4 混線は突然に



 イルマのご神託しんたくどおり僕はバイト先の絵画教室に遅刻した。

 バスが出てしまったので自転車をとばして、ペダルが振りきれそうなくらい急いだけれど、僕が教室に立ったのは午後六時二十八分。

 六時の始業時間からぴったり二十八分の遅刻。


 イルマのご神託は絶対に外れない。


 それならそうと最初から教えてくれればいいものを。

 僕はイルマをうらめしく思う。


 「珍しいね。今、電話しようかと思っていたところだよ。何かあったんじゃないかってね」


 シミズ先生は怒りもしなかった。

 心底ほっとした様子で、それで僕はますます申し訳なくなってしまう。

 「すみません」と何度も頭を下げる僕に、先生は「暑かったでしょう」と笑って麦茶まで出してくれた。


 シミズ先生はこの画塾がじゅくの塾長で、今年六十八になる。

 七福神しちふくじん大黒天だいこくてんのような目尻に笑いジワの絶えない好々爺然こうこうやぜんとした人で、僕は先生が怒ったところを見たことがない。


 もともと僕はこの画塾の塾生だった。

 中学一年から通っているから六年間を塾生として過ごし、美大入学後は臨時の手伝いとして顔を出していた。

 自分が芸大を出たのは半世紀も前だから、現役として芸大の空気を教えてあげてほしいと、シミズ先生の方から僕に声を掛けてくれたのだ。

 そこには多分に先生の厚意があったし、なにより卒業を寂しく思っていた僕は喜んでその話を受けた。


 以来、週二日。先生の持病の具合が悪い時には臨時で入ったり、キシに応援を頼んだりして絵画教室を手伝っていた。

 民家の一階を改装しただけの、こぢんまりとした教室だったけれど、口コミでの評判はすこぶるよく、塾生の姿が絶えることはなかった。


 今も元はリビングだったと思われる十畳間と続きの六畳間に、中高生あわせて八人の塾生が、それぞれにイーゼルや机を囲んでいる。

 さして広くない教室で、かなりの人口密度だ。

 そのうえみんな学校帰りらしく、白と黒の制服姿が、よけいに室内の圧迫感を増していた。


 僕は麦茶を飲んで人心地つけると、奥の間を見やる。

 三人の塾生が初歩である幾何模型きかもけい石膏せっこうをデッサンしていた。

 その内の一人の姿勢に違和感を覚え、僕は歩みよる。

 先月入ったばかりの高校生だ。

 マシュマロみたいな女の子だった。

 かといって太っているわけでもない。

 色が白くて顔も身体も全ての輪郭りんかくが柔らかだから、お餅のようなマシュマロのような、そんな印象を見る人に与えるのだろう。

 名前はスミと言って、二年生だったと記憶している。


 「左利き?」


 僕が尋ねると少しの間があいて、「はい」とスミは微かに肯いた。

 注意していないと聞き逃ししまいそうなくらい小さな声だ。


 「じゃあ、イーゼルの向きはこっちだね」


 僕はイーゼルの位置を修正して、描くための姿勢や利き目の存在について説明した。スミは消え入りそうな声で、「はい」と小さく肯くばかりだったけれど、小さくても律儀な相槌あいづちから、その生真面目な性格がうかがいしれた。


 「いま言ったことを意識しながら続けてみて」


 僕がうながす。

 スミは球体のデッサンに戻った。

 彼女の腕が動くたび、4Bの鉛筆が紙面にやわらかな陰影を残していく。

 僕は初歩的な注意点を拾いながら、スミの線をじっと目で追った。彼女が描く球体は、ところどころ線がとがっていて、少しだけ右側へつんのめっていた。


 ああ、苦しそうだな、と僕は思った。


 尖った線が、アナタが悪い、アナタのせいだ、と言っていた。


   ◆◆◆


 アナタのせいだ。アナタが悪い。


 暗闇に声だけが響いて、それからぐるりと視界が広がった。

 最初に青空が見えて、“ボク”の隣で少女が笑っていた。

 つんとした鼻の、どことなくピクシーを連想させる少女だ。

 悪戯いたずらっぽい笑顔がよく似合っていた。

 セーラー服のえりとリボンが風にゆれた。

 少女の肩にひらひらと花びらが舞い落ちる。

 エンジュの白くて小さな花びらが、ひとつ、ふたつ、と。

 払って上げようと“ボク”は手をのばした。

 指先が肩に触れる。

 少女が何かを言った。

 小さな声だった。

 “ボク”には聴きとれなかったけれど、何故だか意味は分かった。

 それは深く“ボク”の心をえぐった。

 ぐっと腕に力がこもる。

  “ボク”の手は、少女の背中を押していた。

 少女の目が驚きに見開らかれて、青い空を映しこむ。

 目元の小さなほくろがまるで涙のように見えた。

 少女は暗がりに落ちていく。

 悲鳴さえなかった。


   ◆◆◆


 ガタン、と大きな音がして、僕は現実に引き戻された。

 大きな音はイーゼルに肩がぶつかった音で、肩をぶつけたのは僕だった。

 “混線”のショックでよろけたのだ。

 僕はスミの作画に集中するあまり、彼女と“混線”してしまったのだ。

 日頃から行動をともにしている人物ならまだしも、馴染みのうすい相手に“混線”してしまうなんて珍しい。

 その分、衝撃しょうげきも大きかった。

 辛うじて倒れはしなかったものの、大きな物音に教室中の視線が集まる。


 「大丈夫かい?」


 シミズ先生が心配そうにこちらを覗きこんだ。

 僕は「はい」と応えるのがやっとだった。

 声が震えているのが自分でも分かる。


 「やっぱり具合が悪いんじゃないかい? 真っ青だよ」

 「たぶん……蛍光灯のせいです」


 僕は無理に笑ってみせる。

 少し休みなさい、と心配する先生に洗面室を借りる許しを得て、僕は教室を出た。洗面室は廊下のすぐ突き当たりにある。昭和の造りらしいそこは地下牢みたいに真四角に狭くて薄暗かった。

 直貼じかばりの青いタオルが足裏にひんやりと冷たい。

 僕は洗面台で顔を洗う。

 溺れそうなくらい顔を流水にひたした。

 それでようやく少しだけ落ち着きを取り戻せた。

 僕はタオルで顔を拭きながら、鏡を見る。

 鏡に映った僕の顔は、確かに真っ青だった。

 いや、青いのを通りこして白いくらいだ。

 まだ少し唇が震えている。


 ──どうしよう。


 教室に戻るのが怖かった。

 スミを見るのが、怖い。

 たぶん僕はもう彼女を正視せいしできない。

 僕は彼女の身に起こるであろう可能性のひとつと“混線”した。


 可能性の未来で、

 スミはあの少女を殺してしまう。

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