9 タイムリミット
◆◆◆
寝室のドアが開いて、イルマが起き出してきた。
定刻通りぴったり午前六時だ。
「おはよう」といちおう声を掛けてみたけれど、返答はない。
やはり心は“留守”なままのイヌマだった。
イヌマは黙ったままキッチンの流し台で顔を洗い──うちには洗面台というものがない──戸棚から食パンを取り出してそのまま食べ始める。
イヌマであっても彼が
朝だけで食パン
「六時か……」
わたしは時計を見て、それからノートを読み返す。
わたしにとって“トレース”は他人の日記を書くような感覚だった。それでいて日記の中の“ワタシ”には、境界を見失ったわたし自身も混じっている。他人なのに自分の日記。とても不思議な感覚だった。
「四日──雨」
わたしは日付のヒントになりそうな単語を拾っていく。
四日、雨が続いて、五日目に晴れた。
一週間前のことだ。
「……近い」
わたしは眉を寄せた。
予想以上に事態は切迫している。
◆◆◆
「左利き?」
不意に訊かれて“ワタシ”は視線を上げた。
絵画教室のアトリエでちょうど
視線の先にセマさんが居た。
このシミズ絵画教室の講師で、元々は教室の生徒でもあるらしい。
小柄でぱっと見は地味だけれど、目元の陰影に時々はっと魅せられるところがあって、それが見たくてつい目で追ってしまう。
そんな不思議な人だった。
「はい」
“ワタシ”は小さく肯いた。
思いのほか声は小さくて硬かった。
人見知りもあるけれど、デッサンを見られる気恥ずかしさの方が強い。
“ワタシ”が描いた球体はどこかいびつで、少しだけ右につんのめっていた。
ちゃんと描いているつもりなのに、目線を変えて確かめてみると、球は必ず右に傾いている。やり直すたびにますます歪んでいくように見えた。
「じゃあ、イーゼルの向きはこっちだね」
セマさんがイーゼルの向きを修正して、描くための姿勢と利き目について説明した。“ワタシ”の絵の歪みも左右の目の誤差からきているのだそうだ。
「続けてみて」と促されて、“ワタシ”はデッサンに戻った。
傍らにじっとセマさんが控えている。
見られながら描くのは苦手だった。どうしても線が硬く
ガタンと大きな音がして、反射的に見やると、セマさんが呆然とした表情で“ワタシ”を見ている。
顔色が真っ青だった。
急にふらついたセマさんが隣のイーゼルに肩をぶつけたのだ。
ようやく状況が呑みこめて、「大丈夫ですか?」と声を掛けたけれど、セマさんからの返答はなかった。
聞こえてなかったようだ。
驚きのあまり。
──でも、何に?
帰って休むように先生は言ったけれど、結局、セマさんは終了時間の午後十時まで指導を続けた。あれから一度も話さなかった。
“ワタシ”は道具を片付けて、「お疲れ様でした」と先生に挨拶すると、教室を出た。十時過ぎだというのに七月の夜は空気そのものがお湯のように暑くて、少し歩いただけで額にじっとりと汗が滲みだす。
“ワタシ”はハンドタオルを探して通学カバンを開く。
カバンの中でスマホの着信ランプが点滅していた。
ピンクに設定したLEDの発光に、ほっと胸があたたかくなる。
誰かからメッセージがある。
しばらくなかった喜びだ。
友達の輪から締め出された途端、“ワタシ”のスマホは
通話もメールもTownも、誰からも着信がないスマホ。
それは“ワタシ”自身よりも“ワタシ”の孤独を
でもやっと“ワタシ”のスマホに着信ランプの点滅が戻ったのだ。
相手が誰なのかは、すぐに分かった。
マナカしかいない。
“ワタシ”は画面をタップしてメッセージを開いた。
メッセージには今日の出来事と、面白い動画があったからとそのURLが貼り付けてあって、最後についでみたいなさりげなさで、「朝また一緒にガッコいかない? いつものとこ。七時半」とぶっきらぼうに書いてあった。
グループから外される前まで、“ワタシ”とマナカは一緒に通学していた。
地下鉄出入口近くのエンジュの木の下。
それがいつもの待ち合わせ場所だ。
プライドの高いマナカが自分から誘うのは、きっと勇気がいることなのだろう。ぶっきらぼうさの中に、マナカの気持ちを感じて嬉しくなる。
“ワタシ”はOKの意味があるピカピカしたスタンプを三つ連続で送り返した。
◆◆◆
「──エンジュの木」
わたしは文字をつづる手を止めた。
今は七月だからエンジュはちょうど満開の時期だ。
最初に見た“混線”の中で、マナカの肩に舞い落ちたのはエンジュの花びらではなかったか。その花びらを払おうと伸ばしたスミの手が、マナカを突き落としてしまうのだ。
精度が悪いせいか背景はぼやけていて、場所まではよく分からなかった。
マナカが暗がりに落ちていくように見えたのは、地下鉄の階段だったからなのかもしれない。
「え? ちょっと待って」
わたしは柱時計を見る。
針は六時三十分を過ぎていた。
「七時半に、エンジュの下?」
状況から、メールのやりとりがあったのは昨晩、絵画教室が終わった直後で間違いない。だとすると最悪の事態が起きるまでに、もう一時間を切っている。
何時、誰を、までは分かったけれど、何処で、の仔細が分からない。
わたしはペンを持つ手に力をこめた。
望むままの情報を引き出せるほど、わたしの“トレース”は熟達していないどころか、不自由な部分のほうが多い。
それでもなんとか必要な情報を手繰り寄せようと、懸命に文字を綴り続けた。
速く、速く、と握ったペンにせっついた。
見る間にノートは無意味な文字の
どれだけ先を急いでも、決して辿りつけない蜃気楼のように、求めている情報には辿りつけない。
書ける速さだってしれていた。
イルマの冗談のような“トレース”速記には到底およばない。
「“トレース”じゃダメだ」
とうとうわたしはノートを放りだした。
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