12 林檎の香り


   ◆◆◆


 二人は何も悪くないのに何度も頭を下げた。

 世知慣せちなれず、たどたどしいお見舞いではあったけれど、二人の気持ちは素直に嬉しかった。

 言葉の端々はしばしから「ごめんなさい」とも「ありがとう」とも取れる、もどかしげなニュアンスが感じられて、まるで彼女たちはあの時に起きていたであろう、もうひとつの可能性の未来を知っているような気がした。

 無意識化での予測が彼女たちに何かを予感させたのかもしれない。


 勝手に転んだだけだから気にしないでほしい。


 そう微笑んで──事実そうなのだし──仲良く肩を並べて出て行く二人を病室のベッドから見送った。


 「骨折して良かったですね」


 「どこがっ!?」


 しれっとしたイルマの物言いに、わたしは思わず身を乗り出した。

 途端、激痛が全身を駆け巡る。

 骨にこたえるその痛みは、まるで懲罰の電流のようにわたしを黙らせた。

 息が詰まって声すら出ない。

 わたしが黙ってしまうと、さもありなんとイルマが続ける。


 「地下鉄の階段を上から下まで余すことなく転がり落ちて、左腕の骨折だけで済んだのは幸運な部類でしょう」


 見事な蒲田行進曲かまだこうしんきょくぶりでしたね、と妙なところに感心する。

 わたしはリアクションに困った。

 痛みの余韻で会話どころではなかったし、そもそも蒲田行進曲が何であるのかを知らない。

 ふつりと会話が途切れる。

 リンゴを剥くシャクシャクと涼しそうな音だけが病室に響いた。

 病室にはベッドが六つあったけれど、たまたまなのかサクラ色のカーテンで区切られた先はみんな不在だった。


 ベッドわきのパイプ椅子に腰かけて、イルマはリンゴを剥いていた。

 入院と言えばリンゴなのだそうだ。

 一晩の留守を経て、イヌマからイルマへと戻った彼は、相変わらずのマイペースぶりをみせていた。


 「自分でも死んだかと思ったよ」


 わたしは手の中のバスケットフラワーを感慨かんがい深く眺める。

 それは二人──スミとマナカからのお見舞いだった。

 白とピンクのバラとガーベラに、ミニベアのヌイグルミまでついている。

 女の子らしいチョイスだ。

 きっと二人で選んでくれたのだろう。

 お見舞いで病室を訪れた二人は、仲の良い友人同士に見えた。


 あの時。


 スミの手は誰の背も押さなかった。


 そしてマナカも階段から転がり落ちたりはしなかった。


 かわりに転がり落ちたのは、わたしだった。


 スミの腕に力がこもった瞬間、わたしは叫びながら二人の間に跳び込んだ。

 ──正確に言うと、跳び込もうとしたものの、足をもつらせて二人の間はおろかどちらにもかすりもせず、文字通り勝手に転んで階段を転がり落ちたのだ。

 それでもスミの腕にこもった力をうばうには、充分な効果があった。


 落ち方も派手だったから随分な騒動になったらしい。

 脳震盪のうしんとうを起こして病院に搬送はんそうされたわたしは、あの後の騒動を知らない。

 気が付けば病院の処置室にいて、レントゲンやCT撮影の後、医師から左橈骨頭亀裂骨折ひだりとうこつきれつこっせつの診断を受けた。簡単にいうと左肘の骨折──間接部分にヒビが入った状態なのだそうだ。


 打ちどころが悪ければ最悪の結果もあり得ただけに、「上手に転がったもんだね」と医師は冗談めかして笑った。

 とはいえ頭を強打していることから、大事をとっての入院をすすめられ、諸手続きについて看護師から説明を受けた。

 入院期間は今後の経過しだい。今のところは、すぐにでも院外に放り出されかねないほど扱いは軽かった。

 重いのは三角巾で吊られた左腕を覆うギプスぐらいだ。


 案内された病室に入ってみると、そこには既にイルマが居た。

 パジャマと着替え、洗面用具とスリッパ、印鑑に保険証までそろった入院セットをたずさえて、万全ばんぜんの態勢で待機していたのだ。

 もちろんわたしはまだ誰にも連絡を入れていなかったし入れる暇もなかった。

 おそらくはわたしが転落する前から準備に入っていたであろう周到しゅうとうさに、恐ろしいものを感じた。


 突然の留守。


 周到な準備。


 全てはイルマのシナリオ通りなのだろう。


 彼に問い詰めたいことは山ほどあったけれど、確かめるのが怖くて訊くに訊けないでいるうちに、スミとマナカの訪問をうけた。

 学校帰りにそのまま立ち寄ってくれたのだ。


 「これで良かったのかな」


 知らず知らず、わたしの口から疑問がもれる。

 今しがた病室を出て行った二人の肩は、親しげな距離を保っていた。

 今朝、振り切れてしまいそうになったスミの感情は、わたしという闖入者ちんにゅうしゃによって相殺そうさいされた。

 マナカの死という取り返しのつかない事態は回避されたのだ。

 だけど──


 「何も解決してないよね」

 「してませんね」


 イルマが肯く。

 まるで天気の話でもするみたいに彼の調子は軽かった。


 「今朝はなんとかやり過ごせたけど、心のわだかまりはそのままだし……」


 もしまたスミの感情が振り切れてしまったら?

 同じ過ちが起きないとは言い切れない。

 結局、何も解決していないのだという事実が、わたしを憂鬱ゆううつにさせた。

 キシだってそうなのだ。わたしはいつもその場の危機を回避しているだけで、根本的な解決には至っていない。

 それは本人たちの問題なのだから気に病む必要はない、とイルマは言う。

 その通りだと思う反面、わたしの無力感はかえって増した。

 溜息がもれる。

 どこか晴れきらない空気を察したのか、貴女には貴女のやるべきことがありますから、とはげますようにイルマがノート差し出した。

 自室に放り出してきたはずの“トレース”用の大学ノートだ。


 「タマサカからの課題が終わっていません」

 「……ああ」


 そんなこともあったね、と遠い過去のようにわたしは思う。


 「スミちゃんの“トレース”だいぶ書いたけど‥‥ダメ?」

 「現在の文字数6571。規定の16000字まで残り9429字。全く足りてません」


 怪我人のわたしにイルマは非情な宣告をした。

 のみならず「骨折が右手じゃなくて良かったですね」と死人に鞭打つようなことまで涼しい顔で言ってのける。鬼だ。


 「怪我人だし許してもらえないかな……」

 「無理でしょうねぇ」


 イルマは首を振る。


 「タマサカは融通ゆうずうを利かせると、り減るタイプですから、最初の規定を厳守するしかありません」


 そんなタイプあるの?


 以前にも同じような質問をしかけた時と同様に、わたしは出掛かった疑問を呑み込んだ。他にもまだまだ詰問きつもんしたい事柄が山積していたけれど、当分、そんな暇もなさそうで泣く泣くノートを開く。

 左腕を吊っているから片手での作業に時間が掛かる。

 なんとかパラパラとページめくると、わたしはそこに赤ペンで書かれた“3点”という数字を見つけた。

 イルマが校閲に付けた点数だ。

 わたしは弾かれたように顔を上げ、イルマを見た。


 「これヒントだったんだね。ありがとう」


 「いえいえ」とイルマが微笑む。

 地下鉄駅に向かって走りながら、どうしても分からなかった最後の難関。

 地下鉄出入口の番号は、3番だった。

 イルマはいつもこうしてこっそりヒントを残すのだ。


 「突破しましたから、そろそろ補助もいらなくなりそうですけどね」

 「突破?」


 訊いたけれど、イルマからの答えはなかった。

 彼は自分でいたリンゴを自分で食べながら──そうだろうとは思っていたけれど勧められもしなかった──新しいリンゴを剥き始める。

 まだまだ食べるつもりらしい。

 そして疑問に答えるつもりもないようだ。

 わたしはイルマからの答えを早々に諦めた。


 イルマやタマサカさんと関われば関わるほど、疑問は後から後から沸いて出る。膨れ上がっていく疑問に対して、答えと理解が全く追いつかない状態にあるのだ。わたしはそんな宙ぶらりんの疑問符に良くも悪くも慣れてしまっていた。

 彼らの沈黙が、まだその時ではない、と語っているように見えた。


 微かに風が吹いて、林檎の仄かな香りが頬を撫でていく。

 甘い匂いに目を細め、わたしはペンを握った。




   GIFT 2  (了)

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