をぶつぶつと呟く。

 天音に気を取られている内に、永瀬はこちらへ向かって歩き出していた。


「やべ、こっちに来る」

「んーどうしたんだ陽一、なにがヤバイって。あ、風紀委員か。まさかお縄になるようなこと、なにかやらかしたのか? スカートめくりは現金だぜ!」

「俺は何もしてない見てない聞いてない!」


 というか、現金のニュアンスが怪しすぎる! そこは厳禁だろ。

 なにを言い出すかと思えば、学園は風俗じゃないぞ。


『どうするつもりじゃ、主殿』


 知らん、俺はとぼける。

 だからお前は何も喋るな動くな出来ることなら息も止めてろ。


『そんな殺生な……』

『しー!!』


 沈黙を促したところで、ちょうど永瀬は俺の目の前で立ち止まる。

 怪訝な表情を浮かべたまま、視線は迷うことなく、俺の左腕へ。

 さすがは数百年だかの歴史がある神社の巫女さんだ。完全に気配を感じているんだろう。


「や、やあ、今日もいい天気だね、永瀬さん」


 慌てて普段どおりを繕った。

 空は間違いなくピーカンだ。何もおかしなことは口走っていないはず。


「古臭いナンパの仕方だな」


 すると背後でそれを聞いていた鏡也が、ぼそりと言った。

 断っとくがこれはナンパじゃない、振り返ってそう否定したいが、相手の出方が分からない以上下手に動くのは危険だ。何せ永瀬は武器を持っている。背後など見せようものなら斬られかねないだろう。と言うのは勝手な妄想だけど……。


「そういえば、話すの初めてだよね」


 年頃の女の子にまじまじと腕を凝視される、ということに妙な居心地の悪さを感じ、焦って言葉を繋いだ。

 引き攣りそうになる表情筋を必死の思いで動かし、違和感ないような作り笑顔を浮かべた。

 これは努力賞ものだと思う。


「あのそれ――」

「あーなんか服に穴開いちゃってさ、まったく困るよ。変な性癖でもあるのか、とか聞かれちゃうしさ、はは、は」


 永瀬の指摘を回避するため、俺は言葉を被せた。

 なんとかこの危機を脱しないことには、俺の明日はない!


「憑いて、ますよね」


 正確無比な言葉のストレートパンチが、俺の顎を直撃した。

 脳みそがぐるんぐるんと揺れる。立ち眩みを感じたがなんとか踏み止まった。


「えっ! な、なんのことかさっぱり分からないよ」

「惚けないでください。神藤君、それ、妖怪ですか?」


 明らかに彼女には見えてる、いや、視えてる。

 まるで敵を殺しにかかるような冷血な視線が、左腕を射抜く。


 チャキ――と刀袋から音がしたのは、気のせいではない。

 見れば、刀袋の先から柄がこんにちはしていた。竹刀か木刀だと思いきや、その柄巻は刀のそれをしている。

 竹光だという線も有り得なくもないけれど、それは火を見るより明らかな重量感を醸し出していた。


 これは非常に不味いパターンだ。どこかで死亡フラグでも立てたのだろうか?

 思考している間にも、ストリッパーのようなのんびりとしたじれったい動作で、徐々に払われていく刀袋。


「ちょ、ちょっと落ち着こう永瀬さん! そんな光物をこんなところで取り出したら、銃刀法にでも引っかかってそれこそお縄だよ」

「…………」


 切迫した一言で、冷静さを取り戻したのか、永瀬の瞳から殺気が消え、「それもそうですね」言いながら半分ほどまで下ろされていた刀袋は、緩やかに元の位置まで上げられた。

 修羅場は掻い潜った。ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間。


「――と言っても、この妖刀禍刈まがりは人を斬ることは出来ないんですけど。でも、剣閃を飛ばすことでなら切断は可能ですが、神藤君、あなたのその左腕で、試してみますか?」

「間に合ってます!」


 即否定の返答をした。今の目は間違いなくヤバイやつだった。さっきのがまだ可愛く思えるくらいに。

 嫌な汗が背中を伝う。

 まだ夏本番でもなんでもないのに、シャツが汗を吸って背中がスースーする。このままじゃ風邪でもひきそうだ。


『主殿、そもそもこの娘は霊感持ちの巫女なんじゃ。わしの存在なんぞ鼻からバレておる。なにがしたかったのかは分からんが、今でも殺気は消えておらんよ』


 すると黙ってろと言ったきり、今まで沈黙を保っていた天音が痺れを切らして、ついには口を開いてしまった。

 黙ってれば、新しいだっこちゃんとか言って騙せたかもしれないのに。


「なんだって?」


 ――いや、ネタが古すぎるか。


「陽一、さっきからなにぶつぶつ言ってるんだ? ナンパしてるんじゃなかったのか? 下手くそかよ」


 そのセリフはお前にだけは言われたくない。今のところ、中学からの通算で声かけた女の子全員に断られてるじゃないか。

 鏡也に反論したい気持ちをグッと堪え、いまだ殺気が消えていないという永瀬に視線を戻す。けれど見た目からはそんなことを微塵も感じさせない。

 いつもと変わらない、無表情無感情な永瀬の顔だった。


「なんですか神藤君。そんなに女の子の顔を、じろじろと嘗め回すように見つめるものではないです――」

「あ、ごめん」


 俺から視線をそらし、意外にもポッと頬を赤く染める永瀬さん。

 条件反射でつい謝ってしまった、が――


「するなら、体にしてください」


 ずいぶんとずれている女の子のようだった。

 驚いた、というより、少し引いた。

 すると突然、授業開始の五分前を知らせる予鈴が鳴り響く。


「きょーちゃん、次なんの授業だったっけ?」

「確か数学じゃなかったか?」

「なら早めに行かないとだね。陽ちゃん、早くいこ」


 平らげた弁当箱をさっさとしまい、二人は教室へ戻る準備を整えた。

 一瞬、芽依の瞳が不機嫌そうな色を宿したように見えたのだが……。


「気のせいか……?」


 かく言う俺の弁当箱は、白飯を少しばかり食べたのと、天音に分けた稲荷寿司しか減っていなかった。貴重な昼休みのご飯時を、逃してしまった。激しく後悔。

 鏡也は芽依をからかいながら、そして芽依はプンスカ怒りながら校舎へと入っていった。

 中庭に取り残されたのは、俺と永瀬、そして天音だけ。


「娘……」

「? なんですか、妖怪が私になんの用です?」

「否定したいが、今は時間がないそうじゃ。だから放課後とやらに、もう一度わしと会え」

「神藤君から直々に退魔の依頼がありました。ということで、その腕はもう必要ないんですね?」

「いやちょっと待て! 俺はそんな依頼はしてないし腕を捨てた覚えもない。そもそも今のは天音の独り言で――」

「とにかくじゃ、放課後にまたここに来るがよい、少し話がある」

「妖怪と話すこともないと思いますけど、分かりました。それまでに首を洗って待っていてください。神藤君は腕を――」

「洗わない、絶対洗わないからな!」

「残念です、ではまた」


 と礼儀正しい丁寧なお辞儀をし、永瀬も黒い尻尾を揺らしながら校舎の中へと消えていった。

 緊張の糸が解け、億劫の溜まりみたいな肺の空気を、一息で吐き出す。


「はぁー。お前な、あんな約束して、万が一腕を切断されたらどう責任取るつもりだ?」

「なに、そんなことはわしがさせんよ主殿。我が主の命は、このわしが守ってやろう」

「ちっちゃいお前になにが出来るってんだよ」


 天音の言葉自体は頼もしい。だけどどうにも信頼性に欠けていた。天音に憑かれてからというもの、この少女の力をいまだ見たことがないのだ。

 どんな力を持っていて、なにが出来るのか。片鱗でも垣間見えれば、少しは信じられるというものなのだが……。

 仮にも神様なんだからさ。


「それはそうと主殿、授業とやらがあるのではないのか?」

「あ、そうだった」


 学校という束縛の世界から解放されるというのに、放課後がぜんぜん待ち遠しくない。こんな気分は初めてだ。

 気鬱に表情を沈ませながら、午後の授業に出るべく、俺も教室へと戻った。

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