2 自我の喪失
ずっと様子を伺っていたマキが、「あの」と席を立った。
「……ここ座って下さい」
マキはタマサカさんに席を譲って、僕の向いの席を空ける。
ただならない気配に気をつかってくれたのか、それとも
僕が
それでも僕は少しだけ
「最近……」
僕はなんとか言葉を探がす。
「……怖いんです」
唇を噛みしめる。恐怖を認めるのは
「他人との境界が消えていくと、自分まで消えてしまいそうで──」
タマサカさんの
テーブルの下で固く握りしめた自分の拳をじっと見つめながら、なんとか言葉をつづけようと
「──このままだと、わたしの自我は消滅するんじゃないかって」
そこまで声を絞り出したところで、タマサカさんはその場にいないはずの存在に向かって指示を出した。
「イルマ。“タンデム”を解除しろ」
“タンデム”を解除されたイルマは、その後の僕とタマサカさんのやり取りを、
本当なのか嘘なのか真偽のほどは定かではないけれど、全てを
にも関わらず、“タンデム”を解除された事柄について、イルマは頑なに「知らぬ存ぜぬ」の態度を
ある時、それがイルマのプライバシーへの配慮なのかと僕が尋ねると、タマサカさんは珍しく声を上げて笑った。
喉の奥で鳴く不思議な鳥のように、くつくつとひとしきり笑うと、「アレはそうとしか“機能”しないのだ」とタマサカさんは言った。
「それを最も直感できるのは、お前のはずだけどな」とも。
“混線”している僕は事物の本質を直感で把握できるのだそうだ。
そうは言われても僕がイルマに直感するのは、『ペラペラ』という印象くらいしかないのだけれど。
「──で?」
「で?」
『ペラペラ』としたイルマに問いかけられて、ぼんやりと回想していた僕は反射的にオウム返しした。
いつの間にかクチナワの音声ガイダンスは終了していたらしく、イルマは窓辺に腰かけて黒猫を撫でている。
ぽかんとする僕に、イルマは問い直す。
「あの後のタマサカの
僕は目をまるくした。
どうやらイルマは“タンデム”解除後の、僕とタマサカさんのやり取りについて尋ねているらしい。
イルマが僕に説明や報告を求めるなんて滅多に無い。
いや、全く無い、と言ってもいい。
彼が何かに興味をしめすなんて、珍しいことだった。
僕はあまりイルマに報告というものをしないし、イルマも何も尋ねない。“タンデム”によって体験を“共有”しているから、その必要がないのだ。
ただし“タンデム”を解除した場合に限り、事後報告という手順を踏まえる必要があった。
簡単に言えば知らないふりをするイルマに、既に知っていることを説明する──ということだ。
なんだか二度手間のような気がするけれど、イルマの仕様にあわせた手順を踏まなければ、イルマがけっして“機能”しないことを僕も経験的に知っていた。
「金曜までに──」
僕は散文を書きなぐったノートを指さす。
「未提出の月報プラス
「対象は?」
「指定なし」
ふーむ、と頷いて、イルマは腰を上げる。
彼は抱いていた黒猫を床に降ろすと、そのまま猫みたいに音もなくテーブルに歩み寄って来て僕のノートを覗きこんだ。
「良かったですね」
「どこがっ!?」
僕は思わず身を乗り出した。
「16000字だよ? しかも金曜日までにだよっ!?」
今日は火曜日だから今日と提出日を
学校の課題だって山のようにあるというのに、その合間を
けれどイルマは、「充分あまいですよ」と笑う。
「タマサカは契約を厳守しないと死んでしまうタイプですから、
そんなタイプあるの? と訊きかけて、僕は慌てて口をつぐんだ。いつ終わるとも知れないイルマの音声ガイダンスを聞いているほど暇ではないのだ。
「“トレース”なんて難しくはないでしょう。“混線”を筆記すればいいだけのことですから」
イルマは事も無げに言うと、それとも、と僕の目をはたと見た。
「契約を後悔していますか?」
真っ直ぐな目で問いかけてくる。
全てを
居心地の悪い僕は視線をノートに戻す。
ノートに避難したはずの視線が、
「後悔はしてないよ」
ぽつり、と僕は答えた。
「申し訳ないだけ。進歩が無さすぎて」
「確かに。この一年の進歩の無さには、目まぐるしいものがありますね」
「それは目まぐるしいとは言わないんじゃ……」
言いかけた僕の声を、ですが、とイルマがさえぎった。
「負い目を感じる必要はありません」
イルマは赤ペンのキャップを、ぽん、と小気味良く引き抜いて、ノートに何事かを書き込み始める。
僕は、ぎょっとした。
このノートはタマサカさんに提出しなくてはならないのだ。
いつもの解読不能な記号で落書きされては
イルマはちゃんと僕にも読める文字を使っていた。しかも恐ろしく
「そもそも」
書きながらイルマが言う。
「契約そのものが
清々しいくらいこき下しにしかなっていないけれど、どうやら
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