第7話

 ワンマンライブの会場までは僕の家から三十分程度だが、僕が家を出たのは、ライブの始まる二時間も前であった。僕はそのまま真っ直ぐに、ライブ会場へと足を運んだ。

 到着して階段の入口から二階を見上げた。狭い階段を駆け上がり扉を開けば、そこには異世界が広がっている。きっといまもそうなのだろう。

 自分の鼓動が聞こえてきた。まだ受付も設置されていないようだ。おそらくはリハーサルなどをしているのだろう。

 僕はこのあいだ座っていた駐車場の車止めに目を移した。

 あの日を思い出してみても、なんだか事実として捉えにくいような、そんな感覚があった。いまでも、うまく思い出せないのだ。僕はあの小さな石の上に、九十分間も座っていたことを。身体は家に置き忘れて、魂だけがあそこから動けなくなった亡霊のように固まっていたような、そんな気がするのだ。

 右手で持っている論文集の入ったエコバッグを持ち直し、それを抱きかかえた。再び、二階に続く暗闇を眺めてみる。

 卒論が提出されていると知ったら、彼女はどんな顔をするのだろうか。一大決心をして、卒業しないと決めたのにもかかわらず、周りの大人の都合で元のレールに戻されてしまったと知ったなら。

 僕は大きく息を吐いたあと、その場所をあとにした。


 僕が再び会場にやってきたのは開演の直前で、階段の入口には、唯川さんのライブを知らせる手書きの看板が張り出されていた。

 そして、その看板に書かれた文字を僕は三回も読み直した。

 ミュージシャンを目指すために中退する、という僕の推理は一瞬で否定されたわけだ。それでも、きっと本気で活動してきたのであろう、開演直前に駆け込んでくるお客らしき人たちが僕を横目に階段を登っていった。

 僕もその姿を追いかけるように階段を登り、お金を払い終えると、その扉はスタッフにより開かれた。

 アコースティックギターを抱えた唯川さんはステージの真ん中でマイクの位置を調整していて、隣にいるスタッフになにかを小声で伝えているようだった。立ったままの観客が多いせいで、唯川さんの姿を捉えようとする僕の視線は幾度も遮られた。そんなところも、初めて見に来たときと同じだった。そう思うと、鼓動の加速がまたとめどなくやってきた。僕はあの時の行動をなぞるように、カウンターで生ビールをもらい、そして入口近くまで戻り、そして少しだけ背伸びをしてみた。

 ほっとする。この場所は、唯川さんにばれずに見ることのできるポイントのままであった。

「初のワンマンライブ、きてくれてありがとう!」

 唯川さんの声が響く。透き通っていて、とても力強い。

「そして、いままで、ありがとう」と言った。その声は、少しだけ小さくなった。

 泣くの早過ぎだぞ! とちゃちゃが入る。それを、笑いながら否定する。そんなやり取りがされてから、最初の曲が始まった。

 入口の看板に書かれていた、「ラスト・ライブ」という文字を思い出す。そのラストという文字にふさわしい、一つ一つの曲を大切にしたライブが進んでいく。

 最初のライブでは二曲しか演奏しなかったけれど、今回はバラードやアップテンポの曲など、数多くのオリジナル曲を演奏していて、ノリのいい曲のサビでは観客に歌うように投げかけていた。僕は小さな声で、彼女の歌を口ずさんだ。いつもは一つに結んでいる髪は下ろされていて、マイクを握り直すたび、静かに揺れていた。

 最後の曲を歌い終えて、アンコールが起きた。僕は、そのコールに合わせて、両手を叩いた。しばらくして、潮が引くように静かになる。

「みなさん、今日はありがとう!」

 会場いっぱいに拍手が鳴り響く。

「人前で話すのが苦手だった私が、こうやって歌をうたってこられたのは、みなさんのおかげだと思っています。ありがとう」

 僕は拍手をしながら、彼女の初ステージを思い出していた。こっちが緊張してしまうほどであったのだ。

「このなかで、私の初ライブを聴いた人はいますか?」

 心臓が止まったかと思った。かろうじて目だけ動かすと、前方にいる男性が手を上げた。そこに唯川さんの視線が移り、僕は胸をなで下ろす。唯川さんはその人に向かって照れてみせた。

「こっちが緊張した!」

 と彼の声が飛ぶ。大きな笑い声が起きた。

「私が、MCで何を言ってたか、覚えてますよね?」

 その唯川さんの言葉に、彼は「何も言えてなかった!」と瞬時に答える。

「うそう! どうして歌うことにしたのか、丁寧に、真面目に、長々と解説したじゃないですか。恥ずかしい! そんなMCって、ないですよね」

「いやいや、緊張して何言ってんのか全然!」

 再び笑いが起きた。

「まだ俺聞いてないぞ」と誰かが言った。同じような言葉を、何人かが続けた。唯川さんは、嬉しそうに手を振って否定をする。

「言いませんよ。恥ずかしいですから。いや、私は、シンガーソングライターさせてもらってますから。歌で、ちゃんと届けたいと思います。最初に作った曲に、その思いがこもっています。聴いてください。いままで、ありがとう。最後の曲いきます、good times dance!」

 


 全てを脱ぎ捨て走りだそう 風邪は引かないように

 仲間と手をとり 踊りだそう 人目は気にせぬように


 いま 目の前に壁があり

 いま 息すら出来ないならば

 いま このときこそ思い出そう


 good times dance good times dance

 good times dance ……

 

 僕が二年前に、初めて聴いた曲だった。彼女の歌う姿が、見事に過去と重なりあって、僕の心に押し寄せてきた。歌い終わった彼女の姿に、僕は誰よりも長く、拍手をし続けた。


 あたりが明るくなり、会場の人たちが帰り始める。僕の心臓の鼓動は、危険を知らせるサイレンのようにけたたましい。僕は入口そばからカウンターへと移動して、遠くからファンと交流する唯川さんを見つめた。

 事前に決めておいたはずの内容は、すっかりとどこかに吹き飛んでしまった。僕はエコバッグを身体の後ろに隠した。これを、今日渡すわけにはいかないと思った。この場に不必要だ。じゃあ、何を話せばいいんだ?

 僕の後方から唯川さんを呼ぶ声が聞こえ、唯川さんがこちらを見た。僕は彼女の方を向いていたから、一瞬見つめ合うような状態となる。彼女は視線をさっと逸らして、僕の方へと向かってきた。僕の横に来て、カウンターに両腕をかけて、そしてこの店の支配人らしき人と話し始めた。僕との距離はわずか数センチで、あともうちょっとで肩に触れてしまうほどだった。僕は微動だにできない。

 彼女は話を終えると、僕の方を向いてきた。

「す、すごくよかったよ」

 僕がそう言うと、唯川さんは少しだけ間をおいてから、

「ありがとう」と小さく頷きながら言った。

 唯川さんは僕の右手を見ていた。僕も思わずエコバッグを見つめる。

「このあいだ、ごめんね」と唯川さんは言った。

 予想外の言葉に、僕は何も言えず、不自然なほどの空白ができる。

「あ、もう、知ってるんだ」

 なんとか絞り出した僕の声は、どこか間の抜けたように響いた。僕は言葉を続けた。

「先生が、唯川さんの御両親に伝えたらしいね。その、卒論を代わりに提出したってこと」

 彼女は、僕をずっと見つめていた。

「なんか、どうなのかなあと僕は思ったけど」

「うーん」

 と言い、唯川さんは視線を少しだけ逸らした。

「それもらっていいの?」

「え?」

「私に渡すつもりで、持ってきたんでしょ」

「そうだけど……」

 僕はそのエコバッグを、唯川さんに手渡した。

「僕はてっきり、すごい怒っているんだと思ったんだけど」

「私が?」

「どうして?」

 唯川さんは、言葉を短く続けた。

「だって、そこまでして、何かしたいことがあったんだよね?」

 彼女は少しだけ動きを止めたあと、小さく首を振った。

「別に、ないよ。ちょっと、周りの大人に迷惑かけたくなっただけ。ずっと、優等生してきたからさ。でも、やっぱり大人に迷惑かけちゃだめだね。四月から、私たち社会人だしね。それに、」

 唯川さんはそこまで言うと、呼び止められた知人に駆け寄っていき、振り向いて、僕に手を上げた。そして小さく笑みを浮かべた。


 僕は、そのライブカフェをあとにした。

 電車に乗る気がおきず、僕は家まで歩いて帰った。

 今日、自然に唯川さんと話すことができた。聴きにきたことを、ありがとうと言ってくれた。僕は、決して嫌われてはいないみたいだ。正直なところ、それはとても嬉しかった。

 でも――。

 通り沿いに並んだゴミ箱が目に入り、蹴飛ばしてやろうかと思ったが、足を振りかぶることすら億劫だった。唯川さんの、最後の笑顔を思い出す。

 どうして、ウソをつくのだろう。

「別に、ないよ」、だって? 

 そんなわけあるもんか! 

 僕は、悶々としながら夜の街を歩き続けた。

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