目隠しの森で


「やっぱり、や、です。まだ帰りたくない……です」


 ブレザーの袖口からはみ出したキャメル色のカーディガンを引っ張るようにして握りなおすと、わたしは顎を引いて、先生を半ば睨み付けるようにして呟いた。


「聞き分けのないひとですね、本当に君は」


 運転席の先生が、呆れたように笑みを零す。子供扱いされている、ハズなのに–––先生の柔らかな声が嬉しくてつい、更に意固地になってしまう。


「お願い、あと5分だけ」


 わたしのささやかな我儘に、先生がまたしても呆れ顔で笑う。


 一緒にいる時間が増えて気付いたのは、先生はよく笑うひとだという事。授業中はほとんど(いや、皆無?)と言っていいほど無愛想で無表情なのに。どちらにせよ、野放図に伸びた前髪のせいで、分かりにくくはあるけれど。


 そっと、シフトレバーに乗せられた–––ギアをパーキングからドライブに入れようとしていた矢先だったから–––先生の手に自分の手を重ねてみる。冷たい手。先生の手は、いつ触れても澄んだ水のように涼やかだ。


「先生……?」


 妙な沈黙が怖くて覗き込むと、先生は車のキーをカチャリと回してエンジンを切った。途端、耳が痛くなるほどの静寂が舞い降りる。


「佐倉くん」

「は、はいっ」

「5分でいいんですか? ……たった、5分で?」


 先生の鳶色の瞳がわたしを見つめる。


「だ、だってもう帰さなきゃって言ったの先生じゃないですか! ほ、ほんとはわたしだって5分とかそんなんじゃなくて、」


 必死に言い募るわたしの頭を、先生は腕を伸ばしてポンポンと叩いた。……やっぱり、子供扱いだ。


「僕もですよ、佐倉くん。でもまだ一晩中君を帰さないという訳には行きませんから。とりあえず今回は5分で中断しておいて、その後の君の物欲しげな表情を鑑賞する事で手を打つとしましょうか」

「……変態」

「何とでも」


 不敵に笑ってシートベルトを外すと、先生はわたしを攫うように抱き寄せた。そのまま耳元で「佐倉くん、」と吐息が漏れるように囁かれ、わたしは返事も出来ずに硬直してしまう。


「いいですね、素直な君は」

「ど、ういう意味です、か……っ」


 答えの代わり、なのか何なのか、わたしの言葉を遮るようにして先生のキスが降ってきた。ただし、甘いそれではなく、獰猛なそれ、だ。あっという間にわたしの頭は真っ白に弾けてしまう。


「……せん、せ、」


 瞼を下ろしたまま、息継ぎの隙間に呼んでみる。だって、他に言葉がなんにも思い付かないから。目の前に先生がいて、先生が、わたしにキスをくれている。–––この空間ではそれだけが真実なのだ。


 先生が優しくわたしの髪を撫でたかと思うと、その手が肩へ降り、唇がゆっくりと遠ざかった。約束通り、5分経ったんだろうか。熱い。唇だけでなく、体のどこもかしこも、ウイルスに犯されたように熱くぼんやりしている。わたしは先生の余韻を逃さないように、自分の唇をぺろりと舌でなぞった。


「……佐倉くん」

「はい……?」

「その仕草も表情も、絶対に僕以外の前でしないように」

「え?」


 さっとシートベルトを装着すると、「家の側まで送ります」と短く言って、先生が車を発進させた。いつもは駅までなのに、どうしたんだろう。先生の考えている事は、やっぱりよく分からない。


「先生って、ほんと意味不明だわ」



 –––Two drifters, off to see the world.

 –––There's such a lot of world to see.



 ラジオから流れる雑音混じりの英語を何とはなしに聞きながら、わたしは、窓の外を流れる夕闇色の景色を眺めて呟いた。



 -END-



▼英語詞は「Moon River」より

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