8 何故?


 “ワタシ”は殴られる直前みたいに奥歯をぐっと噛みしめて教室に入った。

 「おはよう」とあいさつを交わす明るい声。

 机や椅子が動いたりぶつかったりする、がちゃついた音。

 教室特有の喧騒けんそうがひどく遠くに聞える。

 “ワタシ”は重い足を引きずって自分の席へ向かった。


 「──きた」


 近くでたむろしていた少女たちの誰かが合図した。

 それまでの会話がピタリと止まる。

 あざとい沈黙が落ちて、それからクスクスと忍び笑いがもれた。

 いつからだろうか。“ワタシ”はもう彼女たちに「おはよう」と挨拶することを諦めてしまった。「ねえ」と声を掛けても、「おはよう」と笑顔を向けても、彼女たちは応えない。

 かわりに意味深なだんまりと、もれでる忍び笑いが彼女たちの応えになった。

 彼女たちは“ワタシ”の友達だった。

 先月までは。

 ある日を境に彼女たちはその輪から“ワタシ”を閉めだした。


 何故?


 あとになってみれば、あれこれと思い当たる節はあるけれど、決定的な何かがあったようにも思えない。

 それでも彼女たちは“ワタシ”を輪から締め出し、黙殺もくさつという態度をもって、その事実を“ワタシ”に知らしめた。

 何度も何度も繰り返され掘り返されるその行為は、どうやら彼女たちにとって恰好かっこうのエンターテイメントらしかった。

 もちろん、“ワタシ”にとって、その余興は少しも楽しくはなかった。

 “ワタシ”は出来るだけ足早に彼女たちのわきをすり抜ける。

 自分の席へ座ろうと椅子に手を伸ばし──そこで手は止まった。

 慣れた動作で伸ばした手は、つかむべき椅子を見いだせず、固まった。


 椅子がない。


 なにかの間違いかとあわてて辺りを見回しても、やっぱりワタシの椅子は見当たらない。

 ざわっ、と身体から冷たい汗がふき出す。


 隠されたのだ。誰かに。


 俯いた視界の端で彼女たちのチラチラとした目線と、沸き立つ直前のような押し殺した笑いが、全てを物語っていた。

 かっと顔が熱くなって鼻の奥につんと刺激がはしる。

 泣いてしまう。

 強く奥歯を噛みしめて必死に涙をこらえた。

 あふれ出そうな涙で視界が歪む。

 歪んだ景色の中、彼女たちの輪に、“ワタシ”はマナカを見つけた。


 何故?


 “ワタシ”は目でマナカに問か掛ける。

 マナカとは中学からの親友だった。

 模擬もぎの結果で担任には首を傾げられたけれど、二人で頑張ろうと約束しあって難関の高校を受験した。

 そして約束通り同じ高校に入学したのだ。

 一年ではクラスが別れてしまい、ようやく二年のクラス編成で同じクラスになれた時、二人で手を取りあって喜んだ。 

 そのマナカが何故、あちら側にいて、こちら側にいないのか。


 どうして?


 “ワタシ”の視線からマナカはそっと目をそらす。

 その口は薄く笑っていた。


   ◆◆◆


 ボーン、ボーン、と時計が五つ時を刻んで鳴った。


 イルマが拾ってきた柱時計だ。

 アンティークな雰囲気と時刻ごとに時を打つ音にセンチメンタルな哀愁あいしゅうがあって気に入っている。

 ただし時報にしろ振り子にしろ、何かとうるさいのが悩ましくもあった。


 わたしは嘆息たんそくした。

 時報のせいで“トレース”から現実へ強制送還されてしまった。

 スミの記憶の憂鬱ゆううつな重さと、早くしなくてはという焦りで、わたしはくたくただった。彼女の体験をたどるのは、わたしにも辛かった。

 絵画教室に入った頃から、どこか沈んだ感じはしたけれど、まさか学校であんなことになっていたなんて。

 マナカを押したスミの手に、ぐっとこもった力は、憎しみだったのだ。


 わたしはカレンダーを見る。

 今日は水曜日でどんな講義があって課題の提出期日に問題はないか、ざっと頭の中で確認する。課題も単位も問題はなさそうだ。たぶん。

 わたしは自主的な休講を決め込んだ。

 とてもではないけれど学校へ行っているヒマはない。

 わたしはペンを握った。


   ◆◆◆


 「……一緒に行かない?」


 どこかおもはゆげに声を掛けてきたのはマナカの方からだった。

 四日も雨が続いてようやく晴れた五日目の朝。

 体育館へ移動しようと教室を出たところで、マナカが待っていた。

 グループに締め出されてから“ワタシ”にとって一ヶ月、マナカにとっては一週間が過ぎていた。


 少女たちが“ワタシ”の次に輪から弾いたのは、マナカだったのだ。

 マナカは先週からひとりになった。

 ひとりで登校して、ひとりでトイレに立ち、教室の移動もひとり。

 何故なのかは知らないし知りようもない。教えてくれる友人は“ワタシ”にはいなかった。たぶん、“ワタシ”の時がそうであったように、マナカの時もたいした理由はないのだろう。

 少女たちにとって誰かを踏みつけるのは余興なのだから。


 孤立したマナカを見て、胸のすく思いが無かったと言えばウソになるけれど、態度には出さなかったし、むしろ気の毒にも思った。

 ひとりの辛さは“ワタシ”にもよくわかる。

 だからマナカをあざける気にはなれなかった。

 “ワタシ”はにっこり微笑んだ。


 「うん。いいよ」


 ──許してあげる。

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