1 我が家のアンドロイド



 「ウロボロス?」


 僕はその文字をそっと指でなぞると、不思議な気分でしげしげと眺めた。

 ノートには今しがた僕がしたためた、あまり上手とは言えない散文が、あまり達者とも言えない筆跡で残されている。

 自分で書いたというのに文字も字面も文章も、全ての印象がよそよそしい。まるで誰か親しい人の日記を、それと知らずに読んでしまったような、そういうおさまりの悪さが僕を不安にさせた。

 そもそも僕は『ウロボロス』がなんであるのかを知らない。


 「ウロボロスってなんだっけ?」


 僕は伸びしながら振り返る。

 僕たちのアパートのいつもの屋根裏、いつもの窓辺で、いつもの黒猫を抱いて、その毛並をゆっくりと撫でながら、イルマは首だけをこちらに向けた。


 「ウロボロス──己の尾を呑み込んでを成す蛇、または、ドラゴンをモチーフとした印章。語源は古代ギリシャ語」


 イルマは説明した。

 ウロボロスは、永遠、永続、起死回生、不老不死、といった概念の象徴だということ。シンボルの意匠いしょうは文化や時代によってずいぶん異なること。

 そして、宗教的、文化的に、どのような位置付けで、主にどんな文化圏でどのように用いられたのか。

 まるでウィキペディアや教科書を読み上げるように、それでいていっさい外部ツールには頼らず、イルマは全てをそらんじてみせた。


 彼はアンドロイドだった。


 「自分の尾を食べて最後に消えてしまう蛇の神話とは別物?」

 僕が首を傾げると、イルマも同じ角度で首を傾げる。

 「それはおそらく日本のおとぎ話、クチナワのイメージでしょうね──」


 再びイルマの解説が怒涛どとうのような勢いで始まった。

 東西神話の類似点るいじてん。そこから考察される異文化交流の歴史と、その遍歴へんれき。神話の伝承にシルクロードが果たした役割うんぬん──滔々とうとうと語られるうんちくの数々。自分で訊いておきながら僕はうんざりしてしまう。


 イルマの解説は長すぎる。

 願わくば可及的かきゅうてきすみやかに、彼の音声ガイダンスを停止してしまいたかった。

 自称、宇宙人にしてアンドロイドのイルマなのだから、きっとON・OFFのスイッチだって付いているに違いない。

 僕はイルマの頭の先からつま先まで、視線を二往復させる。

 人工物めいた赤みのある黒髪と好青年然とした顔立ちは、アンドロイドを自称するだけあって、きっちりと設計されたように端正だったけれど、残念ながらスイッチらしきものは見当たらなかった。


 仕方がないので、僕は僕の聴覚スイッチの方をOFFにする。

 もちろん、僕はアンドロイドではないので、それはつまりただの聞き流しというものなのだけれど。

 僕はいつまでもイルマの長口舌ちょうこうぜつに付き合ってはいられなかった。

 僕は僕で僕なりに、切迫した状況にある。

 もしかすると来月にはアパートを放り出されてしまうかもしれない。

 とうとうスポンサーであるタマサカさんが本気になってしまったのだ。

 いや、タマサカさんは何時いつだって本気なのだろう。

 本気になれなかったのは──僕だ。




 今日の昼間のこと。

 キシが休みで僕は珍しく学食で昼食をとった。

 たまたま講堂で行き合った友人のマキに誘われたのだ。

 昼食もそこそこに、僕たちは課題のこととか、バイトのこととか、マキの新しい恋人のこととか、そういう何時ものことを取り留めも無く話した。

 マキの目下もっかの悩みは、恋人からのメールが一日三十七回から三十二回に減ったことで、それは恋の終わりの前兆ぜんちょうということらしかった。

 「彼もバイトで忙しいらしいよ」と言う僕に、「でも」と顔を上げて反論しかけたマキは、そのままのポーズで固まってしまう。


 「……タマサカ先輩だ」


 マキが小さく呟いた。

 それは本当にごくごく小さな声だったけれど、僕はその声に三十センチは飛び上がった。正しくは、その声にではなく、その名前に。

 雷に打たれてから滝壺たきつぼに転落したような、熱いのか冷たいのかよくわからない大量の汗を流しながら、僕はぎこちなく振り返る。

 探すまでもなかった。

 食堂の混雑の中、頭一つ抜けた長身は自然と際立って見える。

 タマサカさんだ。

 彼は知り合った日と同様に、僕に向かって真っ直ぐに歩み寄ってくる。

 その姿はまさに獲物目指して急降下する猛禽類もうきんるいそのもので、気のせいか食堂の混雑が道をゆずって割れるモーゼの海のように見えた。

 それもあながち気のせいではないのだろう。

 タマサカさんは何かと話題の人物ではあるし、それを差し引いても人を圧倒する何かを持った稀有けうな人だった。


 「こっちにくるよ」とマキが目を白黒させる。どうしていいのか分からず硬直する僕のすぐそばで、タマサカさんは立ち止まった。

 そびえるように。

 少なくとも僕の体感では、そうとしか表現のしようがない圧迫感だった。


 「話がある」


 低いけれどよく通る声でタマサカさんが言った。

 とうとう観念して僕はぎくしゃくと肯く。

 まるで自分がブリキ人形にでもなったような気がした。


 「俺の記憶が確かなら──」


 タマサカさんが切り出した。


 「月報の期限が切れて四日経つ」


 「……はい」


 「メールもTownも返信がなく通話も繋がらない。つまり音信不通なわけだが」


 「……はい」


 「これは契約反故ほごの意思表示か?」


 「……いいえ」


 「なら約束を守れない事情を考慮しようと思う」


 さあ、言うがいい、とばかりにタマサカさんは重々しく頷いて、僕の陳情ちんじょうを促した。月例げつれい報告の締切を守れなかったその時から、僕はずっとこの瞬間を予期して、あれこれと申し開きを用意していた──つもりだった。

 けれど、いざとなると僕は何も言えなかった。

 甘かった。

 タマサカさんの勘気かんきに触れて、ものが言えるはずなどなかったのだ。

 気まずい沈黙が落ちた。

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