3 追憶



 ──世界を見たくないか?


 タマサカさんは僕にそう問いかけた。

 僕の答えは至ってシンプルなものだった。


 ──はい。


 たったそれだけのやりとり。それが全ての始まりだった。



 “世界を見る”とはいったいどんなことなのか。

 契約に至るまでにタマサカさんが駆使くしした弁舌べんぜつの数々は、フェルマーの最終定理と同じくらい、突飛とっぴ難解なんかいなものだった。

 残念ながらフェルマーの最終定理について僕がなにひとつ語れないように、僕はタマサカさんの仮説について、ひとつとしてまともな説明はできそうにない。


 僕に分かるのは、その日はとても暑い日だったということと、マツリカと煙草の甘い匂いに頭がくらくらして、もう何も考えられなくなっていたということだけだ。気づいた時には僕は既に、「はい」と肯いていた。

 僕は“世界を見る“契約をタマサカさんと交わしたのだ。


 何故、こんな訳も分からない契約にのってしまったのだろう?


 この時のやりとりを思い返すたび、僕は不可解に思う。

 それでも僕はあの瞬間、「はい」と肯くために自分はこれまで存在してきたのだと思ったし、これからもそのために自分は存在し続けるのだと思った。

 その思いは一年経った今でも揺るぎない。

 だから後悔はしていない。


 それに契約内容だって僕にとっても決して悪くはなかった。

 僕はタマサカさんから古い洋館の屋根裏をゆずり受けた。

 今、住んでいるこのアパートがそれだ。

 古びてはいるものの、立地や間取りを考えれば破格はかく待遇たいぐうだった。


 そこで“タンデムパートナー”と同居しながら、僕の“体験”を月報として月末に提出すればいい。契約内容はそれだけだ。

 月報と言っても、ほとんど日記と大差はないし、日記を書くだけで賃貸無料はおいし過ぎる。だけど、その日記と大差ない月報とおいし過ぎる報酬こそが、僕の憂鬱ゆううつの原因でもある。


 月報を日記と大差なくさせているのは、僕の力不足に他ならない。

 “世界を見る”と銘打めいうった契約の壮大さに対して、僕の自助努力はなかなか実を結ばなかった。

 この一年というもの僕は遅々として進歩のない自分に歯がみしてきた。

 月報はまさに進歩の無さの象徴のようなものだ。

 不甲斐ふがいない月報を提出するたび、僕はスポンサーであるタマサカさんに申し訳ない気持ちでいっぱいになる。


 一見、傲慢ごうまん癇性かんしょうにさえ見えるタマサカさんだけれど、予想とは裏腹にずいぶん忍耐強く僕の成長を待ってくれたし、たとえ際限ない繰り返しになろうとも、彼は嫌な顔ひとつせず指南しなんや説明に膨大な時間をいた。

 僕の進歩のほとんどは、タマサカさんの忍耐と努力の賜物たまものなのだ。


 そうした努力によって、僕は僕の体質である“混線”を、恣意的しいてきな“共有”へと異化する新しい知覚を体得しつつあった。

 タマサカさん曰く、“世界を見る”とは、とどのつまり、新しい知覚機能を獲得かくとくするための実験的なこころみ──なのだそうだ。

 ようやく実験が様になりはじめたのはここ一ヶ月のこと。

 それまでについやした時間を思うと気が遠くなる。


 ──が、その矢先、僕はここへきて急に怖気おじけづいてしまったのだ。

 “混線”とはいわば自分と他人の境界の消失を意味した。

 境界の消失は自我の喪失そうしつでもある。

 僕は“混線”を繰り返すたびに、自我の喪失を体験した。

 それは想像以上に恐ろしいものでもあった。




 「怖いなんて今更だよね」

 ノートの上で無意味に踊る散文を、僕はそっと指でなぞった。

 延々と続く支離滅裂しりめつれつな言葉の数々。

 我知らず、僕の口は自嘲に歪む。


 不甲斐ない。


 タマサカさんの辛抱強いレクチャー。“タンデムパートナー”の強力な補助。どれだけサポートされても、僕は簡単だと言われる“トレース”ひとつまともに出来ない。更には「怖い」なんて言い出した。今更すぎる。

 自分が情けなくて、笑うしかなかった。苦い笑いだ。


 「本当に」


 ノートに赤ペンを走らせながらイルマが言う。


 「今更ですね」


 彼は僕の自己憐憫じこれんびんをばっさりと切り捨てた。

 ですが、とイルマは続ける。


 「安心しました」

 「え?」


 予想外の言葉に顔を上げると、またイルマの視線と鉢合はちあわせになった。

 答えを知っている透明な目。

 僕はこの目が苦手だった。

 比喩ひゆでも誇張こちょうでもなく、全てを見透かされているのだ。丸裸の赤ん坊にでもなったような無力感と気恥ずかしさで、落ち着かない気分になる。

 真っ直ぐに僕を見たまま、イルマは言った。


 「恐怖を感じるのは当然のことです。むしろよく今まで恐怖に気付かなかったものですね」


 彼は心底感心した様子で、「ちょっと鈍いんじゃないかと心配していました」と付け加える。

 相変わらず褒めているのかけなしているのか、よく分からない。


 「自我の喪失に恐怖を覚えるのは本能的なものです。貴女が人間である以上、帰結きけつする自我は必要ですからね。タマサカも最初から分かっています」


 僕はほっとした。

 理論的な部分は分からないにしても、どうやら僕が恐怖心につまずくのは想定内だと言いたいらしい。


 「最初から?」


 確かめると、イルマは首肯しゅこうした。


 「だから“トレース”なんです。記述する内容に意味はありません。必要なのはその行為です。行為によって自我と他者の線引きを体得し、恐怖心を克服こくふくする。それがタマサカの意図です」


 イルマは僕にノートを差し出した。

 ノートには秀麗な筆跡でアドバイスらしき文章がみっしりと記述されていた。

 僕はまじまじとイルマを見た。

 タマサカさん同様にとうとうイルマも本気になってしまったのだろうか。

 いまだかつてこれほどまでに、しかるべき“タンデムパートナー”として、彼が頼もしく見えたことはなかった。


 正直、僕は今の今まで彼──イルマが“タンデムパートナー”であるとう事実を、すっかり忘れていた。

 僕にとってイルマはボタンを掛け違えたパジャマのような存在だった。

 そうとしか表現しようのない脱力系の“ナニカ”だったというのに、今、眼前にいる彼はまるで別人のようだ。


 「……あ、ありがとう。頑張る」


 イルマの頼もしさに、そんな言葉が自然と口をついて出た。 

 僕はパラパラとノートをめくる。

 イルマもまた得心とくしんの笑顔で肯いた。


 「まずは国語からやり直しましょう。特に『てにをは』は全滅です」


 脱力のあまり僕はテーブルに突っ伏した。


 イルマは秀麗な文字でみっしりと──僕の文章を校閲してくれていた。

 おまけに点数までつけてある。

 “3点”だった。

 突っ伏したままの僕に、「それから」とイルマが言った。


 「三十分発、月ヶ丘行きバスはもう出ました」


 その瞬間、僕はイスを蹴倒けたおして立ち上がる。


 「バイトっ!」


 今日は画塾がじゅくのバイトがあったのだ。

 月報に懲罰ちょうばつ“トレース”にと、難題が山積しすぎて、僕はバイトの存在を失念していた。


 「貴女はバイトに二十八分遅刻します」


 イルマのあまりありがたくないご神託しんたくがおりる。

 僕はそれを背中で聞きながら、慌ただしく部屋をとびだした。

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