私の望んだ
「いつになったら言う事聞くんだ?」
彼はそう言いながら水を張った洗面器に彼女の頭を押し付けた。
「がはッ……!」
彼女は死ぬ――と思った。
それと同時、彼女の頭は彼の掴んだ髪に引っ張られ水面から引き上げられた。
一瞬でも息を吸うことを許された彼女は口からありったけの酸素を吸い込む。
「ハッ……はッ、げホッ、げホッ!」
「まだやるつもりか? 俺の目が黒いうちは無駄なんだって」
「はっ、はは」
彼女は酸素を肺に送る動作を続けながら、殺されようとする瞬間とは思えない笑顔で笑い出した。長い前髪から雫を垂らし、その赤い目に水分を含み。涙が水道水か分からぬ目尻の一滴を彼女は掬う。
「まだ助けるんだもん、笑っちゃう」
「毎朝洗面器に顔面突っ込んで溺死しようとされたら誰だって助けるだろ」
「うんん、誰だって見捨てるって」
「そうかな、お前が可愛いから見捨てる男はいない」
「ははっ、死なせてよ、愛してもないくせに」
彼女はまた楽しそうに笑う。
「笑顔で捨てられた女みたいな台詞吐くのってさ、お芝居の監督も眉根を寄せるレベルだな」「ふふっ」
彼女は彼とのいつものやりとりに満足し、また洗面器に頭を入れた。
「やめろっつの」
彼は二度目、彼女の後頭部を鷲掴み、洗面器から持ち上げようとして彼女に阻まれ、力が余った勢いで頭を洗面器に押し付ける形となってしまった事を、不本意にながら繰り返した。
洗面器の中で泡を作り、彼女は笑っていた。
「出掛けようか」
「着替えんのはや」
彼女はものの数分で変身していた。白く氷のような色の髪にリボンを結びながら彼を誘う。水に濡れていた髪はドライヤーを掛けるのも一苦労な一メートル以上もの長さ、自慢の長髪から重みが抜けふわりと彼女を包んでいる。指先で摘み翻す白いスカートは、木漏れ日に揺れるカーテンのように舞う。
「お姫様みたい」
彼は率直な感想を述べた。
「人魚姫?」
「違う」
「じゃあ半魚人」
「いっきに可愛くなくなったな」
彼は頭の中で想像した肥えたモンスターと目の前の少女を見比べた。
彼女は誰が見ても可憐で愛らしいという感想を抱くだろう。お淑やかで大人しそうな外見、小柄で華奢な体、肌は白く、伏し目がちな瞳に白く長い睫の影が落ちる。薄幸そうな印象を与えるのは、彼女が今にも消えてしまいそうに透明だからだ。病気を患って余命少ない悲哀の少女たる、その儚げな顔は彼からしても腕に抱きしめ「消えるな!」と叫びたくなる程であった。
彼がお姫様、と感想を抱いたのは少しウェーブを描いた、床まで届く程の長い髪が原因かもしれない。ドレスを着飾ったお人形のお姫様。ショーウィンドウに並べられた陶器の肌の少女玩具が、彼の中で彼女と重なった。
「自殺志願者のお姫様か」
彼はぽつりと漏らした。
「王子様はだあれ?」
「俺。ではない」
「そんなんじゃモテないな」
彼女は意地悪そうな顔をして彼の手を引っ張った。
さあ、外へ出掛けよう。
そこでやりたい事をしよう、いつか死ぬのだから、今は好きなだけ楽しい事をして、楽しい思い出を作ろう。
※※※
"町"に着くと彼女は彼の手を引っ張って早足で駆け出した。彼は彼女の麦わら帽子の下に伸びる眩しいほどヒカリを反射する髪に目を細め後に続く。
「死にたいくせに楽しそうにしてますね!」
「今は楽しいからそれでいいの」
彼女は左右に商店の並ぶ石造りの道を人にぶつからないよう器用に走っていく、手を引かれる彼は彼女程身長も幅も小さくないので、たまに通行人にぶつかりそうになり、その度に謝り、はた迷惑な彼女を叱りたくなった。だが彼女に引かれ走る未来はなんだか期待でいっぱいで、怒りたいなんて気分は一瞬で綿毛のように飛んでいった。
町を抜けると目の前には海が広がった。真夏の朝日に輝き、波の音を立てる深い青はどこまでも透き通っていた。波打ち際が白い、砂浜に人の姿はなく、ゴミや流着した物の欠片もない。大切にされている美しい海辺は人の手によって守られていた。
彼女はさっそく裸足になり海へ飛び込んでいく。彼は柔らかい砂に足を踏みしめ彼女の子供のようなせっかちさに微笑んだ。彼女は素足に水が絡みつくと途端にきゃっと声を上げ、彼は更に微笑ましくなった。
彼は薄々感じ取っていた、だから彼女に近づいた。近づくと彼女は逃げた。殺人鬼と被害者の図のように、砂浜をじりじりと詰め寄る彼は彼女の白い手首に視線を定めた。
「私を殺すつもり?」
「何を言っているのですか?」と、彼は腕を伸ばす、するりと彼のその手を払い、彼女は彼から距離をとる。
「助けようとされるのは殺される事に等しいよ」
彼女は言葉で彼の足を止める。そして彼が思考した瞬間に海の方に走り出した。彼がしまった! と慌てた時には既に、彼女は頭まで楽しそうに水下に沈めていた。
「だめです――!」
彼と彼女の生活は異端だった。
彼女は学校に行っていないし、十四歳の少女である筈が、親元には居ない。それどころか、普段から一切外出しようとせず、偶に恣意的に立ち上がったかと思いきや水辺にのみ行きたがる。それ以外はインドア派だ、いや、ひきこもりだ。
近くの海だとか、水族館だとか。そういう所へは進んで外出しようとする。謎の恣意的衝動は突如彼女の中でパチンと弾け、彼に我儘を聞かせるのだ。
不憫な娘だ、と哀れむ気持ちは初期の内に消えた。一日中家の中で過ごし、若いうちから死にたがる。彼女の投げ捨てた生と自殺願望が諦念として二人の今を作り上げた。
この少女を、彼は引き取ったつもりも監禁しているつもりもない。少女は彼の妹として日常に紛れるようになった、それが少女の望みで、不登校で、家出娘で、死にたがりな彼女の選んだ十代の余生。
彼と彼女は彼の一人暮らしの一軒家で同棲している。ご近所さんには学校に行かない"妹"と何も改善しない"兄"として初めは遠巻きに悪口を言われていたものだが、やがて兄と妹のその世界がごく自然であるように、そこに彼らの普通が存在するように認める意識が芽生えてしまって、終いには二人が風当たりの悪さをものともしない当たり前を自分達もそうなのだと侵食され、協力的にまでなるよう至った。
今では義務教育も国民の義務も放棄した少女を心配して見に来る者や、真昼から外出していても平然と手を振ってくれる仲にまで進展した。歪な世界だった。
波の音が聞こえた。
彼は急いで海に飛び込み、泡の吹いた海面から彼女の体を掴み上げる。ざばーん! と勢いよく波が割れ、彼女の頭が塩水を弾け飛ばした。
「っぷはーッ、……っはは、また助けた」
「入水自殺も大概にしてください、私は貴方にそんなことしてほしくない」
「いや、だって私は死にたいんだから。泳げない人魚は死んでいるのと同じだよ?」
「それは、貴方はこの世界が詰まらないという事ですか?」
「詰まらないのは今に始まったことじゃないね」
「そうかもしれませんが」
「あの人に会いたい」
ふと、彼女が思慕の目を向けたのは彼の知らない男だった。彼女は学校にも行っていないのに、外にも出ようとしないに、どうして男が出来ているのだ?
一体何処で……、いや待て、まさか家にまで上がり込んで……
「あっ」
彼が気付いた時には彼女は綺麗に居なくなっていた、彼は呆れたように海の底に一直線に向かった。
二人は互いに濡れた服を絞り合った。水滴が砂に染み込む。もう逃さないぞと彼は彼女を抱き上げ連れ去る。残暑は未だ肌を焼き、玉の雫が頬に流れる。塩水の味がする唇を、彼女は舐めて、そして彼も彼女も浜辺から立ち去った。
「"ヒカリノアンナイニン"について今日も探す?」
家に帰ると彼女は着替え、新しいワンピースで最近世間を騒がせている殺人鬼を持ち出す。彼はテレビで取り上げられている(ほら今もニュースになってる)その殺人鬼に興味もないし、ましてや人を殺し必ず近くにヒカリを置いていく頭のイカれた犯罪者とお目にかかりたいとも思わない。近辺に出回っているというだけで巻き込まれないよう祈るのばかりなのに、彼女はヒカリノアンナイニンをいたく気に入っているようで彼としては厄介であった。
「今まで殺された人は五人なんだよ、殺され方は様々だけど、必ず刃物で致命傷を負わされ、かつどこか切断されている。腕、指、鼻、首。切り口は専門家も唸る程美しい切れ方なんだって。だからヒカリノアンナイニンは医学の知識がある人じゃないかって言われているね」
「私も医学を学ぶものですが、その知識を人の解体に使いたいとは、全く思いませんね」
「きっと綺麗なんだろうな、解体している時の彼は」
「どう綺麗なんですか?」
「そうだな……」
彼女は彼の唇に指先を当てる。
「きっと、こんな風に綺麗な人――」
彼は、彼女の瞳に映る人物に全く面白みを感じなかったし、笑えない冗談だなと思った。
ヒカリミレン 秋風 @cartagra00
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