5 我が家の宇宙人
洗面室から戻ると、わたしは平静を装って残りの時間をやり過ごした。
できるだけスミを正視しないように、それでいて全身の神経を彼女に張り巡らせているような、そんな感覚だった。
指導の最中も、帰りの道すがらでも、あの光景が何度も
青い空。
エンジュの花びら。
のばした手。
転落していく少女。
一連の光景がぐるぐるとめぐり続ける。
まるで悪夢のメリーゴーランドだ。
おかげで何処をどう通ってアパートに帰りついて、何処でどうして自転車を忘れてきたのか、そんなことも分からないくらいわたしは動揺していた。
つんとした鼻のピクシーのような少女は死んでしまう。
わたしには転落の瞬間しか見えてはいない。
それでも少女の死を絶望的に確信しているわたしがいた。
確信の根拠について誰かに問われたら、わたしには答える術がない。
だけどわたしは逆に問い返したくなる。
少女が最後に見た空は、あんなに青かったのに、どうしてそれが分からない?
直感とは、そういうものだった。
可能性の未来のどこかでピクシーのような少女は死んでしまう。
スミの殺意のない手が、結果的に少女を殺してしまうのだ。
それが何時で、何処なのか。
そして、そうならなくてすむ別の可能性の未来はないのか。
わたしはそれを突き止めなくてはならなかった。
できるだけ早く。
そのためには、もっと精度が高くて正確な──“混線”ではなく“共有”が不可欠だ。わたしの“混線”では、あまりにも頼りない。
イルマの助けがいる。
日頃の理解不能な言動は別として、 “タンデムパートナー”として、わたしはイルマに絶大な信頼を寄せていた。
──イルマならなんとかしてくれる。
その一心で黙々と歩き続けた。
きっとわたしの心から救済を求める声が届いたのだろう。
わたしがアパートに帰りつくと、部屋は真っ暗だった。
月明かりに照らされて、テーブルに残されたメモだけが白かった。
空疎な気配に、わたしは
嫌な予感がする。
素早く電気をつけて、メモを手に取った。
しばらく留守にします。
探さないでください。
追伸──
「……逃げられた」
呆然と呟いて、わたしはメモを握り潰した。
事態が困難でわたしの手には負えそうもなく、切実に助けを求めているような時、たいていイルマは
これもまた彼の“機能”上の問題なのだろうか。それともあえて突き放して、わたしに試練を課しているのだろうか。もしかしたら、ただ単に面倒くさいだけなのかもしれない。
鬼。
悪魔。
薄情者。
わたしは言葉の限りに罵った。
どれだけ大声を張り上げても、イルマはいつもの窓辺で、いつもの黒猫を抱いて、じっと窓外の夜を眺めている。
ピクリともしない。
なおもわたしは「人の命がかかっているのだから」と切々と訴えたけれど、やはりイルマからの返答はなかった。
イルマはときどき“留守”をする。
身体を、ではなく、心を。
目の前にいて、いつもと同じように動き、食事をとって、眠りもするけれど、心が“留守”になるのだ。
そんな時は何を話しかけても、何を問いかけても、たとえどれだけ罵っても、彼はまったく反応しなかった。
イルマには名前がない。
名前をつけてはいけない“ナニカ”なのだとタマサカさんは教えてくれた。
だからその“ナニカ”が居る時を“居る間”と呼び、居ない時を“居ぬ間”と呼ぶ。つまり、イルマは今、“イルマ”ではなく“イヌマ”なのだ。
どうしてそうなるのかは分からない。
イルマにはイルマの必然と、その必然に則った行動原理が存在するらしいけれど、そのどれもがわたしの──否、人類の常識の
「宇宙人なので何かと挙動不審かと存じますが、宜しくお願いします」
自己紹介からして彼はすでに大幅に大気
イルマを連れてきたのはタマサカさんだ。
なんでもタマサカさんが世界放浪をしていた頃、マチュピチュとインカ遺跡とナスカの地上絵をめぐったのち、たまたま法事で戻った実家の近所のコンビニで知り合ったのだそうだ。
イルマから聞いた話なので、たぶん話の半分は間違いで、残り半分も現実ではないのだろう。
イルマの話は──こと記憶に関しては特に──デタラメばかりなのだ。
自己申告によれば、彼は宇宙人にしてアンドロイドで、未来人であると同時に古代人でもあり、先祖は由緒正しい農家で、前世は洗濯バサミだった。
イルマの現実とわたしたちの現実は、必ずしも一致しない。
それが不一致の原因だった。
全ての可能性に
その後に続く、量子力学的な並行現実と、観測による未来変化と、シュレディンガーの猫の話は、わたしをいたずらに混乱させた。
「──つまり、イルマについて理解する必要はない。不可能だ」とタマサカさんは結論づけた。
理論的にどのような
「イルマ?」
無駄だと分かっていても、わたしはもう一度、イルマに呼びかけた。
やはりイルマはぴくりともしない。
イルマは窓辺に座ったまま、胸に抱いた黒猫の毛並を撫でつけている。
そのメトロノームのように機械的な反復運動には、いかなる生命も意思も魂も感じられなかった。
「……どうしょう」
わたしはその場にへたりこんでしまう。
イルマの腕の中の黒猫がニャーとひと声鳴いた。
諦めろ、と言われたような気がした。
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