10 真っ白な朝(わたし)



 快晴。

 真っ白な朝だった。


 朝日が街全体を白く染めて、影は限りなくあわい。

 白々とした街並みに、見上げた空の青さが目にみた。


 七月にしては清々しいと言える朝だったけれど既にどこかでセミの声がする。それはこれからやってくる暑さを物語るようにジワジワと耳に響いた。


 セミの気配を頭上に、わたしは街路樹の下を、ひた走った。

 この街は規模のわりに道幅が広い。

 車道は六車線、街路樹で区切られた歩道側にも、たっぷりの幅がある。

 立派過ぎる道路と、住宅と低いビルの混在が空間を広く見せて、結果的に人や車の往来をまばらに感じさせる。


 まるで余白の中を走っているような気がした。

 たぶん白くなりつつあるのは、わたしの思考のほうだ。

 激しい運動がわたしから思考力を奪いつつあった。


 ──なんだか走ってばっかり。


 走りながら愚痴りたくもなる。

 キシの時といい、今といい、わたしはいつも走ってばかりだ。


 「何故いつもぎりぎりなのでしょうか」とイルマに指摘されたのはいつだったろうか。過去の体験にしろ未来の可能性にしろ、感知できる範囲が狭いわたしは、どうしても事態の把握がぎりぎりになってしまう。

 結果、いつも走ってばかりなのだ。


 わたしは右手ににぎったスマホでチラリと時間を確かめる。

 ディスプレイには『07:16 a.m』とあった。

 残り十五分を切っている。


 もっと早く、と自分の脚を叱咤しったしてみたけれど、元々の運動音痴はどうにもならない。生まれたての小鹿か腰が抜けた猫みたいに、わたしの脚はのろのろとしていた。

 自宅アパートからずっと走ってきたのだから、そろそろ限界なのだ。


 息が上がって苦しい。

 軽くのけ反って喘いだ瞬間、足が滑った。

 あ、と思った時には、尻もちをついていた。

 わたしはそのままへたりこんでしまう。


 荒い呼吸の合間に、ひかえめな花の匂いが鼻孔びこうをかすめる。

 黄みを帯びた白い花びらが、あたり一面を覆っていた。

 エンジュの花。

 これに足を取られたのだ。

 この辺りの街路樹にはエンジュが多い。

 目線で道の先を追うと等間隔にならんだ街路樹の下がところどころ白い。

 この並木の先に、スミとマナカが待ち合わせたエンジュの木がある。

 マナカの肩に、ひとつふたつと花びらが舞い落ちてしまう前に、わたしはその木の下へ辿たどりつかなくてはならない。


 “トレース”を諦めたわたしがとった行動は単純なものだった。

 絵画教室に電話をかけて、急ぎの用があるから、と先生にスミの住所と連絡先を訊いたのだ。

 スミのケータイに連絡がつけば、何かしら口実をつけて待ち合わせ場所に行かせないという手もあったけれど、残念ながら電話は繋がらなかった。

 仕方がないのでネットMAPを使って住所から最寄駅を割り出した。


 中栄区役所なかさかえくやくしょ前駅。

 わたしが向かう先にその駅がある。

 自宅アパートから交通機関を使うには時間も位置も微妙で、結局、わたしはいつもの通り得意でもないマラソンを強いられた。


 スマホの時刻が『07:17 a.m』に時を進める。

 あと十三分。

 わたしはワナワナと笑う膝を無理やり黙らせて、再び走りだした。


 ──どうしよう。


 走りながら何度目かになる呟きを繰り返す。


 中栄区役所前駅の地下鉄出入口は全部で六つ。

 周辺にはエンジュの街路樹が無数にある。

 スミとマナカの待ち合わせ場所とおぼしき位置は複数存在した。

 どの出入口に向かうべきか。

 わたしは走りながらずっと迷っていた。

 ひとつひとつの出入り口を確認している余裕はない。


 ──どうする?

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