恋ぞ積もりて
向日葵が項垂れるほどの暑さが続いた夏期休暇も残り僅か。補講という名目を失って、なんとなく学校に足が向かずにいたわたしの携帯が不意に震動した。着信。
……先生から、だ。
『佐倉くん、生きてましたか。君が顔を見せないので、化学準備室は海底5万メートルの深海のように静かです』
真面目くさった声で先生が言う。誰よりも聞きたかった声のはずなのに、素直にそうは言えなくて、わたしは拗ねた子どものような口調で応じた。
「それで、用件は何なんですか」
『約束、憶えてますか?』
「……やくそく」
唐突に尋ねられ、わたしは鸚鵡返しにぽつりと一言だけ呟く。
『忘れているなら構いません。では、また新学期に』
「わ、忘れてなんかいません! 夏祭り……先生の地元の、一緒に……っ」
『明後日の19時、××駅で。君の家まで迎えに行きたいところですが、僕は元来臆病者で、学校以外で君と会うのに堂々と振る舞う自信がないものですから。申し訳ありません』
「……言い方が狡い気がしますけど、でもそれは先生が謝る事じゃないです」
だって、わたしが。わたしが先に、どうしようもなく先生を好きになってしまったのだから。学校以外で会うなんて奇跡みたいな出来事だ。先生の立場を考えたら、文句なんてわたしの体の何処を探っても出てくるはずがない。
『では、明後日19時に』
どうしよう、もしかしたら今のは幻聴のかもしれない。
でも、先生は嘘なんかつかない、絶対に。–––あの春の日、桜の舞う中で。夏の日、蝉時雨の中で。今までに先生がくれたキスに、嘘があるはずがない。わたしの恋が呼吸をし続けるには、それを揺るぎなく信じるしかないのだ。
京紫の綿絽に大小の花が咲き零れる浴衣を、着付けてくれたのは祖母だった。「浴衣で逢引きなんて良いわねぇ」と、何も知らない祖母は朗らかに笑った。その相手が学校の先生なの、なんて言ったらどんな顔をするだろうか。……小さな罪悪感に、心が軋んだ。
「雪輪に牡丹、藤に桜。佐倉くんの顔立ちによく映えますね。似合ってますよ」
「あ、ありがとうございます……。先生も浴衣、似合います、ね」
相変わらず野放図に伸びた前髪に銀縁眼鏡をかけた先生は、黒地の浴衣を着て駅前に立っていた。先生がいつもの白衣をまとっていない–––それだけで、わたしの心はぶくぶくと泡を立て、一瞬たりとも落ち着いてくれない。
「この駅の裏手の商店街を抜けたところに神社があるんですが、その商店街から神社にかけての一帯に出店が連なるんです。とりあえず歩きましょうか。……佐倉くん、手を」
え、と呟く間もなく、わたしの右手は先生の左手に包み込まれていた。
ほんのりと、空が茜色から菫色へと移ろう時間帯。
何処からともなく流れる祭り囃子と人だかりが起こすざわめきに、お祭り特有の高揚感が漂う。屋台から溢れる甘辛い匂い、徐々に点されてゆくオレンジ色の灯り。
–––何より、繋がれた右手の感触。何もかもすべてが夢か幻のように思えて、わたしは先生に手を引かれるままぼんやりと漫ろ歩いた。
「それで? かき氷、りんご飴、金魚すくい、綿菓子、射的、……どれから攻めましょうか?」
「もう、子どもじゃないんですから!」
思わず声を荒げるわたしをくすくす笑う先生に、通りすがった男性が驚いた表情で声をかけた。
「–––あれ、もしかして篠宮!?」
その声に、先生はさっと双眸を
「……どうも」
「うっわ中学以来だっけ? 久々に会ったと思ったら何だよー、こんな可愛い彼女なんか連れちゃって。大学卒業してから教師になったって聞いてたけど、まさか教え子?」
「さて、どうでしょう」
ゆらり、口端を歪めて先生が笑う。
「悪いセンセイだなぁ。キミ、高校生? そのくらいの
「ええ、善処します」
まだ何か言いたげな様子の男性を尻目に、先生はわたしの手を取って人波を縫うように足早に歩き出した。わたしも、慣れない下駄に足を縺れさせつつ追い掛ける。
浴衣や甚平で着飾ったカップルや家族連れ、制服姿の集団が、弾けるような哄笑を上げながらすれ違う。屋台の太い売り声。甲高い音で流れる祭り囃子。
今夜はお祭りなのに。此処は学校なんかじゃないのに。なのに、わたしが生徒だというだけで、先生は余計なものを背負わなきゃいけないんだ。悔しい。
「あの、先生、今の人は」
「多分、中学時代の同級生でしょう。僕が此処に住んでいたのは中学卒業までなので、彼の顔も名前も記憶にはありませんが。……すみません。ああいう形で君に嫌な思いをさせるつもりはなかった。僕が浅慮でした」
「そんな事ない!」
「いえ。やはり君が学生の間は、学校以外で会うものじゃありませんね。秘密は秘密のままにしておかなければ。……僕だけならともかく君が傷付く羽目に、」
わたしの方を見もせずに呟く先生の手を、ぐいっと両手で掴み直す。
「秘密は秘密のままでとか何とか、そんな逃げ道作らないで」
「逃げ道?」
「先生はきっと馬鹿みたいって笑うだろうけど、わたし、先生と離れるくらいなら学校なんか辞めたって構わないんだから。先生がわたしだけの先生でいてくれるなら、わたし、わたしは–––」
「…そりゃあ笑いますよ。君が学校を辞めるぐらいなら、僕が職を変えればいいだけの事でしょう?」
「そういう問題じゃなくて!」
「まったく、聞き分けのないひとですね君は」
くるりと向き直ると、先生は私の手首を掴んで細く薄暗い路地に滑り込んだ。途端、むっと噎(む)せるような熱気に包み込まれる。
「先生?」
わたしの手が、すいっと先生の口許に掬い上げられた。音を立てずに口付けられる。…触れられた肌が、熱い。
「ふたりだけの秘密だからいいんでしょう?」
「どういう意味、」
「こういう意味です」
「……っ」
ほんの一呼吸する間も置かず、わたしの背中は壁に押し付けられていた。帯が崩れちゃう、とか、一歩踏み出した向こうは溢れんばかりの人混みなのに、とか、今はどうでもいいはずの事ばかりが頭をぐるぐると巡る。
先生は薄く微笑むと、そのままわたしにキスをした。けれどその冷たい唇は、あてどなく舞う蝶のように一瞬で離れてしまう。
「せん、せ」
もっと、と正直に言葉にするのはあまりに恥ずかしくて、わたしは蕩けてしまいそうになりながらただじっと先生を見上げた。何処か遠くで、祭り囃子が響いている。
「僕が君にする事は、すべて君しか知り得ない僕たちだけの秘密です。だからこそ、君は僕のものなんだと、誰にも知られる事なく刻み付ける事が出来る」
低く落ち着いた声で言いながら、先生はわたしの項に掌を滑り込ませた。
「何言ってんのか、よく、わかんない、です」
「分からなくて結構」
刹那、体ごと覆い被さるようなキスが降ってくる。まるで猛獣に喰らいつかれているかのような激しさに、わたしは息も出来ずに溺れてゆく。冷たかった先生の唇は、次第に熔けるように熱くなる。時折漏れる先生の息遣いが耳をくすぐるたび、わたしは眩暈を憶えて昏倒しそうになった。
–––ああ、わたしこのまま死んじゃうかもしれない。
真っ白な渦に飲み込まれそうになったその時、先生の唇は花火が舞い散るようにふっと遠ざかってしまった。
「あ……」
耳が、脳が、雑踏のさざめきを急速に取り戻してゆく。
「先生……?」
「僕はね、佐倉くん。君には、僕以外の誰にも指一本触れさせるつもりはないんですよ」
先生にしがみつくようにして立つのがやっとなわたしの口許を、自分の浴衣の袂でそっと拭いながら、いつもの調子で先生が言った。甘やかに震える体を持て余して、わたしは動揺を隠せない。
あんなキスをしておいて、先生は平気なんだろうか。その先、を–––わたしにとっては未知の領域に踏み込む事、を–––期待してしまうわたしは、はしたない小娘なのだろうか。
「あの、先生、わたし」
波立った気持ちを押し殺しきれず、泣きそうになりながらわたしは先生を見つめた。悔しい。先生は、なんだか愉しげな笑みを浮かべてわたしを見下ろしている。
「君が思い煩う必要はありません。君のその
「え……?」
「早くこの先を、と君が焦れったく思っていられるのも今のうちだけですから。しばらくはその表情で僕を楽しませて貰いますよ」
にっこりと笑う先生に、全身がたぎるようにかあっと熱くなる。ああもう、何もかも見透かされている。
「……先生って変態だったんですね」
「またそういうくだらない事を」
「だって事実だし」
「そうですね、君に対してだけはそうみたいです。……嬉しいでしょう?」
「な……っ」
「嫌いになりましたか?」
「いいえ!」
下駄を鳴らして踵を返すと、わたしはそそくさと路地から抜け出した。帯に挿していた団扇を取ってパタパタと頬に風を送る。
「佐倉くん」
「……はい」
わたしの手から団扇を奪って、先生があおいでくれながら言う。
「僕が君を独占するには、君のその意地の強さに甘えるしかありません。申し訳ありませんが、君が卒業するまでの我慢です」
「意地の強さって……褒められてる気がしないんですけど」
「褒めてますよ、心から。……ああ佐倉くん、先に謝っておきますが、僕が卒業まで我慢出来なかったらすみません。君を滅茶苦茶にしてしまいたくなる時が、ごく稀にあるものですから」
は!? と絶句して先生を見上げるのと同時に、ドォン、とくぐもったような発砲音が辺りに響き渡った。
「花火、始まりましたね」
いつのまにか夜の闇に覆われていた空に、幾つもの花が描き出される。色とりどりの花びらは、ほんの数秒、夜空を彩ったかと思うと、きらきらと光を零して散ってゆく。
「綺麗……」
ほうっと息を落として先生の横顔を盗み見ると、先生の優しい眼差しが注がれているのに気が付いた。慌てて視線を逸らしつつも、わたしはそっと先生の指先に自分の指を絡めてみる。胸の奥で、甘く柔らかな泡沫が生まれては消え、そしてまた絶え間なく生まれるのを抑えられず、わたしはつい先生に呼び掛けた。
「ねえ先生」
「はい?」
「何でもないです」
好きです、とか、幸せです、とか、胸に溢れる想いを単純な言葉に置き換える事が出来ずに、わたしは花火を見つめたまま、繋いだ指先にきゅっと力を籠めたのだった。
-END-
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