凍土の英雄

久保田弥代

[本編]

     一


 天に太陽の姿はなく、光は分厚い雲の隙間から溜息のように洩れているだけであった。暗色の雲が万年雪の大地に覆い被さり、強烈な風を叩き付けている。風が雪を巻き、雪が風を呑む。獣の哮りのように吹雪が荒れる。巻き上げられた雪が世界を漂白し、雪と氷の果てを見極めることさえ不可能であった。

 凍土。氷雪だけの国。

 《凍土の覇者》と名高いこの地の豪族、フェルド族の勇猛な戦士であっても、氷の野獣さえ住み着かぬこの凍土深くに足を踏み入れることはない。猛々しい天地の暴力の前に、人はあまりにも無力であるからだ。

 だが、しかし――

 一人の若者が凍土を行く。

 帽子、衣服、手袋、ブーツと、すべて毛皮。それでも足りないのか、鎧のように大振りの毛皮を紐で身体にくくりつけている。雪が、氷が、毛皮を白く化粧していた。顔にも毛皮の面頬。わずかに目の部分だけが露出している。口元から面頬を通して、吐息が白い煙となって噴き出していた。白く煙る吐息は、風に舞う雪の白さと見分けがつかなかった。

 足取りが頼りない。風と雪に対抗することすらおぼつかない。身長よりも長い棒きれを杖にして、それに助けを求めるかのように歩いている。雪に埋めたブーツを引き抜いて一歩を進めることすらもが、今の彼には苦痛であるらしかった。

 彼が杖代わりにしているのは、フェルド族独特の、穂先が平たい槍である。フェルドの男の証明であった。

 名を、ノーウェルという。

 凍土を歩き始めて三日になる。

 ――還るのだ――

 彼は途切れることなく、そう自分に言い聞かせていた。

 いつしか雲の隙間からほの見えていた光が薄くなっていた。雲の向こうで、太陽が一人沈みゆこうとしているのだ。これからの時間、視界は、雪よりも暗さによって閉ざされる。

 ノーウェルは一層の寒さを肌で感じ、足を止めた。槍で穴を掘り始める。槍が万年雪に刺さる音は、風の轟音でかき消えた。

 周辺に闇が落ちる前に、人一人がうずくまれるだけの穴が掘り上がった。

 ノーウェルは穴の中に立ち、掘り出した雪を穴の周りに積み始めた。疲労と寒さが彼の動作をのろくしていた。手が止まり身体が凍える。だが、手間取れば辺りは完全な闇と化す。星も月もなく、一欠片の灯りすら存在しない闇が訪れてしまうのだ。

 壁と積まれた雪は風に幾度か形を崩したが、それでもどうにか、完全な闇の訪れより早く雪洞が出来上がった。

 狭苦しい穴に座り込む。風は、雪と氷の壁に遮られて穴の中までは届かない。それだけのことで、段違いに空気が暖かかった。駆け抜ける風の音。雪が凍っていく音。音だけが、まるで遠い世界からの呼び声のように全身に響いてくる。

 突然、喉の渇きが彼を襲った。それは強烈な欲求だった。休養を手に入れた肉体が、さらなる要求を彼に突き付けているのだ。彼は今日一日、ほとんど何も口にしていない。たまらず面頬をむしり取った。剥き出しになった肌と唇は乾ききり、何本もの白いひび割れが走っていた。

 かじかむ手を壁に延ばし、ひとすくいの雪をこそぎ取った。震える唇でそれをついばもうとして、動きが止まった。

 唇が、手が、やがて全身が震えた。息が荒くなり、穴の中を白く煙らせた。激しい息遣いは、いつしか嗚咽になった。彼は大きく一声わめくと、手の氷を壁に叩き付けた。

 ――だめだ――

 彼は戦っていた。

 ――雪を食えば、体温が奪われる。体温が下がれば体力も失う。耐えるんだ――

 肉体の希求と、生存への意志との戦いであった。

 ノーウェルは再び面頬をつけ、腕を抱くようにして目を閉じた。眠らねばならなかった。夜明けとともに歩き始めるのだ。それまでに、わずかでも体力を取り戻すのだ。

 だが、深い眠りは許されない。眠りながらも緊張を持続させ、一時の眠りが永遠の眠りとなる前には、必ず目を覚まさねばならないのだ。一瞬の眠りを何十回、何百回も繰り返すことになろうとも。

 ――俺は還る。生きて還る――

 それだけを考えるようにした。一つの意志の元に、肉体のすべてを統率せねばならなかった。どうしようもなく弱く、もろく、くじけやすい肉体を、強靱な意志で操縦しなければ、この凍土を歩いて渡りきることなど不可能なのだ。

 ――必ず還るのだ。故郷の村に必ず還る。姫が、フェイが、愛しいひとが、俺を待ってくれているのだから――

 彼は身体に巻いた毛皮の端を握りしめた。いつしか、凍土で三度目の眠りに落ちていた。




     二


 フェルド族が《凍土の覇者》と呼ばれる由縁は、一族に伝わる英雄フェルドの伝説にある。フェルドは東方の国の一兵卒としてこの地に遠征して来た。その軍勢は凍土深くまで侵攻したが、ついには敗滅した。かろうじて難を逃れたフェルドは、追っ手を逃れ凍土を渡り、今あるフェルド村に落ち延びたのだった。村人達はフェルドを《英雄》として迎え入れた。凍土を渡ってやって来る《英雄》が村を繁栄に導く、と伝承されていたのである。フェルドは村の一員となり、元の国で見知った技術を用いて村の生活をより豊かにし、名実ともに《英雄》となった。

 ノーウェルはその村に猟師の子として生まれた。勇敢だが素朴な、ありふれた男であった。そんな彼の運命は、族長の娘、姫君フェイとの出会いによって大きく揺れたのである。

 年に一度だけ、身分の上下なく楽しむことが許される祭りの日の夜。村人達が炎を囲んで踊りを楽しむ輪の中で、二人は出会った。

「何処の方とも知れぬ美しいお嬢さん、わたしと踊ってはいただけませんか」

 美しく気品ある女性の気を引くための、ノーウェルの精一杯の言葉であった。

「まるで夢のよう……」と、その女性は恥ずかしげに、しかし嬉しそうに頷いた。

「勇敢な方、どうぞわたくしめの手をお取り下さい。わたくしを、思うままに踊らせてやって下さい……」

 初めから結ばれていた二人には、それだけで充分であった。二人はその瞬間に恋に落ち、愛を燃やしたのだ。踊りの最中に重ねた掌を、二人は堅く握り合った。

 豪族の姫と、それにかしづかねばならぬ猟師との恋である。誰にも知られてはならなかった。二人は秘密の逢瀬を幾度も重ね、その度に思いを深くしていった。

 冬のある日のこと。二人は夜の明け切らぬ早暁、馬小屋の脇で密会した。そこでフェイは、もう耐えきれぬといった風に、ノーウェルの胸に倒れながら言ったのだ。

「一生をあなたと過ごしたいの。猟に出て冷えきったあなたの身体を、わたしが作ったスープで暖めてあげたい。あなたが使った槍や弓矢を、毎日、新品のように手入れしてあげたい。あなたと一緒に、老いていきたいの」

「しかしフェイ。僕らにそれは許されない。僕らの間には身分という、そして掟という名の深い川が流れているんだ。渡ることの出来ない川だ。一族の姫君を僕のような猟師が妻にすることは、掟が、一族が許さない」

「わたし、捨ててもいい。父様も母様も、村も、一族だってわたしは捨ててもいい」

 フェイは、涙の奥にも強靱な意志の輝きを見せていた。そのことが、ノーウェルに決心をさせた。

 この村では、いやフェルド族が居留するどの村でも、二人が許されることはない。ならばこの地を旅立ち、まるで知らぬ土地まで行くしかない。橇を使っても幾日かかるか分からない道のりだ。それもこの真冬なのだ、途方もなく苦しい旅になる。だが、耐えよう。耐え抜いて二人の平安を手に入れよう。

 どうせこの恋が誰かに知れれば、掟によって自分は村を追放されるのだ。ならば自分から村を捨ててなんの不都合があろう。

 ノーウェルは決意した。ノーウェルの決意は、すなわちフェイの決意であった。二人は出発を十日後の夜明けと定め、準備を始めた。

「どんなことがあっても、僕は常に君とともにある。それを忘れないでいておくれ。僕は君のために生きて、君のために死ぬ」

「それはわたしも同じ。どれほど違う場所にいても、わたしはあなただけを思っています。……でも、死んではだめ。あなたはずっと生きて、ずっと、わたしと一緒にいて下さい」

 一つの決意は、二人をさらに強く結んだ。

 しかし運命は二人の身方をしなかった。

 娘が陰に隠れて何ごとか企んでいると気付いた族長は、館の下働き達に命じてフェイの動向を探らせた。そしてフェイが旅支度を整えていると知ったのである。瞬間、それまでにも感じていた予兆と噛み合って、彼は、娘の企みを完全に悟ったのであった。

 彼は娘フェイを近隣の豪族に嫁がせようと考えていた。だがそんな思惑を抜きにしても、一族の姫にたかが猟師風情が思いを寄せるなど、許すべからざることであった。

 フェイは軟禁され、一方ノーウェルは激高した族長の前に引き出された。それは、二人が村を出る決意を定めてから、わずか三日目のことであった。族長を前にしても、ノーウェルには言葉もなかった。何を言っても通じまいと諦めていた。彼は一族の掟通り、村を追放される覚悟をしていたのである。そんな彼に、族長は刃にも等しい宣告をした。

「身分違いにも一族の姫を娶ろうとした罪は重い。貴様の両親もろとも村を追放する」

 ノーウェルの驚愕は激しかった。彼の老いた両親まで追放すると、族長は告げたのだ。それは掟を越えた厳しい罰であった。

 両親のことは、以前にも考えないでもなかった。フェイと出奔すれば、恐らく両親は迫害されるだろう。だが両親なら、愛するものと結ばれるために村を捨てることを、むしろ喜んでくれるとさえ彼は信じていた。

 その両親をも追放される。老いた二人には、この厳冬を隣村まで旅することさえ出来まい。

 ――フェイ、フェイ、許してくれ――

 ノーウェルはフェイに心で呼びかけながら、族長を真っ直ぐに睨み付けた。

「族長! それは掟を乱してはおりますまいか。掟によれば、追放されるのはわたしだけのはず。族長とは言えそのような無体、英雄フェルドの末裔として恥をお知りなさい」

 ノーウェルは叫んだ。その言葉が族長のさらなる怒りを呼ぶことは覚悟の上であった。

「一族の長たるこのわしに、貴様っ……!」

 族長は視殺せんばかりの目でノーウェルを睨んだ。ノーウェルもまた視線を逸らさなかった。いっそこの場で斬り殺してくれればいい、そう思っていた。そうすれば族長の怒りは解け、両親だけは許されるだろうと。

 怒り狂った族長はしかし、ノーウェルを殺さなかった。族長は自らの手で殺さない代わりに、死以上の罰を彼に与える気になっていたのだ。ノーウェルは馬小屋に監禁され、翌朝の夜明け前にフェイとともに馬橇に乗せられ、村を出発した。橇には族長と、村の数人の戦士が乗り合わせていた。走る間、誰も一言も口を開かなかった。フェイとノーウェルは隣り合って座ることすら許されなかった。

 午後遅く、人の足では到底辿り着けないであろう凍土の奥地で、橇が止まった。闇が落ち始めており、吹雪がうるさいほどだった。

 そこにノーウェルは放り出された。毛皮の衣服と槍、たった一日分の干し肉だけが、彼に与えられたすべてだった。

「英雄フェルドはこの凍土を見事に歩ききった。貴様もそうしてみろ。もし貴様が凍土を渡って村に帰り着ければ、貴様を新たな英雄として迎えてやろう。わしが掟を乱したと言うなら、自ら英雄となり新たな掟を生むがいい。それに英雄ともなれば、姫を娶るにもふさわしかろうからな。……ただし刻限は一週間目の夜明け。過ぎれば、二度と村の土を踏ませはせん」

 橇の上から宣言しつつ、族長は笑っていた。明らかに、それは嘲笑であった。

 ノーウェルは表情を堅くして族長の絶望的な言葉を聞いていた。凍土をたった一週間で渡りきるなど、まさに《英雄》以外には為し得ない行為であった。

 フェイは橇で座ったまま、手を堅く握りしめてノーウェルを見つめていた。

 族長が御者に命じ、鞭をふるわせた。馬達が駆け、橇が方向を変えて村へと進む。ただ一人、ノーウェルだけが取り残された。

 風を切って走る橇の上で、族長は背後の席の娘に言葉を投げた。

「お前をたぶらかした男の最後の姿だ。見ておかなくてよいのか」

 フェイは一番後方の席に一人座り、前を向いたまま振り返ろうともしなかった。

「必要ありません」毅然と、彼女は言った。

「あのひとは還って来ます。必ず還って来ます。わたしには分かっているのです。だから、姿を見ておく必要などありません」

 言い終えて、彼女はかすかに震え始めた。

 震えはやがて大きくなり、彼女は同じ姿勢のまま涙をこぼした。涙は落ちることなく、肌の上で凍りついた。表情が崩れる前の一瞬、彼女は羽織っていた毛皮のショールを脱ぎ、後ろへと放り投げた。

 雪混じりの風に巻かれ、彼女の嗚咽は誰にも届かなかった。




     三


 ――四日目の夜明け、ノーウェルは歩き出した。暗い天、哮る吹雪、凍る空気、果てなき凍土。すべてが彼に牙を剥いていた。

 風はますます強く、吹き上げられる雪と氷で視界がままならない。前傾姿勢でなければ、吹き飛ばされそうだった。一歩進めたつもりの足が、半歩先にしか進まない。一度足を踏み降ろすと、次の一歩がなかなか踏み出せない。身体にこびり着いた雪と氷が、身体ばかりでなく気持ちまで重くする。凍りかけた泥沼を歩いているも同然だった。目元の肌で氷片がはじける。氷は水と溶け、乾ききった肌に吸われていくが、風はその水分をただちに奪い去ってしまう。寒さを通り越し、世界は凍てついていた。幾度も崩れ落ちかける肉体を叱咤し、ノーウェルは黙々と進んだ。

 全身の筋肉が、隙あらば主に反逆しようと待ちかまえていた。もはや疲労とは痛みそのものであった。鈍い痛みと鋭い痛みが、交互に、あるいは同時に身体を走り抜けていく。痛みは一瞬後には寒さに凍りつき、骨までもを苛んでいく。耳元に吹雪の咆吼。自分の足音さえ聞こえない。そのうるささの中でも、肉体があげる悲鳴は耳に刺さった。

 これまでの三日で、ノーウェルは半日分の干し肉しか口にしていない。極度の疲労に打ち克つ力が、そこから生み出されるはずもない。疲労と寒さ、そして飢え。すべてが彼の身体の底に、澱のように分厚く堆積している。それを取り除く術が、今の彼にはなかった。

 三日間、歩きづめに歩いた。今日も歩いている。それなのに景色には変化がない。地平まで続く雪と氷の大地、絶望を降らせる暗色の天、針にも似た痛い風、身体を削り落とす寒さ。変化は、あまりにもなさ過ぎた。

 行為に成果が伴わなければ、人は簡単に絶望する。今この時、一歩、一歩と足を進めても、それがどれほどの成果を上げているのか、ノーウェルには分からない。果てのない凍土は、今や彼から希望を奪いつつあった。

 遠のきかける意識の中、風景が、幻のようにノーウェルの虚ろな目に映っている。

 無限の凍土。永劫の氷原。無尽の吹雪。そしてはるかな故郷――

 ノーウェルの瞳に光が宿った。

 ――還る――

 指が痛むほど強く、身体に巻き付けた毛皮の端を握りしめた。

 ――還る。しかし故郷にではない。俺は、あのひとの元に還るのだ。俺を待ってくれているひとの傍に還るのだ――

 いつの間にか止まっていた足を持ち上げようとした。休むことを覚えた足は、容易に動こうとはしなかった。わずかな間に、全身が凍りついたようだった。歯を食いしばろうとするが、寒さで歯の根が合わない。それでも食いしばる。風より強く、歯ぎしりの音が頭蓋に響いた。じりじりと足が持ち上がっていった。そうだ、動け、とノーウェルは己の肉体に命じた。どれほど休みたくとも動け、残された時間を無駄にすることは許さん。一秒休む暇があれば一秒足を動かせ。足が壊れて動かなければ這ってでも進め。

 彼は命じた。それは誓いに似ていた。

 再び足跡が刻まれ始めた。ゆっくりとだが、彼は確かに前に進んでいた。風に逆らい、雪に挑み、寒さをねじ伏せ、彼は歩いた。

 肉体は、日暮れを待たずに彼を裏切った。

 ノーウェルは雪に半ば埋もれるようにして目を覚ました。背中を冷たい風が打っている。顔の横半分は雪の中にあった。いつの間にか倒れ、気を失っていたのだ。

 ――還るのだ――

 自分を叱咤した。だが、開きかけた瞼が力を失ってしまう。限界などとうに越えている。今や瞼を開けることにさえ全霊の力が必要だった。そして寒い。身体のどこが雪に埋まり、どこが外に出ているかも分からない。肉体が感じるのは、浸み入るような寒さのみ。

 ――もうだめか――

 一度そう思ってしまうと、虚脱感は一瞬で全身を侵した。身体が軽くなったように、彼は感じた。雪と身体が溶け合い、混じり合い、一つになる感覚を味わっていた。凍った世界の甘美な誘惑。それに身を委ねることがこんなにも心地よいものだとは思わなかった。痛みが溶けた。風が遠ざかる。寒ささえ薄らいでいく。彼は何かを忘れつつあった。

 ――眠いな――

 肉体が彼から失われかけていた。

 意識が眠りの泥に沈んでいく。

 暖かい泥の中で、彼は天使を見た。天使は彼に、いいんだよ、と言っているようだった。もういい、お前は充分がんばった。ここで眠りについても、きっと許してくれるはずだ。

 ――俺を、誰が、許してくれると――

『あなたはずっと生きて、ずっと、わたしと一緒にいて下さい』

 気付いた。

 誰のために、こうしているのかを。

 うなりが唇を割った。ほとばしった声は雪を蹴散らし、風を裂いて宙に躍った。それは咆吼であった。

 村を捨ててもいい――そう語ったフェイの姿が、記憶の底から甦っていた。うるんだ瞳の輝き。その奥に息づく強靱な意志。

 全身の倦怠と疲労を意志の力で押し退けて、ノーウェルは四つん這いになった。今はまだそれが限界だった。腕を動かす。支えを失い、額が雪に埋もれた。構わず腰に下げた小袋から干し肉を取り出す。小さなその塊が、彼に与えられた食料のすべてだった。それを口に運んだ。ゆっくり、力強く噛みしめる。何度も噛む。食べるのだ、生きるのだ、還るのだ。それだけを思って、ノーウェルは肉を噛んだ。まず一歩を踏み出せる力が必要だった。その一歩さえ踏み出せば、後はなんとでもなる。どうとでもしてみせる。そのために今は食え。力の限り食え。食って肉体に力を与えろ。

 喉を鳴らして肉を飲み、ノーウェルは全身に意識を飛ばした。

 足は、――爪先に感覚がない。だが動かせる。膝も大丈夫だ。胴は、――無事だ。胃袋が久々の獲物と格闘している。獲物から炎を燃やそうとしている。腕は、――指のどれかがちりちりと痛む。しかし動くのだから無視しろ。拳を握ることだって出来る。肘、肩も動く。大丈夫だ、全身どこにも動かないような部分はない。動かせる。動かす。

 ノーウェルは身体を震わせ、走り抜ける痛みに悲鳴を上げながら立った。猛烈な吹雪は容赦なくノーウェルを襲った。眠りの縁から甦った感覚は、現実を苛酷なまでに正直に、ノーウェルの意志に伝えていた。肉体がいとも簡単に怖じ気づく。ノーウェルは吠えた。拳で身体のあちこちをごつごつと叩く。その痛みで寒さを忘れるために、叩く。

 ふらつきながらも、足元に落ちていた槍を取り上げた。それを杖にして一歩を踏み出す。槍を持つ手がすっぽ抜け、前のめりに倒れた。また吠えた。また立ち上がった。また槍を手にし、また一歩を踏み出した。吠えていた。今度は固く槍を握りしめた。足が雪に沈んだ。まだ吠えていた。雪に沈んだ足を、強く踏み締めた。雪が確かに存在することを、入念に確認するように踏み締めた。

 そしてもう一歩。

 さらに一歩。

 また一歩。

 一歩。

 歩き続けた。

 片手で槍を、片手で身体に縛り付けた毛皮を握っている。体力の消耗を厭わずに、きつく、きつく握っている。

 フェイが、去りゆく橇から投げた毛皮を。

 歩き続けた。

 そして日暮れになり、ノーウェルは雪洞を掘り始めた。弱った腕が持ち上がらない。力を失った指が槍を落とす。風に煽られて倒れる。泣き喚きながら掘った。

 半分ほど掘った時、ノーウェルは気付いた。

 横手に、わずかに盛り上がった雪の塚がある。その影からこちらをうかがっている――雪ウサギがいた。

 雪ウサギは好奇心が強い。動くものを見かけると、とりあえず近寄ってしまう習性がある。その習性で、見慣れない生き物――ノーウェルの側まで寄って来たのだろう。

 ノーウェルは動きを止めた。

 かなり時間がたってから、雪ウサギが好奇心に負けて、さらにノーウェルに近寄った。

 ノーウェルは飢えと疲労と痛み、そして焦りと戦っていた。心臓の鼓動が激しい。彼はタイミングを計っていた。失敗は許されない。これを逃せば二度とチャンスは訪れないだろう。何より、失敗して一気に萎える気力を取り戻すことは、もはや不可能に近かった。

 雪ウサギは風をものともせず飛び跳ねながら、ノーウェルの背後に回った。そのまま前に回って来い、と彼は祈った。だが、雪ウサギの気配はその場で止まってしまった。さらに待つ。失われた力を取り戻せと全身に呼びかける。一瞬のチャンスを逃さぬ俊敏な猟師としての肉体を、今この時だけは取り戻せ。彼は目眩がするほどの時間、待った。

 跳ねる音。遠ざかる。戦慄が背筋を貫き、氷よりも身体を冷やした。頭まで突き抜けた衝撃に、ノーウェルは吐き気すら覚えた。

 だが次の瞬間、雪ウサギは彼の真横まで飛び跳ねて来た。

 反射的に身体が動いた。猟師としての、それが彼の習性だった。無我夢中で槍を突く。雪ウサギの悲鳴。わずかな手応え。だが飛び跳ねる音は遠ざかった。ノーウェルの目が役割を思い出し、逃げようとする雪ウサギの後ろ姿を捉えた。彼は踏み出そうとして、足をもつれさせた。肉体は意志の期待に応えられなかったのだ。重心が消え失せた。身体が浮いた。目を閉じた。絶望が全身に刺さった。身体中の血を一瞬で失ったようだった。彼は叫んでいた。叫びながら槍から手を離した。いや、放り投げた。

 音が重なった。ノーウェルが雪に倒れ込む音と、雪ウサギの悲鳴だった。

 ノーウェルは急いで顔を起こし、槍を探した。槍は少し先に落ちている。必死になって立ち上がろうとしたが、焦りのせいで身体がうまく動いてくれない。這って、雪をかき分けながら進んだ。槍に近寄った。

 穂先が、見事に雪ウサギを射抜いていた。

 ノーウェルは小さな獲物に取りすがり、その身体を、大切なもののように両手で持ち上げた。生まれたばかりの赤子を取り上げるような仕草だった。

 絶望を降らそうとする天を睨む。己の内にまだ残る意志の閃きを、生命の火を、何かに見せつけてやらねば気が済まなかった。

 ――俺は還る。必ず、フェイの元に――




     四


 運命を決する夜明け、族長は数人の供とフェイを連れ、凍土の入り口へ降り立っていた。東の地平はまだ暗く、天は尚暗い。供のもの達が、松明で橇の周りを明るく照らし出す。

 橇から降りたフェイは、寒風を一身に受けながら彼方を見つめた。東を。愛する男が還って来るはずの道を。

 この一週間で、彼女は痩せ衰えた。誰がどう言い聞かせても、彼女は一日に一欠片の干し肉以外は、水さえ口にしなかったのである。

 冬には珍しく雪がやみ、視界は開けていた。

 族長は、か細く変わり果てた娘を、橇の上から見つめていた。

「奇跡は起きないのだ」族長が、誰かに言い聞かせるような口調で言った。

「あの若造が英雄になどなれるわけはない」

「お父様はお忘れのようです」

 間髪を入れず、娘が言い返した。

「フェルドはこの地に来る前、どこかの国の一兵卒に過ぎなかったではありませんか」

 娘の辛辣な言葉に、族長は言葉を失った。

「市井の人だったフェルドは、凍土を渡ることで英雄となりました。……ノーウェルにはそれが出来ないと、誰が断言できましょう」

 振り返りもせずに言い放つ娘を、族長は苦々しく見つめた。娘の弱々しくさえある背中が、彼に無言の圧力を向けているようで、何も言い返すことが出来なかった。

 はるか東の雲間から、細い光が洩れ始めた。

 密やかな朝の訪れと同時に、雪ばかりか風までが力を失っていった。それどころか、地平の彼方では厚い雲さえもが、まるで太陽に道を譲るようにして退いていったのである。細く開かれた青空に、太陽がその力強く生命に溢れた姿を見せ始める。

 今や、世界は平穏と静謐に満ちていた。

「なんということだ……」

 驚きに目を瞠り、族長が呟いた。真冬の凍土に太陽が姿を見せるなどとは、信じられることではなかったのである。

「奇跡は、起きるのです」

 族長は思わず娘の背を見た。

 威厳すら感じる後ろ姿であった。

 びくりと一度、フェイの肩が大きく震えた。それきり、しばらく動かなかったフェイは、やがて小刻みに震え始めた。それと同時に、周りで供のもの達が声をあげた。

「そんな、馬鹿な」

「う、嘘だ、こんな……」

 その言葉に族長は戦慄した。東の地平に向き直り、また、驚愕せねばならなかった。

 はるかな地平から、雲を割って生まれ出ようとする太陽。凍りついた大地が、朝日を一直線に写し込んでいる。それは、黄金に輝く一本の道であった。

 黄金の道の中ほどには、――

 人形のように小さく、一人の男の姿がある。

 その足取りはなんとも頼りなく、右へ左へ、時に後ろへ大きく揺れた。今は立っているが、次の一瞬に倒れてもおかしくない、それほどの弱々しさである。誰の目にも、男の疲労が極限であると明らかだったが、男はまるで休もうとはせず、一歩、また一歩と歩き続けている。族長達のいる場所へと、黄金の道を踏み締めて来るのである。

 供のものが一人、また一人と、松明を捨て、太陽に向かってひれ伏した。

 族長が怒りに震え、娘の背に怒鳴る。

「お前には分かっていたというのか、あの男が凍土を渡りきると! それほどの体力が、力が、あの男にはあったのか! 分かっていたからお前は平然としていられたのか!」

「知りませんでした、そんなことは。わたしはただ、あのひとを」

 言葉を途切れさせたフェイが振り向き、族長は息を呑んだ。

 寒さに凍りつくはずの涙が、フェイの紅潮した頬をつたい落ちているのである。

 息を詰まらせながら、フェイは、胸の底から言葉を搾り出した。

「信じていたのです」

 肌を撫でるような風が吹く。

 彼女は地を蹴って駆け出した。黄金の道を、英雄を迎えるために走った。彼女一人だけが、そうする資格を持っていた。その英雄とは、他の誰にも関わりのない、ただ彼女一人の英雄であるのだから。

 今こそ彼女は、この夜明けが、二人の旅立ちを約束したまさにその時なのだと思い出していた。その約束が果たされたことを彼女は知った。約束を、愛を、心を交わした男の姿を思い浮かべ、その名を呼んだ。くり返し、途切れることなく。

 そして彼女は、自分の名を呼ぶ男の声を、金の光の中から聞いた。





     《 了 》


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