第8話

 サークルに入っていなかった僕は、学生最後の春休みを特に予定なく過ごした。二月になって、インターネットで卒業単位を無事取り終えていることを知った。卒論の成績は、Bだった。いままでで一番力をいれて取り組んだ勉強だったにもかかわらず、Aを取れていないことが、なんだか自分らしいようにも思えた。

 アルバイトももうやめてしまい、僕はほんとうに暇をもてあましていて、レンタルビデオ屋で映画と漫画を借りてきては返すことを繰りかえした。ときどき、近くの川沿いをランニングしたりもした。

 あのあと、唯川さんがどうしているのかは、まったく知るよしもなかった。メールアドレスは知っているが、使ったことはなかった。唯川さんのSNSは、ここ一年以上更新されていない。

 僕が唯川さんの情報を知るためのアプローチ先は、指導教授くらいだろう。しかし、指導教授のところに行く理由がなかった。成績が、どうしてAではないのか、これを理由にすれば可能かもしれないが、さすがにそれは抵抗があった。

 僕は久しぶりに論文集を本棚から取り出して、パラパラと開いてみた。そうしていると、指導教授を訪問する理由を、ようやく見つけることができた。


 大学に行くのはほんとうに久しぶりで、門の先にある草花や誰も座っていないベンチ、手入れのあまり行き届いていないガラス窓までが新鮮なものに映り、それらは通っている大学というよりも、卒業した母校であるように感じられた。キャンパスを歩く学生は、僕となんら変わりはないというのに、まったく別の存在であるかのように思えた。

 僕は指導教授の部屋を訪ねて、唯川さんに渡したと伝えると、すぐに一冊用意してくれた。指導教授はそのときの様子を聞いてこなかったし、僕からも語りはしなかった。穏便に済んだことに、どうやら安堵しているようだった。

 僕は結局、なんの情報も得られぬまま、大学をあとにした。電車に乗らず、正門から坂を下る。

 高橋に、論文集をドアにかけておくとメールを打った。彼の家は大学から歩いて五分と近場であり、ゼミのメンバーで鍋パーティーをしたことがあったので道順も覚えていた。

 あの日、珍しく唯川さんは参加していて、僕はみんなの計らいで隣に座った。このとき、彼女のカバンの内側に、深夜ラジオの景品バッチを発見した。お世辞にも教育的とはいえない、むしろ下ネタばかりの深夜番組を聞いていることも驚いたが、そのネタを投稿して抽選で当たるバッジを、大切にカバンにつけていることに驚愕した。僕がそのラジオを聞いていると伝えると、唯川さんは恥ずかしそうに、面白いよね、と言った。唯川さんは、すぐに話題を変えようと、僕にお酒を進めてきた。僕は空気を読んでしまい、結局、その話を掘り下げることができなかった。あのときはほんとうに後悔した。こんな風に一喜一憂していた大学生活は、あっというまに遠い世界となってしまうのだろうか。

 僕が高橋の家に着くと、自分の部屋の前で、ずいぶんと具合の悪そうな表情で立っていた。いつもワックスできまっている髪型は見る影もなかった。

「寝ててよかったのに」と僕は言った。

「めちゃくちゃ気持ちわりい……」

 また、飲みすぎたようだ。クラブでナンパでもしていたのだろう。高橋は、社会人になっても何も変わらないのかもしれないな、と思った。

「どうしてメールの返事くれなかったんだよ」と高橋は言った。

「なんのこと?」

「それ」

 高橋は僕のエコバッグを指さした。

「唯川さんに渡したってことだよな。で、どうだったんだよ」

 高橋はそう言い、手に持ったペットボトルのミネラルウォーターを流し込んだ。そうか、何も知らないんだよな、と思った。では、自分は何を知っているのだろうか。

「うーん。まあ、ちょっとね」

「なんだよ。それじゃわからないぞ」

 ただでさえ険しい高橋の顔は、さらに深みを増す。

「まだ、気持ちは伝えられてないよ」

「プレゼントは?」

「家にある」

「なんだよー。もったいねえな」

 がっかりした表情をした高橋を見て、僕は思わず笑ってしまった。

「あんだけ人をバカにしておいて、よくそんなこと言えるよな。とりあえず、お疲れ様会に来なかった理由は、僕に告られるのが嫌だったわけではなかったから」

 ああ、と言ったあと、僕の様子を覗き込んできた。

「ひょっとして、気にしてた?」

「ああ、かなりムカついたね」

 それは悪かったと、灰色のトレーナーに手を突っ込んで、脇のあたりをボリボリとかいた。

「謝ってる態度じゃないなあ」

「お前、あれだぞ。あれ、冗談だぞ。あーでもしなきゃ、唯川さんのところに行かなそうだって思ってけしかけただけなんだから。あのとき、なんかめっちゃ動揺してたじゃん。理由を俺はよくしらねえけどさ」

 でも、悪かったな。と高橋は反省をまた口にした。その言葉は、信用できるとも言えるし、帳尻を合わせているようにも思えた。

「そうだったのか」

「うーん」

 高橋は唸るように返事をして、小さくため息をついた。

「なんだよ」

 高橋は深呼吸をするように息を吸って吐き出し、そして僕の目を見た。

「俺も、唯川さんいいなと思ってたんだよな」

 僕は突然の告白に、目を丸くしてしまう。

「でも、ひとりでライブに行くのはちょっと勇気がなくて、お前を誘ったんだ。そしたら、いきなりそこで告白すんだもん。ありゃ、反則だ」

 高橋の声のトーンは低いままで、淡々と言った。怒っているわけではないが、笑ってもいなかった。

「で、あのあと俺は、デートに誘ったり、ライブに行ってみたり、少し頑張ってみたんだけどね。ぜーんぜん、見込みがないからやめっちゃった。おかげで、俺はお前と違って童貞じゃねーし、たくさん女の子と遊んだし、まあ、それはそれでいいもんだったよ」

「何が言いたいんだよ。自慢か?」

「ちげーよ」

 高橋は、今度は髪の毛をボリボリとかいた。

「俺の分まで頑張れなんていう気はないけどさ、」

 高橋はそこまでいって、まあ頑張れよと付け足して、部屋の中に戻っていった。


 僕は高橋と別れたあと、久しぶりに街に出た。特にあてもなく古着屋をめぐり、ファーストフードで遅い昼ご飯を食べて、再び街を歩いた。

 僕は今日の高橋の告白を思い出していた。

 その告白と、重なり合うような光景が目の前に現れた。

 僕は、とっさに目をそらし、そのまま歩き続けた。

 数秒後、僕は立ち止まり、後ろを振り向いた。

 髪の長いギターを背負った少年は、楽しそうに、唯川さんと肩を並べて歩いている。

 久しぶりに唯川さんを見た喜びなどはなく、とたんに辺りの空気が薄くなったようだった。

 前から歩いてきたスーツ姿の人がぶつかってきて、何やら小言を言われた。僕は力なく頭を下げたあと、僕はそのまま家に帰った。電気はつけず、上着を床にほっぽって、ジーパンを脱いで代わりに落ちていたジャージを履き、そしてベッドの布団にくるまった。


 唯川さんに、彼氏がいると考えたことがなかったかと言われると、それはあった。もちろん髪の長いあの少年が彼氏であるかなんてまったくわからないわけだけど、敗北感は確かに存在していた。

 彼は、きっと、唯川さんの悩みを知っているだろう。

 僕はスマホを取り出して、ライブカフェ「Rootz」のホームページを立ち上げた。すぐに、髪の長い少年の情報は見つかった。リュウという名前で活動している、シンガーソングライターだった。彼に会いに行けば、ひょっとしたら唯川さんの秘密に近づけるのかもしれない。でも、そんなことをして、いったい何になるのだろう。

 僕はスマホを枕元に置いて、布団にもう一度くるまった。そして、眠りがやってくるのを静かに待ったが、それはいつまでたってもやってこなかった。


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