第5話

 唯川さんの出演するライブは何名かのミュージシャンたちが三十分ごとに受け持ちながらおこなうスタイルであり、僕が会場に着くと、もう唯川さんの出番は終わっている時刻だった。そのライブ会場は、僕が最初に見に来た場所と同じ会場であり、当時を思い出さないわけにはいかなかった。雑居ビルの階段を上がった二階にあるこの「Rootz」というライブカフェは、三十人入れば超満員の小さな小さなハコだった。階段を登ると扉の前に、受付をしている若い女性がいた。僕は唯川さんの出番を聞いてみると、彼女はとても申し訳なさそうな顔をして、終わってしまったと言った。

 僕は彼女にお礼を言って、階段を下りた。

 道路に出て、僕は目の前にある駐車場の車止めに腰を下ろした。時計をみると、ライブが終わるまであと一時間近くもあった。僕は立ち上がり自動販売機でコーヒーを買って、再びその車止めに座った。幸い風は吹いていないけれど、細胞一つ一つが凍りつきそうな寒さだった。僕は缶で両手を温めながら、大して美味しくもないコーヒーをすすった。

 時が経つスピードは残酷で、進むスピードは驚くほど遅く、僕の心は傷ついていった。凍えるような寒さで、沸騰していた心の熱さもどこかへいってしまったようだった。

 僕は何度か立ち上がり、階段の手前まで足を進めた。そしてその場所で、論文集とエコバッグだけを受付の彼女に渡す姿を想像した。そのまま帰ることも思い描いた。一番想像したのは、唯川さんが階段から下りてきて、その姿を、その車止めに座ったままの状態で、見届ける僕自身の姿だった。

 ライブ終了の時間が過ぎても、なかなか人は現れなかった。終演時間から三十分を過ぎて、ようやく客らしき人たちが階段から下りてきた。僕の身体は冷え切って、酷い表情になっているのは間違いなさそうだった。楽しそうに談笑する声が響き渡り、それはしばらくして夜空に散っていった。ギターを背負った出演者らしき人も下りてきた。僕は座ったまま、目だけを動かして、唯川さんを探していた。

 唯川さんは、いつまでたっても現れなかった。

 見逃してしまったのだろうか。僕は立ち上がり、ゆっくりと階段に近づいていった。階段を見上げると、扉が開く音がした。

 笑い声と、お礼を言う声が響いた。僕は唾を飲み込んだ。ぐぐと、声にならない言葉が自分の口から漏れた。足が動かない。咄嗟にできたのは、エコバッグから小包を取り出すことだけだった。

 階段を鳴らす靴の音は、三段ほどを残して、ぴたりとやんだ。

 唯川さんの表情は、眉をひそめたものではなくて、切れ長の目をいつもより見開いたものだった。しばらくの沈黙のあと、先に声を発したのは唯川さんの方だった。

「どうしたの?」

 それは、どちらかというと、僕を心配する優しさを感じる声だった。

「今日、教授から論文集が配られたよ。だから、それを届けに来たんだよ」

 僕は小包を持った左手ではなくて、論文集の入ったエコバッグを持つ右手を差し出した。すると唯川さんは残りの階段を下りて、僕の目の前に立ち、そして見上げてきた。あと一歩進めば、ぶつかってしまう距離だった。視線をまっすぐに、僕を見つめていた。こんなに近くで彼女の顔をみるのは初めてだった。

「そんな酷いことをする人だとは思わなかった」

 僕は、唯川さんの言っている意味を理解できなかった。そんな酷いことをする人だとは、思わなかった、だって? 僕が反論を言おうとする前に、彼女の口が動く。

「私への当てつけなの?」

 当てつけだって? 何を言っているんだ?

「ほっといてくれたって、いいじゃない」

「ちょっと待ってよ。何を言っているのかわからないよ。たしかに、もう二度と見に来ないでくれって言われていたのに、それを破ってこの場にきたことは謝るよ。でも、この論文集を渡すにはここに来るしかないじゃないか」

 僕は早口になる。

「私が、その論文集を読みたいわけ、ないじゃんよ」

「どうしたの?」と、ギターを背負った髪の長い少年が言った。彼の存在に僕は全然気付かなかった。「なんでもないよ」と答えた唯川さんは、僕に背中を向けて駅の方へと歩いて行った。

 僕はその姿を見ながら、今日の出来事を思い出していた。

 お疲れ様会に来なかった理由は、どうやら僕のせいではなさそうだ。それはとても喜ばしいけれど、これがチャンス到来と、思うなんてできやしない。

 唯川さんは、論文集を読みたくないと言った。

 しかし、事務室で見たあのチェック表、あれは見間違えだったはずだ。手元の論文集には、しっかりと唯川さんの論文が掲載されている。

 僕はさっぱり意味がわからず、首をかしげながらその場をあとにした。そして、すっかり告白のタイミングを逸していたことに気づき、僕は呆然とするしかなかった。

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