第6話

 次の日の朝、なかなか寝付けなかったにもかかわらず、僕はずいぶんとはやくに目が覚めた。カーテンを開けると、眩しい光が強く射してくる。僕はいつものようにインスタントコーヒーをつくり、そして椅子に座る。パソコンの電源はつけずに、僕は机の上に論文集を開いた。

 そこには、唯川さんの論文がしっかりと掲載されている。僕たちは社会学を学ぶゼミにいて、唯川さんは四月から地元の中学校教員をするため教育分野の卒論を書いていた。僕を指導する際、教授はよく唯川さんを褒めていた。地方の自治体では、新卒で教員採用試験に合格することは珍しいらしい。彼女の卒論の第一章には、既往の研究を詳細に調べ上げた形跡があり、参考文献の数は僕のそれの三倍近くあった。やっつけで書いたわけではないと、すぐに理解することができた。僕は論文集を閉じた。ぱたんと、静かに音が響いた。

 この論文集に、何か理由があることは間違いがなさそうだった。事の真相を知りたければ、教授を訪ねればいい。真相に触れずに過ごすことだって、もちろん可能であった。このまま何もしなければいいだけの話だ。

 しかし、このままで終わっていいのだろうか。唯川さんの別れ際の瞳、あれは明らかに色彩を失ったものだった。

 自分が恋をした相手を助けたいから行動する。理由は、それでいいはずだ。それでも僕は、家から出るのにずいぶんと時間がかかり、大学に着いたのはもう夕方近くであった。


 部屋のドアをノックすると、声が聞こえてきた。昨日は夜遅くまで飲み歩いたのだろうに、ほんとうに勤勉な教授であった。実際、論文集を作成し配る生徒思いの教授は彼くらいであり、その面倒見のよさが好きでこのゼミを選んだようなものだった。

 僕が入ると、教授は僕の名前を呼び、そして入口近くにある机の椅子に座りなさいと言った。そして、

「唯川さんには、昨日会ったのかい?」と教授は続けた。

 あまりの先制攻撃に、僕はあっけに取られた。

「なんで知ってるんですか」

「高橋くんが、教えてくれたよ」

 みんなには黙っておくと言っていた高橋の表情を思い出す。それを信じていたわけではないけれど、まさか教授にまで言うとは。

 僕は高橋のことを無理やり心の奥に押し込んだ。そして、信じがたい仮説を思い切って口にした。

「唯川さんは、その、論文を提出していなかったんですか?」

 そう言うと、教授は唇を巻き込み、鼻から息をゆっくりと吐き出した。吐き出すだけで、僕のその質問に対する答えはなかなかやってこない。なんといっていいのか、悩んでいるようであった。

「僕が論文集を渡そうとしたら、『読みたくない』って。僕が卒論を提出したときに、唯川さんのチェック欄が空欄だったような気もして。それに、あの日の彼女は様子がおかしかったし……」

 ここまで言い終わると、あの日は教授も落ち着きなく焦っていたことを思い出した。

 教授はうーんというだけで、なかなか言葉が続かないが、僕の発言を否定しなかった。僕の心拍数はだんだんと上がってきた。唯川さんは論文を提出していないのだ。そんなことってあるのか。僕はまだ信じることができずにいた。

「僕もすごく驚いてね。君にこの話をしていいのかわからないんだけどさ、唯川さんが卒論を提出しないと言ってきたのは締切の当日でね。そうそう、君が僕の部屋にくる、三十分くらい前だったね」

「出さないって、わざわざ言いにきたんですか」

 僕はその行動に、首をかしげるしかなかった。彼女は、昨日のお疲れ様会も欠席すると、わざわざ連絡してきているのだ。

「大変お世話になったのに、申し訳ないっていいに来たんだよね。どうも、進路で御両親と揉めたようだね。君も知っていると思うけど、唯川さんの御両親は共に教員をしていて、彼女も同じ自治体の教員になると決まっていただろう。どうもそれが、嫌になったと言っていたよ」

「じゃあ、先生にならないってことですか」

 うーんと、教授はため息混じりの声を出した。そして、眉をひそめた。

「彼女らしくないだろう? たくさんの人に迷惑をかけるなんてさ。僕はね、一時的な迷いだと思うんだよ。だから、ほんとうはよくないんだけど、以前に送ってもらっていた卒論を僕の方で提出してさ。そのことは唯川さんの御両親には伝えてあるんだけど、君の話によると、まだ本人には伝わっていないようだね。御両親も、やはり唯川さんにはいままで通り教員の道に入ってもらいたいみたいだしねえ。君からもさ、このことを彼女に伝えてあげてくれないかな?」

「ぼ、僕がですか?」

「こうやってさ、勝手にお節介を焼くのはよくないとは思っているんだよ。だから、本人が望めば、僕は卒論に不可の成績をつけるよ。彼女がどうしてもやりたいことがあるっていうなら、応援しないわけではないんだけどね」

 僕が黙っていると、教授は少し目を見開いた。

「いきなり、こんなお願いをされても困るか。悪かったね。いまのことは忘れてくれていいから。ただ、もし会う機会があったら、僕のところに来いって言ってたと伝えてくれよ。それだけでいいからさ」

 僕は頭を下げて、指導教授の部屋をあとにした。なんだか、遠い世界の話をされている気分だった。僕は、唯川さんのことをどれだけ知っているのだろう。

僕は歩きながら「MAHOKO」とスマホに入力して、唯川さんのライブ情報を調べた。次のライブは、一週間後の夕方で、そこには初のワンマンライブと書かれていた。僕は、その画面をブックマークして、ジャケットの中にスマホを押し込んだ。

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