第4話 異変
4-1
授業をサボってまで会合したあの日から、特に何事もないかのように過ぎた日々。
肝心の、警戒対象である鳩羽の様子はというと。
以前から変わらず、まるで生徒会役員みたいに品行方正で、授業には真面目に出ていた。教師からの評判もすこぶる良好だ。
けれど、近寄り難いオーラを醸し出しているせいか、友達はいないみたいだけど。
そんな、もう少しで夏休みになろうかという、七月の六日。
放課後の帰り道――。
夏の夕暮れの少しだけ生温い風が、夕日によってオレンジに染まる、住宅街の狭い小路を駆け抜ける。
青々とした緑の薫りを纏う、優しい風。
俺は思いっきり深呼吸し、その風を肺いっぱいに吸い込んだ。
そして、吐き出した。
「はぁー」
「はぁー。気持ちいい風だね、陽ちゃん」
すると左隣で、一緒に深呼吸していた芽依が声をかけてきた。
最近は暑さのせいか、ミディアムボブの茶色い髪を、左のサイドテールにして結っている。
ツインにしないのは、本人曰く、「幼く見えすぎるから嫌なんだもん」だそうだ。
「そうだな、このくらいの時期はまだ夕風が涼しくて好きだ」
「分かる分かる。真夏は風が熱くて、嫌になっちゃうよね」
「だな。芽依はいつも溶けてるしな」
「むっ。溶けてなんかないよ、ダレてるだけだもん」
芽依は唇を尖らせて抗議の意を顕にする。
どちらもあんまり変わんないだろうに。
「それより陽ちゃん、腕の痛みは、もう引いた?」
「え? あ、ああ、今は、痛くないかな」
「そうなんだぁ、よかったね」
俺の左腕を見ながら、芽依はホッとしたように胸を撫で下ろした。
そう、今はもう痛くはないし、重くもない。
原因は解ってる。あいつがいないからだ。
まったく、どこをほっつき歩いているのか……。
霊力を使うだのとぬかしておきながら、散歩に出かけるとは何事なのか。
帰ったら説教してやらないと。
「あ、もうお別れだね、陽ちゃん」
「え?」
突然かけられた声に我を取り戻し、辺りを見渡してみる。
たしかに道の分かれ道。
芽依と俺の家は反対方向にあるため、いつもこのT字路で別れることになっている。
「本当だな。じゃあ芽依、迷子にならないように帰るんだぞ」
「むー、陽ちゃんはいつもわたしを子ども扱いして!」
そこで怒られても困る。実際、最近ここらで迷子になったわけだし。
奏先輩から連絡を受け、芽依が帰ってないから心当たりはないかと聞かれた。
万が一ということもあるかもしれないと、夕食を投げ出し、慌てて芽依を探しに出かけたところ、近所の路地裏に挟まって子猫と戯れていただけだったという。
話を聞くと、子猫を追いかけているうちに道に迷ったそうだ。
という言い訳を、身振り手振りを交えて一生懸命に主張していた。
あんなデカい家を見失うとか、どれだけ方向音痴なのか。
「まあ、今度は猫なんて見つけても追いかけたりせず、ちゃんとお家に帰ること。分かった?」
「それは分かってるよ、あれはたまたま迷っただけだもん」
「はーいはい、分かったよ。じゃあ芽依、また明日な」
「うーん、あしらわれてるのは納得できないけど、また明日ね、陽ちゃん。それと、明日もお願いねー」
手を振りながら駆けていく芽依の小さな背中に、はいはいと半ば諦めの返事をして、いつも通りの約束をしつつ、俺たちはT字路で別れた。
ここから自宅までは徒歩約三分。
子供の頃から変わらない住宅街を独り、先ほどよりも色濃く染まるオレンジの道を、風を感じながら帰った。
程なくして着いた我が家は、まるで童話に出てくるブタが作ったようなレンガ調造りの家だ。大きさはまあ一般住宅とさほど変わりはない。庭付きだが、大きくもなく小さくもない。
だが強風に煽られても飛ばされたりはしないはず、大丈夫だ。
自分の家の前で腕を組み、仁王立ちして眺めていてもなにも始まらないので、客観的見物もそこそこに、さっさと帰ることにする。
玄関の鍵を開けてドアノブに手をかけ、いつも通りにそれを引き開けた。
「ただいまー」
気のない挨拶をして、今は誰もいない家に一人這入る。
返事など期待してはいなかったが、今日はいつもと様子が違った。
「おっ? ……こほん! おかえりなさいませ主殿、お揚げにする? 稲荷寿司にする? それとも、揚・げ・だ・し・豆腐?」
目の前には、コスプレじみた銀色の獣耳をピコピコさせながら、グラマラスなお姉さんが三つ指ついてお出迎え。
真っ白いミニスカート丈の和装を肌蹴させ、正座しているせいか見えそうで見えないチラリズムに、普通の男子なら今にも息子が反応してしまうだろう。
にしても……。
「おい、いきなりなんの冗談だ? それに一言突っ込ませてもらうと、お揚げしかないじゃないか」
「うむ。美織の屋敷に招待されてな、そこでいろいろ教授を受けたのじゃが。なんじゃ気にいらなんだか? 主殿が好きそうなものを、とりあえず羅列しておけと言われたのじゃが」
それ、いろいろと間違ってるからな。
それに、俺が好きなもの、じゃなくて、お前が好きなものだろ。
ていうか美織さんも、いいかげんなことをこいつに吹き込まないで欲しい。
毎度のように教えられてきたことを試される、俺の身にもなって欲しいもんだ。
「てかお前、この二日どこをほっつき歩いてたんだよ! いつの間にやらいなくなって」
「なんじゃ、わしがおらんと不安かや?」
「そういうわけじゃない。ほかの人間に見られたらどうするんだよ」
「大丈夫じゃ、そうそうまともな霊感持ちなんぞおらんからな」
「だからといって急に消えるなよ。鳩羽が襲ってきたらどうするんだよ。それに、その格好はなんだ!」
ビシッと指差し、俺は改めて目の前の女性、天音の姿を指摘した。
「なんだって、これは普段着じゃろうが。この姿の時には主殿もたまに見る姿じゃろう? なにをいまさら照れておるんじゃ」
「ちっげーよ! そういうことじゃなくて、なんでまた大きくなってるんだってことだよ」
「美織に教わったことを、試すため」
「霊力を使うから、頻繁には嫌だって言ってたじゃないか」
「まあそうじゃが……いつもチビじゃと、なにかと窮屈での」
言いながら、肌蹴た着物から自己主張も甚だしく寄せられた胸を、両手で持ち上げてみせる。
あ、あざとい……。
まったくもって目のやり場に困る。
普段は幼女なんだから、そんなに胸が窮屈ってほど豊かじゃないだろうに。
というかぺたんこだろうが!
だいたい、そんなことで俺の気を引けるとでも思ってるのか、この狐は。
心頭滅却すれば、火もまた涼しだ。
「とか言うておきながら、視線が釘付けじゃぞ、主殿」
「いちいち心の中を読まなくていいんだよ!」
そう反論すると、ふふふ、と口元に手を当て、鈴を転がすように天音はころころと笑う。
「そんなものは目を見ればすぐに分かる。この姿の時は、お主と念話が出来んことを忘れたかや?」
「ああ、そう言えばそうだったな」
でも俺だって、一応は優良で健全な男子なんだからな、それを忘れてもらっちゃ困る。
下手して箍が外れて、神様襲っちゃったらどう責任取るつもりだ。
一頻り笑った後、天音はその場ですっくと立ち上がった。
そして視線を交わす。
俺よりも少しだけ背が高い天音。
彼女は上がり框を踏んでいるため、自然と見上げる形でのやりとりになる。
口元に微笑を浮かべ、なにか期待の眼差しが浴びせられている。
瞬時に答えを用意して、俺はそれに備えた。
「して主殿、今日の夕餉はなんじゃ?」
「魚」
即答。
案の定、寂しげな顔をする天音。
「わしは揚げ出し豆腐が食べたいの」
「魚」
一寸も引く気は無いので即返答。
人差し指を唇に押し当て、もの欲しそうに見つめてくる天音。
「わし――」
「魚だって言ってるだろ!」
いい加減くどいので、少し強めな口調で言いつける。
すると、
「うっ……ぐすっ」
強く怒ったことに怯えたのか、それとも好物が食べられないからなのか。たぶん後者だと思うけど……。
目に涙を浮かべたと思ったら、銀色の耳を申し訳なさそうに垂れて、ついに天音は泣き出してしまった。
「うわっ、なんで泣いてるんだよ、俺が泣かせたみたいじゃないか」
「いつもは食卓にお揚げをいれてくれるじゃないかや、なんで今日はそう意地悪するんじゃ」
こいつは今、なにを口走ったのか気づいていないらしい。
「あのな、毎日毎日テーブルにお揚げの品が乗ってみろ。もう二ヶ月近くもそんな調子だぞ。一品程度ならいざ知らず、三日前なんか、白飯の他は全部お揚げだろうが! 人間はな、好物でもないものは三日も食えば飽きるもんなんだよ」
酷い時なんて、白いご飯をおかずに稲荷寿司なんて時もある。
それに付き合う俺も俺だが、いったい俺にどうしろと……。
かくりと膝を折り、天音はその場で崩れ落ちた。
潤んだ瞳が、俺を見上げている。
「主殿は、わしに死ねと申すか」
「うっ……」
なにも計算でやってるわけじゃないんだろう。
いままで一緒にいて、そこまで天音は打算的な女性じゃないことくらいは分かる。
ただ単純に、純粋にお揚げが大好きで、故に、子供みたいに必死で懇願してくるんだ。
この涙も、偽りなき本物だ。だから、俺は、いつも流される。
「はぁー。まいったよ、俺の負けだ。今夜は夜坂の稲荷寿司。揚げ出しじゃないけど、勘弁してくれよな」
学校帰りに、保冷剤たっぷり入れて永瀬が持たせてくれたもの。
もう一週間に一回は、夜坂の稲荷寿司を食べている。でも不思議と、あの味は飽きがこないというか、癖になるんだよな。
「ほんとかや!?」
好物であるお稲荷さんが食べられるとあってか、先ほどまでとは打って変わり、ぱぁっと花が咲いたような明るい笑顔。
瞳が涙で濡れているせいか、キラキラと輝いて見える。
「だから、さっさと手を洗ってこいよな」
「うむ、かたじけない、主殿」
にへらと笑い踵を返すと、天音は廊下をドタドタと盛大に走っていく。
大きい姿で廊下を走る姿はこれが初めてなような……。
そんないつものやり取りをした後、俺たちは食卓へ――。
「それで、なにか分かったのか?」
「なんじゃ藪から棒に。そんないきなり突っ込まれると、わしから蛇が出てくるやもしれんぞ?」
大丈夫だ安心しろ、お前から蛇が出るようなことはない。
犬くらいなら、出てもおかしくはなさそうだが……。
「お主はわしをわんこと申すか! いくら寿司を用意してくれたからといって、わしがそうそう大人しくしておると思わぬ方がよい――」
「ほら、俺の分のお稲荷さん。食べるだろ?」
「うむ、かたじけない」
言葉を遮り寿司を手で摘まんで差し出すと、天音は餌に食いつく魚みたいに口を開けて、そのまま俺の指ごと口に含んだ。
「あ、こら、俺の手まで食うことないだろ」
「ふふふ、わしを犬呼ばわりした罰じゃよ」
もぐもぐしながら、得意満面の笑み。
ほんと、子供みたいだな。
いや、もとのチビに戻ってるから、子供なんだけど、見た目は。
「それで、話を戻すけど、何か収穫はあったのか?」
「うむ。美織がご主人様というものを欲しておる、ということが分かった」
「いや、それを知ったところでどうにもならな――というか、そんな際どい情報を知ってしまった俺は、間違いなくヤバい橋を渡らなくちゃいけない気がするんだけど……」
にしても、それがホントだとすると、美織さんの奏先輩への態度は如何なものか。あれじゃ逆効果なんじゃ?
まあ、他人に諂ってる美織さんなんて、想像できないけどな。
「ていうか、また話が脱線しそうじゃないか。肝心な話がちっとも進まない」
「まあ、もぐもぐ……今のところは心配、もぐもぐ、ごくん。ないじゃろ……あー、ん……もぐもぐ……」
「食うか喋るか、どっちかにしろよな、まったく」
本当に鳩羽の動向を偵察しに行ったのかすら、怪しいもんだ。
「わしは美織の家に出かけておっただけじゃよ。玉藻の潜伏先なんぞ、わしは知らんからな」
「なっ! お前、ただ遊びに出かけてただけかよ」
「失礼なやつじゃな、主殿は。散策を兼ねた社会勉強と言ってもらいたいもんじゃ」
「物は言いようだな。お前の場合は変わらないだろう」
美織さんに毎回、余計な知恵を入れられてくるし……。
「神様といえど、世の中のことはよく知らねばならんからな。この歳になっても、勉強じゃ」
そんな、ない乳を張ってまで得意げになるなよな。
どうせ張るならさっきの大人バージョンで……っていやいや。
そもそも――
「美織さんの家に行ったんなら、ついでに鳩羽の家でも、千里眼で見通してもらえばよかったんじゃないのか?」
指摘すると、稲荷寿司を食べようと口を開けたまま、天音は「あ……」と呆然とした。
「そうじゃったな。わしとしたことが、ついうっかりしておった」
「まったく。思慮の欠片もない神様だな、天音は」
「ふん、生憎、わしは智慧を司っておらん。言うておくが、わしの担当は平穏と安寧、そして豊穣じゃからな!」
言いながら、天音はお稲荷さん一ダース入りの重箱を抱えて、椅子から飛び降りた。そして、どかどかと乱暴にフローリングの床を踏み込みながら、テレビ前の、ベストポジションであるソファーにどっかり腰を落とす。
「ふんっ」
強調するように、再度、不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「もう主殿にお稲荷さんはやらん。これはわしが引き受ける故、お主は玉子汁でも啜っておれ!」
「いや、俺まだそれ一つしか食べてないんだけど――」
「知らん、霞でも食べておればよかろう!」
なんだその貧民に対する暴言みたいなセリフは。神様の言うことなのか?
パンがないならお菓子よりも酷いぞ。
結局この晩、俺はなぜか家にあった賞味期限二ヶ月前のカップラーメンを、一人さびしく啜ったのだった。
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