第19話議論

 このエッセイについての議論ではありません。世間一般に見られる議論、あるいはSciFi作中における議論です。

 作中で議論すると、その都度の状況をサクサク説明なのか描写なのかできるので便利です。ただ、すぐに「説明的」と読者に思われますが。そのあたりは、慣れの問題なのでどうこういうことではないと思います。むちゃくちゃ説明的なのが、その作者に色にすらなるかもしれないし。

 そこで、ここで問題にするのは「議論の捉え方がおかしい」という場合です。

 某大手ネット書店で「議論に勝つ」とかで検索すると、まぁいくつか出てきますね。なかにはディベートと関連付けているものもあったり。なんでこんな間抜けな本が出るんでしょうね。

 ディベートはそういうゲームです。ちょっとあれな人には理解できないのかもしれませんが、ただのゲームです。そりゃゲームですから勝ち負けはあります。でもそれはゲームのルール上での話です。そのゲーム本番前こそが、実はディベートの目的と考えた方がいいです。どれだけ調べるかとか。

 なによりも、根本的に議論には勝ってはいけません。「正-反-合」とかありますが、猿頭が集まってもいくらかでもましな結論を得るために行なうのが議論です。正と反のどちらかが勝ったら、合に至る道筋が断たれ、「議論の意味がない」ことになります。


 さらに言うなら、「三人よれば文殊の知恵」という言葉があります。誰か「文殊の知恵」を知っている人っていますか? いたら解脱してる人でしょうか。そういう人との議論なら負けても充分すぎるほどに得るものがあるでようね。

 ですが、そうではないため、基本猿基準の議論になります。それに加えて、「議論に勝つ」というような考え方があるため、「勝ちたいアホウ」の声が大きくなり、「文殊の知恵」からはなおさら遠ざかることになります。

 三人で議論して、あなたが「いい結論が出た」と思ったなら、それは「あなたが三人の中で一番アホウ」だったからです。もしかしたら、結論にはあなたの意見とは違うものが少し入っているかもしれません。それは残り二人のどちらかがあなたより賢く、あなたにその人の意見を理解させるために胃潰瘍になるくらい辛抱強く議論に付き合ったからです。ですが、それはあなたにとっては不本意に捩じ込まれたものであり、あなたにとっては不本意なものでしょう。


 翻って、そういう議論や態度を作中に出すという方法があります。

 ただし、現実にある猿議論をそのまま作中に書くと、その部分が「ナンセンス文学」になります。ナンセンス・ジョークとかのナンセンスではなく(その意味もこっちから来ているのですが)、ナン-センスで、「意味を持たない」という意味です。一文、二文なら、まだいいでしょう。議論全体が、それも長い議論がナンセンス文学になっていると、読み手にとっては胃潰瘍ができるほどの訳のわからなさになります。全体がナンセンスで通してあるならそういうものとして読めるでしょう。ですが、他の箇所ではわかりやすいのに、その議論だけ「何なんだこれは」となっていると、どれほど苛つくかは想像できるでしょう。

 まぁ、あるいは、その議論は読まずに飛ばすかもしれませんが。

 読者がどっちの行動を取るにせよ、その議論の参加者が猿脳であることを示すのには効果的な方法でしょう。

 ただし、書き手が書いている最中に苛つきのあまりウッキーっとならなければですが。

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