雨の檻


 春の終わり。すっかり花びらも散り、青々とした若葉を繁らせている桜の木が、雨に打たれて所在なげに佇んでいる。わたしは、傘も差さずに音楽室横の非常階段に腰を下ろして、記憶に刻みつけられたピアノの音を脳裏で繰り返し甦らせていた。

 サティの『グノシエンヌ』。そのミステリアスな旋律が耳の奥でこだまする。けれど、その印象深い旋律以上にわたしの胸を震わせているのは、音色の美しさや研ぎ澄まされた深みなんかでは、決して、なくて。


 –––先生。


 わたし、何してるんだろう。……バカみたい。そう思うのに、あの瞬間を思い出すだけで居ても立ってもいられなくなって、あれから毎日のように音楽室に来てしまっている。でも、こんなふうに待ち伏せしてたって、きっと先生は此処へは来ないだろう。桜だって、もう、ぜんぶ散ってしまった。

 –––だったら直接会いに行くしかない。 意を決して立ち上がると、わたしはまばたきして睫毛にかかった雨粒を払い落とし、コンクリートの床を蹴って非常階段を駆け下りた。




「……君は」


 わたしが化学準備室の扉を開けると、先生は濡れしずくになっているわたしを凝視したままゆっくり本から目線を離した。そして瞼を伏せ、長いため息を落とした。…どういう意味のため息なんだろう、と訝ると同時に、その伏せた睫毛に触れてみたいとぼんやり思いながら、わたしは、ただ先生の次の言葉を待った。


「1年A組の、佐倉くん、ですね」


 そう呟いて椅子から立ち上がると、先生は読んでいた本をぱたんと閉じた。

 静まり返った化学準備室では、ひとつひとつの音がやけに大きく響く。時計の秒針の音も、雨の落ちる一滴一滴も、わたしの逸って仕方ない鼓動すらも響き渡ってしまいそうだ。

 黙ったままのわたしを、先生が目を眇めてじっと見つめる。野放図に伸びた前髪と、眼鏡のレンズ越しに覗く双眸。授業をしている時のぼんやり遠い眼差しとは真逆の、澄んだ、鋭い視線がわたしを射抜く。–––ゾクゾク、する。


「入学したての生徒の名前なんかよく覚えてましたね。……篠宮先生は、生徒にはまったく興味がないんだと思ってた」


 出来る限りの平静さを装って答える。先生は、そんなわたしを見透かすように、口端だけを歪めて笑った。


「興味があると言っては嘘になりますが、必要最低限の生徒ぐらいは抑えておかなくてはね。これも仕事ですので」

「必要……最低限?」

「ええ。1Aの佐倉澪と言えば、登校はしているはずなのに授業放棄の常連で教室に居着かない。無論、部活動や委員会にも所属していない。課題や提出物はまるで出さないし再三の呼び出しにも応じない。–––このままでは異例の速さで停学か退学になるかもしれないと、職員室で専らの噂です」

「……へえ、そう」

「君こそ、僕のような地味な教師をよく覚えていましたね。君が化学の授業を受けたのなんて、入学以来一度きりだったように記憶していますが」


 先生が、横目でちらりとわたしを見やった。


「しかし佐倉くん、何がそんなに気に入らないんです? ぬるま湯に浸かって流されていくだけの怠惰な高校生活に、もう既に辟易しているとか?」

「……っ、そんなの先生には関係ない!」


 わたしの返事に、先生が愉しそうに笑った。図星だったせいで返す声がつい尖ってしまったのなんて、先生にはあっさりお見通しのようだ。先生は靴底を鳴らして数歩進むと、わたしのすぐ目の前に立って言った。


「すみません。ふいに噂の珍獣が目の前に現れたものですから、動揺して些か喋りすぎました。僕と今日こうして会話した事は、忘れて下さって結構です」


 珍獣、か。可笑しさと悔しさが綯い交ぜになって思わず鼻を鳴らすと、わたしは背の高い先生を見据えるようにキッと見上げた。


「忘れてあげるから、もう一度こないだみたいにピアノ弾いて」


 わたしの言葉に、先生はわざとらしく肩を竦めて答えた。


「……まったく、噂どおり本当に困った生徒ですね君は。佐倉くん、もう下校時刻は過ぎています。僕も職員室に寄ったら帰りますから、君も暗くならないうちに帰りなさい」


 「バカにしないで」とちいさく呟いて、わたしはカーディガンの袖を握りしめた。ぽたり、髪の先から雨の雫が滴り落ちる。


 –––どうしてあの日、ピアノを弾いてたの? 先生はいつも、どんな事を考えてるの? ……恋人もしくは好きなひとは、いるんですか?


 先生に聞きたい事はたくさんあるのに、聞いてしまったら負けのような気がして口に出せない。

 胸の底が、じりじりと焦げるように熱を帯びる。あの日から鼓膜にこびりついてしまった、ピアノの旋律が脳裏に甦る。そしてそれらは、見えない鎖のようにわたしをぐるぐると縛り付ける。わたしはぎゅっと目を瞑った。


「佐倉くん」

「……はい」


 顔を俯けたまま答えると、先生がわたしの手に何か握らせた。そっと目を開ける。持ち手が革製の蝙蝠傘だ。程良く使い込まれているらしく、わたしの肌にもしっくりと馴染んだ。


「傘、男物ですが良かったらどうぞ。僕は車ですから、お気になさらず」

「あ、ありがとう、ございます……」


 戸惑いがちにわたしが言うと、先生は再びこちらに背を向けた。何か言わなきゃ。わたしは雨に錆び付いたように動かない頭をどうにか回転させる。–––このまま、このまま先生の中から『わたし』が消えてしまうのは、嫌だ。


「先生、もう帰るから、……だから、ひとつだけお願い」

「……」


 先生は緘黙したまま、けれど、わたしが何を言い出すのかと構えるように、ほんの少しだけ身じろいだ。


「また、此処に来てもいいですか?」


 子供みたいだ、と、我ながら思う。どうにかして構ってもらいたい相手を目の前に、わたしはこんな事しか言えないのだ。きっと先生は嘲笑わらうだろう。寝ぼけた事を言ってないで早く帰りなさい、と。

 わたしは泣きたくなるのを歯を食いしばってこらえながら、でも絶対に泣きたくなくて、ひたすら先生を見つめ続けた。ほとんど睨んでいると言ってもいいぐらいに。


「……いいですよ。君が、僕の授業や課題について質問したい事があるならいつでも。此処はそのための化学準備室です」


 先生は呆れたように薄く笑うと、そう言ってわたしの頭をポンと撫でたのだった。


-----


 「いつでも」と先生が言ってくれたからといって、翌日すぐに行くのは悔しい気がする。でも傘も返さなきゃいけないし、何より、先生の気が変わる前に行っておきたい。

 昨日からの雨の上がりきらない放課後、化学準備室のある棟への渡り廊下の真ん中で逡巡していたわたしに、同じクラスとおぼしき男子が声を掛けてきた。


「あ、佐倉じゃん。今日もまた授業サボりまくってたけど、学校には来てたんだな。つーか、あんまり目立った事してるとそのうち本気で停学喰らうよ? だいじょぶ?」


 畳み掛けるようにそう言われたけれど、入学から1ヶ月以上経つのにあまり教室に居着かないわたしは、彼の名前すら思い浮かばない。


「えーと、はい」

「そうだ。せっかくだから一緒に帰らない? 佐倉は電車? バス? 方向違うんなら、とりあえず駅かバス停まででも」


 何が「せっかくだから」なのか分からないが、一緒に帰ろうと言われても答えようがない。わたしは手持ち無沙汰に視線をキョロキョロと泳がせた。


「あー……、でも、わたし今から用事があって」

「そうなの? じゃ、済むまで待ってる。あ、もしかして日直だっけ? 学級日誌とか書くならオレも手伝うし」

「や、そうじゃなくて」


 化学準備室に行くのは自分だけの秘密にしておきたくて、うまく言い逃れが出来ない。……どうしよう、かな。


「あの、わたし、ちょっと約束が」

「え? もしかして彼氏? 先輩とか?」


 わたしが握りしめていた、自分の傘とは別の–––女子が持ち歩くには大きすぎて不相応な–––蝙蝠傘に気付いたのか、男子の目がふと詮索の色を帯びる。


「ち、違う、そんなんじゃ」

「–––佐倉くん」


 ふいに背後から無愛想な低い声がして、わたしは勢いよく振り返った。


「せ、先生……?」

「佐倉くん、先日の課題の提出、君だけ遅れていますよ。単位が欲しければ可及的速やかに化学準備室に持って来るように。……いえ、『可及的速やかに』では齟齬があるので訂正します。佐倉くん、『即刻』、です」

「え、あ、えっと、わかりました……」


 言い捨てて歩き出した先生に向かって頷くと、不思議そうな顔でわたしを見つめる男子を置いて先生の白衣の背中を追った。



 化学準備室に入って扉を閉めると、わたしは、握りしめていた2本の傘をそっと先生のデスクに立てかけた。お礼を言わなくては、と唇を動かそうとした刹那、先生がわたしに言った。


「珈琲、飲みますか」

「え?」


 その唐突な問いに真意を酌みかねたわたしは、それには答えず思ったままを口にした。


「化学の課題なんて、急に言われても困るんですけど」

「先週の授業で出したのは本当です。君がろくすっぽ授業も受けないでフラフラしてるのがいけないんですよ。……まあ、君の場合は、課題どころか補習しないといけないぐらいですけど」

「いえ、お構いなく」


 先生は可笑しそうに喉を鳴らしながら、平底フラスコに水を注いだ。それからアルコールランプに火を点ける。不揃いなふたつのカップを並べ、ペーパーを敷いたドリッパーにスプーンで掬った珈琲の粉を入れる。

 ……その淀みない指の動きに、わたしの目は釘付けになってしまう。ピアノを奏でる時の仕草に似ている–––ように、わたしには思えた。

 しばらく突っ立って黙ったままでいると、やがてフラスコの中でちいさなあぶくが舞いはじめた。


「佐倉くん。どうせ君は、僕を好きだとでも思っているんでしょう?」

「な…っ」


 前触れもなく踏み込まれて、わたしは絶句するしかなかった。好きなんかじゃない、と否定してしまえれば楽だけれど、けれど、もう、そんなの無理だ。だってわたしはきっと先生を好きだから。理由なんて分からない。必要もない。

 –––あのピアノの音色を耳にした時、それを奏でる先生を見た時。あの瞬間から、わたしは何処にも逃げられなくなってしまったのだから。


「…その通りです、と言ったら?」


 震える声で答えたわたしには目もくれず、先生はトングで挟んだフラスコからドリッパーにお湯を注いだ。ふんわり、珈琲の薫りが立ちこめる。

 やがて熱い珈琲が入ったカップをわたしに差し出しながら、先生は言った。


「ならば、君はもう少し僕という人間をきちんと観察する事です。君は今、一時的な熱に浮かされて錯覚に陥っているだけですよ。僕は君に慕ってもらえるようなたいした大人じゃありません。そこら辺に転がっている石と同じ、ただ年齢を重ねただけのつまらない人間ですから」

「そんな事、」

「それを飲んだら帰りなさい」


 先生は狡い、と、わたしは嘯いた。珈琲の優しい薫り。夜の闇より真っ黒な大きい蝙蝠傘。少しくたびれて見える柔らかな白衣。ピアノに触れる、珈琲を入れる長い指。いつでも不機嫌そうな低い声。そのどれかひとつだけでも独り占めしたい、と願うのは浅はかだろうか。でも、願わずにはいられないのだ。–––欲しい。先生の欠片が、たった一片でも。


「……錯覚でもいい。むしろ、先生のせいでこんな自分が自分じゃないみたいな想いをしなきゃいけないなら、いっそ錯覚であってくれたほうがマシよ」

「入学してたった1ヶ月で何を言い出すんです。今の君が見ているのは全て錯覚です。高校ごときの授業からすら逃避して、偶然出会した物珍しげな教師に恋した気分で浮かれるような曇った眼では、世の中の真実何ひとつ学ぶ事は出来ませんよ。…佐倉くん、早く、現実を見なさい」


 君は賢い子でしょう? と呟いて、先生がわたしに歩み寄った。ビクッと身じろいで見上げると、先生は深い海の底みたいに静かに微笑んでいた。ポン、と頭に先生の手が乗せられる。ああ、と、言葉にならない熱が胸の底を掠めたけれど、同時に、その何処か寂しげな表情に喉の奥が締め付けられてしまった。


「……先生」

「はい?」

「ダメです」

「何がです」

「錯覚だなんて言わないで」

「往生際の悪いひとですね」


 わたしは、先生にしがみついてしまいたい衝動をどうにかこらえながら、一歩だけ、後ずさった。


「先生」

「はい」

「また、来ます」


 少しだけ震える声で言ったわたしに、先生は何も答えなかった。いい、とも、ダメだ、とも。


 いつのまにか雨は止んでいたらしい。化学準備室の窓の隙間から吹き込んだ微温い風が、古ぼけたカーテンと先生の白衣と、それからわたしのスカートの裾を、音もなくふわりと揺らした。




 -END-

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