第12話
しばらく沈黙が続いていると、支配人がメニューを持ってやってきた。僕が夕飯を食べたかどうかを聞くと、唯川さんは首を二回振った。「いま、食べようか?」というと、小さく頷く。
僕は少し悩んだあとで、ミックスピザと生ビールの追加を頼んだ。唯川さんは、人差し指でそのメニューを指さしながら、ナポリタンと小さい声でつぶやく。
支配人がカウンターの方へと戻っていったあと、
「どうやったら、落語家になれるの?」と素朴に感じた疑問を言葉にする。
「プロになるなら、弟子入りだよね」
「女性でも、落語家の人っているんだね」
「すっごい少ないけどね」
「ああ、でもあの人が女性の落語家だったね。三遊亭小鳥さん」
僕は、深夜ラジオ番組にゲスト出演していた彼女を思い出す。そして、ようやく納得がいった。だから、唯川さんはあの深夜ラジオを聞いていたのか。
「ひょっとして、最初のライブでとうとうと語っていた尊敬する人っていうのも」
「そう、小鳥さん」
「じゃあ、どうして音楽なんてやってるの?」
「親が、ダメだって反対するの。やらしてくれなかったの」
「親だって?」
「だって、私の実家はNHKしか絶対に見させてくれなかったのよ。自分の教え子たちには、あんなにも寛大なくせに、娘には全然やりたいことをやらしてくれないの。バラエティー番組は絶対に無理だったけど、NHKの寄席だけは見てもよくてね。それで小学校六年生のときに、初めて東京で小鳥さんの寄席に行ってね。もう、私は感動しちゃって、面白くって涙出ちゃって。でもね、私の地元はど田舎でしょう? 落語なんて学ぼうにも無理でね。で、高校生の三者面談のときに、大学行かずに弟子入りしたいって言ったら猛反対。あれは大失敗だったな。大学は、ひとり暮しするなら教育学部しか許さない! みたいになっちゃって」
「え? それって、大学生になって親元を離れたんだから、勝手に落語を始めればよかったんじゃないの?」
「あー、もう。そんなのわかってるよ」
唯川さんは目を三角にして、唇をとんがらせた。
「わかってたけど、いざ、挑戦できる環境になったら、弟子入りをお願いしにいく勇気が生まれなくなっちゃって。怖かったんだろうね。そもそも、人前で話すのだって苦手だし。だから、まずはそれに慣れようって思って、高校生のときはギター・マンドリンクラブだったし、ピアノは習わされていたから、ミュージシャンやって、人前で話す練習してたの。まあ、それも、逃げてただけなんだけどね」
支配人が僕に生ビールを持ってくる。支配人は、微笑んでいた。でも、唯川さんは、そのことにも気づいていないようだった。
「それでね、小鳥さん、亡くなっちゃったでしょう?」
唯川さんは、とても悲しそうな顔をする。
「なんかもう、からっぽになっちゃってね。私は、何をしていたのだろうって。一日中歩き回ったあとで、そうそう、その日はリュウ君のライブの手伝いがあって、ここに来たんだよ。彼のライブ、聴いたんだよね? すごいでしょ。私なんかと大違い。本気で音楽をしているんだよ。そしたら、また情けなくなってきちゃって。父もさ、本気で教師をしていると思うんだよ。私は、自らやりたいことを決めているのか、なんだか自信がなくなってきちゃって。それで、勇気っていうのは気まぐれなものだよね。思い切って、彼女のいた落語協会に出向いてみたの」
「え? 弟子入りしにいったってこと?」
「そう。そしたら、この場でやってみろって言われて。でも、私は自分でやったことがなかったから、できるわけもないよね。想いだけはほんとうなんですって言ったら、それは、行動が伴って初めて想いがあるって言うんだって怒られて、いま何してるのと聞かれて、大学生で四月から教員すると真面目に答えちゃってさ。それでどうやって弟子入りするんだってね。じゃあ大学を辞めて就職しなければ、弟子入りさせてもらえますかって聞いたらね、『小鳥さんが亡くなったタイミングで、いままでなんも行動していなかった女がたくさんやってきて大迷惑だ!』って言われて。もう一緒にしないでよって思ったけど、でも一緒なんだよなあって気づいちゃってさ。そしたらね、もうどうしていいかわからなくなっちゃったの。ちょっと、笑わないって約束だったじゃない」
僕は笑わずにはいられなかった。唯川さんが、こんなにも喋る人だなんて、まったく知らなかったから。
「それならさ、一ついいことを思いついたんだけど」
僕の提案を、支配人も聞いていたらしく、カウンターから「大賛成!」と大きな声が聞こえてきた。唯川さんは顔を真っ赤にしながら、それを冷ますかのように水を飲み、ナポリタンを口にほおばった。
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