第11話

 お店は静けさに包まれていて、同じお店とは思えなかった。店内はやや暗めであり、テーブルがいくつか用意されていて、ジャズの音楽が流れていた。支配人は笑顔で僕たちを迎えてくれた。そして、

「いらっしゃい」と言った。

「あ、あの……」と僕が声を漏らすと、

「奥の席に座ってくれ。カウンターじゃ話しにくいだろう」と言った。僕は唯川さんの向かいに座った。僕はまだこの状況を整理できずにいた。

 支配人は僕たちに飲みものを聞きにきた。僕は生ビールを、唯川さんはジントニックを注文した。

 支配人が席から離れるとすぐに、

「話したいことって、何?」

 と唯川さんは言った。

 話したいこと――、という言葉が頭をよぎったあと、頭の中が真っ白になった。

 唯川さんは、僕を怒っているわけでもなく、せかしているわけでもなく、純粋に、言葉通りの意味で質問をしているようだった。

 僕はばれないように息を整えて、唯川さんに伝えようと決めていた言葉を必死に思い出した。僕にはリュウくんに会いに行った行為に後ろめたさがあったし、ライブカフェの前で待ち伏せして会ってほしいということも、なんだか卑怯な気がしてずいぶんと悩んでいた。それでも、二つの想いを伝えようと、心に誓って家を出たじゃないか。その想いをいまこそ伝えるのだ。

 いつのまにか、呼吸は小刻みになっていた。支配人が飲みものを持ってきた。支配人にお礼を言うと、彼はすぐに離れていった。僕は唯川さんと目が合う。

 話し始めようとするとするが、なかなか言葉として出てこない。僕の都合で、お別れ会を延期させてしまったことが頭をよぎる。あとで謝らなければ。ていうか、どうしてこうやって場を設けてくれているのだろう。ひょっとして? いやいや、だからいまはこんなことを考えている場合じゃないのに――。

「ねえ、乾杯、しない?」

 唯川さんはグラスを持ったまま、こちらを見つめてきた。

「あ、」と僕が声を漏らすと、唯川さんは僕にグラスを近づけてきた。僕は慌ててジョッキを手に取った。カチンと、小さく音が響いた。

 終始、唯川さんのペースだった。いま、僕は助け舟を出されたのだろうか。これ以上、甘えるわけにはいかない。僕は覚悟を決めた。

「あの、二つ話したいことがあって、」

 そう切り出すと、唯川さんは小さくうなずいた。どちらを先に言うかは、決めてきた。決めてこないと、きっと何も出てこなくなるだろうと思っていたから。僕はカバンの中から小包を取り出して、それを手渡した。

「本当は、ゼミのお疲れ様会の時に渡そうと思ってたんだけど。すごい遅れちゃったけど、いちおう、誕生日プレゼント」

 唯川さんは、それを受け取った。

「マカロンなんだけどね。すごく美味しいらしいから。唯川さんお菓子好きだって言ってたから、どうかなと思って」

「マカロン?」

「あれ。ひょっとして嫌いだった?」

「マカロンて、何か知ってるの?」

「え? チョコレートじゃないの?」

 唯川さんは口を抑えて、クスクスと笑い始めた。しばらく笑っていて、そして、ごめんねと言いながらその包装紙を裏返した。

「賞味期限、とっくに過ぎてるよ」

「え!?」

 僕は慌ててその包装紙をみると、賞味期限は、年内であった。僕はこれ以上ないくらい顔が赤くなっていたと思う。ごめんというのが精一杯だった。

 僕が落ち着くのを、唯川さんは、待っていてくれているようだった。僕は小さく深呼吸してからビールを飲んだ。そして、言葉を紡いだ。

「去年の、唯川さんの誕生日のときも、伝えたんだけど、あのときから、気持ちはかわってなくて……、」

 ああ、ついに言うのだな、と思った。客観的に、自分を捉えているのがわかる。

「唯川さんが好きだ」

 僕は自分の声をしっかりと受け入れる。

 唯川さんは僕の言葉で、少しだけ頬を赤らめたように思えた。これでも、いままでで一番まともな告白だったように思う。一回目はライブ終演後に勢いで、二回目は薔薇の花束を目の前にかなり引かれながら。まあ、三回目も、賞味期限切れのお菓子を渡したあとなのだけれど。

「どうして?」と唯川さんは言った。

 僕がうまく答えることが出来ずにいると、

「どうして、ずっと好きでいてくれるのかなと思って」と付け足した。

「そんなの、理由なんてないよ」と僕は言った。

「どうして好きかなんて、わからないよ」と続けた。

 唯川さんは、その僕の言葉に、小さく頷いているようだった。

「もう一つの話は、何?」と唯川さんは言った。

「それは、」と僕は言いかけて、もう一つ目の話題は終わりなのかと、心が苦しくなる。それでも、僕は、言わなければならないと、テーブルの下に隠れている拳を握りしめた。

「先生をやめてまでやろうとしたことを、どうしてあきらめちゃったの? なんだか、納得できないよ」

 僕はずいぶんと声が大きくなってしまった。

 唯川さんは、少しだけ視線を落とした。

「昨日リュウ君のライブを聴いてさ。唯川さんが、どうしてあそこまで真剣に勉強を頑張ってきたのか、すごくよくわかったよ。先生って、素晴らしい職業なんだね。でも、それ以上にやりたいことがあるなら、やってみればいいのに。いや、もちろん自分で決めて、やっぱり先生をするって言うんならいいんだけどさ。なんか、気まぐれで大人に迷惑かけてみましたと言ってたじゃんか。どうしてウソつくのかなあって、あれは、正直すごい腹が立ったよ」

 唯川さんは僕のその言葉を聞いて、「そういえば、怒っていたね」と言った。そう言ったきり、唯川さんは黙ってしまった。強く言いすぎてしまっただろうか。

「音楽なら、別に働きながらすればいいんじゃないの? すごく上手だと思ったし、音楽活動で生きていく人生は確かにすごいけど、趣味として続けたっていいじゃない。地元に帰ったって、唯川さんならまた新しいファンができるはずなのに」

「違うよ」

「違わないって」

「そうじゃなくて」

 明らかに唯川さんの表情は、情けなく、弱々しくなった。さっきまでの僕は、きっとこんな顔をしていたのだろう。

「音楽じゃないってこと?」

 唯川さんは、うなずいた。

 そして、僕を少し上目遣いで見上げた。

「笑わないでね」と唯川さんは言った。

 僕は唯川さんを見つめた。

「落語家」

 僕はまばたきを二回した。

「落語家に、ずっと昔からなりたかったの」

 唯川さんはそう言い終わると、グラスの中の氷が溶けて小さく響いた。

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