風味絶佳
遊月
凛と響くは焦がれるほどの
「先生、」
わたしが遠慮がちに呼ぶと、眠っていたらしい先生はまばたきを繰り返してわたしを見た。ああ君でしたか、と呟く先生の前髪は、教師らしからぬ野暮ったさで野放図に伸びている。極度の近眼らしい彼は、すぐそこにある眼鏡を見つけられずに手を不器用に這わせる。
「はい、眼鏡」
「どうもありがとう」
机の上に無造作に置かれた銀縁の眼鏡を取って渡すと、わたしの指と、先生の指が触れた。ぢりり、と電気が流れたように、一瞬わたしは硬直する。離れた指先を隠すように、わたしは冬服の袖を引っ張った。
先生の、綺麗な指先。此処では試験管に触れ黒板にチョークで字を書き薬壜を片付けるその指が、ピアノの前では滑らかに鍵盤を叩き美しい音を奏でる事を、わたし以外の誰も知らない。ああ、なんて愉快。
「佐倉君、珈琲でも飲みますか」
自分の前髪をぐしゃりと掻き上げながら先生が尋ねる。わたしは知っている。答えなくても、先生はふたり分の珈琲を勝手に入れてくれる事を。
「ねえ先生」
「何ですか」
「次はいつ弾いてくれるの」
「何を」
「ピアノよ」
ぱたりと先生の動きが止まった。放課後の化学準備室、窓の外は薔薇色と菫色が綯い混ぜになった夕暮れの空合。お湯を沸かすアルコールランプの柔らかな炎だけが、ゆらゆら、揺れている。
「僕が? ピアノを? 君に?」
小刻みな疑問符。意地悪な先生。忘れたふり、なんて。
「サティの『グノシエンヌ』。あんなに捻くれた音が出せる人なんて、先生以外には居ないよ、きっと」
あれはまだ入学したての春、桜の花びらが降りしきる午後だった。
音楽室横の非常階段、授業放棄して流れ着いたわたしが、眠りの狭間に途切れがちに聞いたピアノの音色。外はあかるく日が差していて、覗き込んだ音楽室は静かに薄暗かった。その音楽室で、ピアノの前に居たのが化学教師である筈の先生だった。
「あれ以来、音楽室には近付こうともしないよね、先生」
口を尖らせて先生を見つめるわたしの額に、先生の細く長い指が、伸びて、触れた。
「忘れなさい」
冷たい指先。わたしは腕を伸ばして先生の頬を撫でる。やっぱり冷たい。
「いやだ。あの日の先生、授業の時と違って格好良かったもの」
「失礼だな、君は」
「忘れなさいなんて言う先生のがよっぽど失礼だし狡い、」
唇が塞がれた。ああ、またしても冷たい唇。先生の身体の何処に触れれば暖かいのだろう。
「桜の時期にしか弾かない、そう決めてるんです」
とん、と身体を押し離して先生が呟いた。
「ああ……でも君も、さくら、でしたね」
言ってから、関係ないですね、と自嘲気味に先生は笑った。お湯が沸く音が響く。わたしは、佐倉君、と先生がわたしを呼ぶ時の柔らかな声を思い浮かべ、脳をぶるりと震わせた。
「うん、関係ない」
わたしは、こっちに背を向けて珈琲を入れる先生に言い放った。
「どうして桜の時だけなの、とか、誰を想って弾いてたの、とか……わたしには関係ない」
わたしには、あの時聞いた音だけがすべてで。あの日から見つめてきた先生だけがすべてで。そしてわたしには、それしか無いから。
「だからお願い。ほんのしばらく、今だけこうさせて」
わたしは先生の背中に腕を回した。
「……しぶといですね、佐倉君は」
「自分からキスした癖によく言う」
「まあ、あれが本心なんですけどね」
「え」
「君が居れば、もう桜の季節以外でも弾けそうな気がしますけど」
聞きますか佐倉君、と先生が尋ねる。何と返事したものかと黙り込んだままのわたしは、ふわりと先生の白衣の腕に抱きしめられた。
「せん」
「しばらく、このままで」
先生、と呼びかけようとしたわたしを制するように先生が言った。返事の代わりに、ぎゅっと白衣を握りしめる。
菫色だった空はいつしか濃紺に染め上げられ、凍えた月が浮かんでいる。先生の肩越しに見る月は、あの日の桜のように白く美しかった。
-END-
title/夜風にまたがるニルバーナ
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