揺れる金魚


 土砂降りのように蝉時雨が響きわたる、夏期休暇中の校舎。覗き込んだ化学準備室は相変わらず人気がない。


「……失礼します」


 形ばかり断ってから部屋に入ると、わたしは、雑然と散らかった机に突っ伏してすうすうと眠っている先生の頬に指を触れた。冷たい。

 君たちが夏休みでも教師は学校に出てきて仕事をしてるんですよ、と言ったのは誰だっけ、と、わたしは思わず笑ってしまう。


「暑い……」


 こんな暑い中よく寝てられるね、と半ば感心すら憶えながら、わたしは窓際のパイプ椅子に腰を下ろした。


 古ぼけた扇風機からは微温い風がそよぎ、開け放たれた窓の向こうの凌霄花のうぜんかずらをぼんやりと眺めるわたしのうなじを撫でた。

 こうしていると、時間が止まった世界に居るみたいだ。呼吸に上下する先生の背中に触れたくて、否、抱きついてしまいたくて、でもそんな事は決して出来なくて、わたしの胸はざわざわ騒がしく疼いた。


「ああ、佐倉くん」


 ふと先生が顔を上げた。伏せていた方の頬が赤くなっていて、わたしは子供でも見ているような気持ちになって笑ってしまう。


「何ですか、人の顔を見るなり笑ったりして。……珈琲、飲みますか」


 分厚い図鑑の上に置かれた眼鏡をかけ直して、先生がわたしに尋ねる。わたしは首を振る。先生が、真夏でも真冬でも熱い珈琲しか飲まないのを知っているから。


「ああ、冷蔵庫の中に」


 椅子の背凭れに無造作に架けてあった白衣を羽織る。いいのに、別に。だって、夏休み中なんだよ、先生。わたしはこの空間では自分が先生にとって生徒でしか有り得ない事実に苛立ちながら、先生が指さした(扇風機と同じく古ぼけた)冷蔵庫の扉を開いた。ひんやりとした冷気が心地好い。先生の頬の感触を思い出す。冷たく、硬質な、今まで触れた何よりも上等な手ざわり。


「それ、良かったら佐倉くん飲んで下さい。僕は炭酸は苦手なので」

「じゃあ、なんで此処に」

「差し入れに貰ったんです」

「誰にですか」


 珈琲用にお湯を沸かすアルコールランプの青い炎が、ゆらゆらと舞うようにフラスコの下で揺れる。


「誰にですか」


 生徒ですよ、と、二度繰り返して聞いたわたしに先生が答えた。


 静かに立ちのぼる珈琲の薫りに、わたしは無性に泣きたくなってばたんと冷蔵庫を閉じた。


「飲まないんですか、サイダー」

「先生こそ」

「だから僕は」

「だって、先生にって持って来てくれた子に悪いですから」


 わたしは扇風機の前に陣取って、風量を最大にしてやった。ぶわ、と髪が煽られて、わたしは一瞬呼吸を忘れてしまう。

 先生と居るといつもこうだ。ぼろぼろと涙をこぼしてわあわあと声を上げて泣いてしまいたくなる。苦しくて、もどかしくて、いとおしくて、もうどうしようもない。


「一体何をしでかすんですか、君は」


 風が止んだ。先生が扇風機のスイッチを切ったからだ。それでも蝉時雨は止まない。見えない檻のように、わたしを、先生を室内に捕らえている。


「先生わたし」

「……いつもの癖で」


 何を言おうとしたのか自分でもわからないまま口を開いたわたしの前に、先生は熱いカップを差し出した。


「君が来ると二杯入れてしまいますね、つい。だから佐倉くん、責任を持ってきちんと飲むように」


 つ、と自分の首筋を汗が滑り落ちるのを感じながら、わたしは慎重にそれを受け取った。此処での時間は、炭酸が水に溶けるようにあわあわと流れてゆく。


「そうだ佐倉くん、一緒に夏祭りに行きましょうか」


 緩やかな静寂を破ったのは先生だった。わたしはカップを取り落としそうになりながら先生を見上げた。


「え」

「僕の田舎でもね、毎年やってるんですよ夏祭り。この辺りみたいに派手なお祭りではないですけど」


 先生が珈琲を啜る。本気、だろうか。こういう時、駆引きなしに突き進むしかない自分の恋を呪いたくなる。先生の一挙一動にいちいち振り回されるわたしはなんて子供なのだろうと。

 でも、先生は穏やかに笑ってわたしを見つめている。この笑顔が嘘だとしたら、神様はあまりにも意地悪すぎる。


「先生?」

「……その代わり、休み明けの模試の結果を楽しみにさせて貰いますけど」


 先生が、わたしの髪にゆっくりと指を絡めた。さっきの扇風機の強風で、わたしの前髪はくしゃくしゃだ。動けずにいるわたしを知ってか知らずか、そのまま先生の指先が降りてきてわたしの唇をなぞる。冷たい、のに、燃えるように、熱い。わたしたちはキスをした。ごく当たり前の出来事のように。ゆっくりと唇は触れ、そして離れていった。


「……ゆびきり、しましょう」

「ゆび、きり」


 小指を掬うように絡められ、わたしはぼんやりしたまま何処か遠い世界の物語のように『嘘ついたら針千本飲ます』と歌う先生の唇を見つめていた。唇は冷たく柔らかだった。


「全国模試で志望校A判定とは、また大胆なゆびきりげんまんですね」

「は?」

「聞いてませんでしたか、今の歌。僕が夏祭りに連れて行く代わりに、佐倉くんは模試でA判定取ります、って歌ったんです。……破ったら針千本ですよ?」


 ぽかんと間抜けな顔で先生を見たわたしに、先生は涼やかな声で言った。


「楽しみですね、花火。あと、佐倉くんの浴衣姿も一応期待しておきます」


 零れ落ちそうに咲き誇る凌霄花が、窓の向こうでふわり、金魚の背鰭のように風に揺れた。




 -END-

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