7 短すぎる階段、長すぎる廊下


   ◆◆◆


 文字はするすると滑り出てきた。

 未だかつてこれほど見事に、“トレース”に成功したことがあっただろうか。散り散りな文章を書き殴ってばかりだった昼間の自分が嘘のようだ。

 わたしは死にもの狂いだった。

 頼りのイルマは“留守”で、タマサカさんにも連絡がつかない。

 他に相談できる相手もいないわたしは自力で解決にいどむほかなかった。


 何時、何処で、誰を、スミは殺してしまうのか。


 それを突き止めるために、わたしは体験と可能性の“混線”を、文字へと引き下ろす“トレース”を敢行かんこうした。

 “トレース”は漠然としたフラッシュバックでしかない“混線”に、物語性を付随ふずいする作業でもある。

 わたしはノートを開いてペンを握り、一心不乱にスミの体験を“トレース”し続けた。

 全身全霊をかけた“トレース”の再現率は高かった。

 少なくとも、わたしにはそう思えるだけの、直感があった。

 直感──それはつまり根拠の無い確信。


 「……これであってる?」


 はなはだ頼りなく、わたしは独りごちる。

 “トレース”の最中こそ確信に満ちているけれど、ひとたびペンを置いてしまうと急に不安になる。

 確信と懐疑。

 相反する波が交互にやってきてはわたしの自信を翻弄する。

 わたしはノートを読み返し、それからイルマが残したメモを見た。


 しばらく留守にします。

 探さないでください。

 追伸

 自分の体験としてトレースの人称は統一すること。

 

 わたしは放っておくと丸まってしまうメモのシワを両手でのばす。

 一度にぎり潰してしまったから紙はヨレヨレにたわんでしまっていた。

 追伸の部分が蛍光ピンクの花まるで囲んである。

 それだけ重要ということなのだろう。

 午前零時の就寝時刻になると、イルマは物言わぬイヌマのまま、寝室に引っ込んでしまった。

 彼はイルマだろうとイヌマだろうと定刻通りにしか動かないから、起床時刻の午前六時までは自室から出てこない。


 「自分の体験として、だからトレースの人称は“ワタシ”でいい……はず」


 イルマがどうして人称に拘るのか、その理由は分からないけど、他にすがるものもないので、わたしはイルマの言いつけを盲目的に守った。

 もっとも、スミも自分のことを“ワタシ”と呼んでいたはずだから、あまり意味があるようには思えなかったけれど。


 わたしはもう一度、ノートの文字を目で追った。

 放課後の教室。セーラー服の少女たち。

 何気ないひとときと、何気ない少女たちのセオリー。

 わたしにとって教室での思い出は薄れつつある。

 それでも教室にただよう鉛のような匂いと、独特の埃っぽさは生々しいくらいわたしの中に残っていた。


 教室は四角くて、とても狭かった。


 スミの感じている痛みや何処へも逃げられない息苦しさは、程度の違いはあるにせよ、わたしにも覚えがあった。

 わたしは過去の自分に伝えるように、スミにもそっと耳打ちしたくなる。

 世界は広い。ひとたび教室から飛びだせば、教室はバカみたいにちっぽけで、もっと風通しのいい場所がいくらでもある。だから大丈夫──

 


 わたしはぐったりと椅子にもたれかかった。

 “トレース”に没頭するあまり、心身ともに酷く消耗しきっていた。

 おまけに頭痛までする。

 鼓動のたび左目の奥に鋭利な痛みがはしる。

 口の中が粘ついて気持ちが悪かった。

 テーブルに置いたミネラルウォーターのペットボトルに口をつける。

 空っぽだった。

 しぶしぶ腰を上げてキッチンに立つと、コップに水を汲んでひといきに飲み干した。本当にひどい気分だった。


 “トレース”を開始してから、どれだけの時間が経ったのだろうか。

 夜に塞がれていたはずの窓の景色は、いつの間にか白み始めていた。

 もう朝だ。

 雀のさえずりに、わたしは焦燥を覚える。

 ピクシーのような少女の名前は分かった。

 マナカ。

 スミの同級生のようだ。

 わたしは彼女を救う手だてを探り当てなくてはならない。

 わたしの“混線”は時間にしろ距離にしろ、まだまだその範囲は限られている。つまり、あまり時間は残されていない。

 早く早くと気ばかりが急いたけれど、体力のほうは限界に近かった。

 濡れた毛布みたいに重い眠気が、ずっしりとおおい被さってくる。

 わたしは、ぱんっと両手で自分の頬を打つ。


 大丈夫。

 まだ間に合う。


 自分に言い聞かせて、再びノートに向かった。


   ◆◆◆


 絞首台の階段は十三段なのだと聞いたことがある。

 たぶん、ただの都市伝説だろうけれど、もしそれが本当だったのなら、死刑囚は十三段の階段を上りながら、何を思うのだろう。

 これまでの人生を振り返るにしても、これからの死と和解するにしても、十三段はあまりにも短すぎる。

 かといって階段が長すぎるのも、それはそれで考えものだった。


 “ワタシ”は短すぎる階段を上り終えて、長すぎる廊下を歩き始めた。

 もちろん物理的に教室までの距離が伸縮したりはしない。

 廊下を長く引き延ばしているのは“ワタシ”の方だ。

 一歩、一歩、小さく、そして出来るだけゆっくり歩いて、“ワタシ”は廊下を薄く長く引き延ばしていく。

 その足取りはきっとドナドナの唄にある子牛のようだったに違いない。

 どれだけゆっくり歩いても、そこにある以上、教室は迫ってくる。


 “ワタシ”には教室が処刑場に見えた。

 それが絞首台なのか、断頭台なのか、電気椅子なのか、全く別の何かなのか、どれであったとしても“ワタシ”には選択の余地なんてない。

 “ワタシ”は処されるのみなのだから。

 いやおうもなく鼓動が早まって、掌にじっとりと冷たい汗が滲み出す。

 いっそ逃げ出してしまいたかった。

 カバンを放り出して、靴も履かずに、外へ駈け出してしまえたら。


 でも、それは出来ない。


 心配する両親の顔が脳裏をよぎる。

 自分の惨めな姿を家族には知られたくなかった。

 心配をかけたくない。

 そして、なにより“ワタシ”自身が、今の現実を認めたくはなかったのだ。

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