神は賽子を振らない
「……それで結局、先生はわたしの事どう思ってるの」
放課後の化学準備室でつい言ってしまってから、わたしはそんな自分にすっかり狼狽して窓際へと歩み寄った。
冬の空気に白く曇った窓を指先で拭うと、灰色に染まった景色がトリミングされて見える。–––と言っても、二列に並んだ校舎の奥側、その端にある化学準備室から見える景色なんて、使われていない焼却炉と、淡い檸檬色の花冠を揺らす蝋梅ぐらいのものだけど。
「シュレーディンガーの猫、ですね」
先生が、静謐さに守られた空気をそっと揺らすように、穏やかな声で言った。
「……は?」
動揺して心臓をばふばふ鳴らしているわたしが滑稽に思えるほど、先生の口調はまるで澱みない。
「『シュレーディンガーの猫』というのは、物凄く簡単に言うと、青酸カリ入りの壜と一緒に箱の中に入れられた猫が、果たして一時間後に生きているか死んでいるか、という思考実験です。量子論では蓋を開けるまでは生と死が50%ずつ重なり合っている状態……つまり生きた猫と死んだ猫が混ざり合った状態なんです。箱を開けて猫を観測した瞬間、その一瞬で猫は状態を確定される。……そういう事です」
先生の話はほとんど暗号だ。解読するのに時間がかかる。しかも解読できたとして、それはわたしの問いに見合う答えになっているのかどうかも怪しい。
「別に、そんな事聞きたいんじゃないんだけど」
ぼそりと呟くと、先生は可笑しそうにわたしを一瞥して珈琲を啜った。
「本当に短絡的ですね、君は。すぐに白か黒かを決めたがる」
「先生が呑気なんです」
「僕は自信がないだけですよ」
「……何、に?」
「世界に」
ほら、やっぱり暗号だ。でなきゃ禅問答だ。
–––いま此処には先生とわたししかいなくて、わたしは先生が好きで、先生もきっと、……たぶん、そう、なのに。
自信がないのはわたしの方だ。あの日わたしにキスをくれたのも、わたしを抱きしめ返してくれたのも、あれは間違いなく先生だったのに。
結局、先生はわたしを好きなのか、わたしたちは一般的に言うところの彼氏彼女というやつなのか、わたしの恋は生きているのか死んでいるのか。–––ああ、これがつまりシュレー何とかの猫、なのかもしれない。
「帰ります」
腕に提げていた濃紺のコートを羽織りながら言って、わたしはふいっと先生に背を向けた。それでも先生は慌てたふうもなく、穏やかな声色でわたしに呼びかける。
「佐倉くん」
「……はい」
「外はだいぶ暗いですから、気を付けて帰るように。……それと、」
ぎいっと、先生の座っていた椅子が軋む音が響いた。先生が立ち上がったらしい。
「–––僕が思うに、君と僕は既に『共有結合』によって結び付いているのではないかと」
さりげなくわたしの背後に立った先生が、低い声で言う。『共有結合』って何だったっけ、と記憶をたぐりながらだったせいか、わたしは思わず間延びした返事をしてしまっていた。
「……はぁ」
先生はちいさく笑った。
「『共有結合』がわからない?」
「ええ、ちっとも」
「一年前に教えたんですけどね……。僕の授業はそんなに記憶に残らないものなんですかね」
自嘲気味な先生の言い種。ああ、このひとは本当にわかっていない。わたしはくるりと先生に向き直った。
「だって授業の内容なんて聞いてないもの。先生がどんな声で話すか、どんなふうに板書するか、どうやって試験管に触るのか、先生を見るのに忙しいから」
「開き直りは止めなさい。『共有結合』は明日までの宿題です」
先生が、野放図に伸びた自分の前髪をぐしゃりと掻きながら言った。
わたしは先生を押し離すと、蛍光灯が頼りなく照らす廊下を蹴るようにして走り出したのだった。
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「先生」
化学準備室の古びた扉を開けながら、我ながら懲りないな、と思う。
先生に淡々と突き放されても、ふいに嘘みたいに優しくされても、或いは暗号のような事を言われても–––要するに、どんなに振り回されても、やっぱりわたしは先生が好きなのだ。
「ああ、佐倉くん」
珈琲を飲みながら研究誌だか論文だかを読んでいたらしい先生が、ゆっくりと顔を上げた。先生を見ていると、世の中の教師と呼ばれるひとたちは本当はみんな暇なんじゃないかと思ってしまう。職員室や進路指導室にいる教師たちは、何かしら忙しげに働いているというのに。
「去年の教科書引っ張り出してきて調べました。『共有結合』は……、えっと、原子同士がお互いの電子を出し合って、その電子を相互で共有する事によって結合する事、ですよね?」
「そう。つまり僕らは秘密という電子を共有して結合している。……わかりますか佐倉くん」
「や、あんまり」
先生の言わんとする事がまったく掴めないまま、わたしは糸で引かれるようにして先生の前まで移動した。
「目を閉じて」
「へっ」
「シュレーディンガーの猫が入っている箱、開けてみましょうか」
やっぱりよくわからない。何なんだ、と思いながらぎゅっと目を瞑った瞬間、わたしの唇にそっとあたたかなものが触れた。
「は」
「猫、どうやら生きてたみたいですね」
「そう、ですか」
どぎまぎしながら掠れた声で答えたわたしの唇に、またしてもキスが降ってくる。先生の冷たい唇が、重ね合ううち徐々に熱くなっていく。
「先生……」
長いキスが終わってから、余韻から抜け出せずにぼんやりと先生の白衣を握りしめているわたしに、先生がそっと耳打ちした。柔らかな声が、耳から滑り込んだかと思うと体じゅうを駆け巡る。
「……こういう事をわざわざ言葉にするのは苦手で避けてきたんですが。つまり、僕も君が好きだという事です」
「せん、せ……?」
率直すぎるほどの言葉に、わたしは膝から崩れ落ちそうになる。
だって、好き、だなんて。先生の口からそんな言葉が零れ落ちるなんて。これは夢か幻? それともわたしの妄想?
「君には婉曲表現では伝わらないようなので率直に言います。好きですよ、佐倉くん」
「ちょ、先生」
「何です」
「何です、じゃなくて……急に素直になるとか狡いよ……! だって、わたしがいままでどんなに……、」
「続きは後でゆっくりと。……帰り、少し遅くなっても構いませんね?」
にっこり、先生が笑う。
「大丈夫ですよ。日を跨ぐつもりはないですし、帰りはちゃんと送りますから」
余裕綽々な表情を浮かべながら、先生は脱いだ白衣をわたしに手渡した。わたしは先生に手を引かれて廊下へ出る。化学準備室の鍵をかけると、先生は「職員室にこれを返してきます。君は先に乗って待ってなさい」と車の鍵を握らせた。
「こ、これから何処行くんですか」
「……さあね」
先生が、わたしの髪を優しく撫でて言った。ああ、体が痺れて動けなくなる。完全に先生の掌中だ。悔しい、けど、どうしよう、嬉しすぎて倒れそう。
微かに珈琲の匂いがする白衣を抱きしめるようにしながら、わたしは、覚束ない足取りで先生の車へと歩き出した。
-END-
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