第10話

 卒業式当日の朝、僕はゆっくりとシャワーを浴びた。間に合うぎりぎりの時間に家を出て、カバンの中身をもう一度チェックした。小包が入っていることを確認して、僕は大学を目指した。

 会場の体育館に向かうと、もう大勢の学生が集まっていた。後方の席に座ったけれど、まだ席はずいぶんと空いていた。大学の卒業式とはこんなものなのだろう。それでも、保護者らしき人たちも多くいて、彼らはカメラを掲げて、我が子の様子を遠くから見守っているようだった。

 僕は初めて存在を知った学長の話を聞いたあと、歌ったこともない校歌をオーケストラ部の生伴奏にあわせて口ずさんでみた。式の進行中にもかかわらず、段上の人の話を聞いている学生はほとんどいなかった。隣に座っている学生たちはサークル仲間のようで、飲み会のあとにカラオケに行くのか、ボーリングに行くのか、それともショットバーにいくのかと、議論しながらつばを飛ばしていた。

 全体の式は三十分程度で終わり、そのあとは各教室にわかれて専攻ごとに卒業証書の授与式を行うようだった。

 僕は言われるがままに教室へと向かった。教室に入ると見慣れた顔が目に入ってくる。僕は後ろの席に座った。前のほうに座っていた高橋が僕の存在に気づき、手を上げた。僕はそれに小さく手を上げて応えた。

 唯川さんは、僕から見て右側に座っていた。袴姿の唯川さんは、とても綺麗に見えた。

 それぞれの教授が挨拶をして、一人一人呼ばれて、卒業証書を受け取りに行く。淡々と、卒業式は過ぎていった。最後に指導教授が代表して挨拶をした。いつもと異なり、真面目でコンパクトな挨拶だった。解散となったあと、高橋が近くに寄ってきてゼミのメンバーで集合写真を撮ろうと言ってきた。僕はうなずき、手分けをしてゼミ生に声をかけた。

 唯川さんの隣には、御両親がいた。わざわざ、この日のために都心まで出てきたのだろう。僕は唯川さんに、「みんなで写真を撮ろう」と言った。唯川さんは僕を見て、小さくうなずいた。

 指導教授を真ん中に、黒板の前で写真を撮った。代わる代わる、何枚も撮影した。まだ続くのかな、と思ったところであと一枚だと言われた。僕はそのフラッシュのたかれる方向を、じっと見つめていた。そのあと僕は指導教授にありがとうございましたと声をかけ、教室をあとにした。

 大学を出て駅のホームに降りたところで、高橋からメールが来ていることに気がついた。「いまどこにいるんだ?」という、シンプルなメールだった。僕はスマホをポケットの奥に突っ込んで、ちょうどホームに入ってきた各駅停車に乗り込んだ。


 日が暮れる時間になり、僕は、自動販売機の缶コーヒーを買って、車止めに腰を下ろした。

 あのときの、同じ光景が広がっている。

 僕の心拍数は、不思議と一定であった。腕時計を確認したあと顔をあげると、袴姿から着替えて、ラフな格好である唯川さんが立っていた。僕はゆっくりと立ち上がった。

 唯川さんは、すっと立っていて、姿勢のよさが際立って見えた。

 十分後から、唯川さんのお別れ会がライブカフェで行われる予定であった。支配人とリュウ君が主催していて、何名かのミュージシャンが参加するらしい。

 昨日、支配人からは君も参加すればいいと言われたけれど、さすがに頷くことはできなかった。

 その代わりに、僕はそのお別れ会の始まる十分前に、少しだけ時間が欲しいと、勇気を振りしぼってメールをしたのだ。

 もし、彼女が背を向けて階段を上がっていってしまったら、その姿が、唯川さんを見る人生で最後の瞬間になるのだろう。僕と唯川さんとの距離は道路を挟んで数メートルであるはずなのに、僕はその距離をうまく掴めなかった。そして、その距離を自分が縮めていいのか、うまく判断することができないでいた。

 一台の車が通り過ぎた。

 そのあいだ、視界から唯川さんが消えた。

 僕はその瞬間、突き動かすエネルギーが、身体の中から湧き上がった。気づいたときには、唯川さんに向かって歩き始めていた。

 唯川さんは、僕の方から視線を外すことなく、立ち止まったままだった。僕は、心のなかで、ありがとうと小さく呟いた。

「こんなところまで来ちゃってごめん」

 唯川さんは黙ったまま、僕を見上げた。

「ここで話すの、寒くない?」

 唯川さんの言葉は、僕がまったく予想していない言葉だった。

「お店で話そうか」

 そういうと、唯川さんは階段を上がっていった。

 僕は、階段を上りながら、「あれ? お別れ会は?」と言うのが精一杯だった。唯川さんは扉を開ける前に僕の方を振り向き、

「延期してもらったから大丈夫」と言った。

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