第13話SciFiは冒険ではない
SciFiは冒険ではない。
これは、「絶望こそがSciFiである」や「一週間を書け。一週間だけを書け」、「絶望は一人の上にある」に書いたことと関係しますし、あるいはそれらから言えることでもあります。
冒険と言っても、ここでは広い幅で考えましょう。日常、青春、恋愛その他、だいたいのことは冒険であるとします。日常でもまったく同じことを繰り返す人はまずいないでしょう。なろうに投稿してる皆さんにとっては、執筆や投稿は日常だとしても、その執筆や投稿は、何からの意味で冒険でしょう。書いている事柄が面白いだろうかとか、読まれるだろうかとかptや感想が来るだろうかとか。
そして冒険とは、何らかの希望があることでもあります。「こうなるかもしれない」、「こうなったらいいなぁ」などです。
ここで、「SciFiは冒険である」とすると、矛盾が生じます。つまり、「絶望していない」ことになるからです。
手法として冒険を描くことはあるでしょう。ですが、それは手法としてです。
ヴェルヌやウェルズを見てみましょう。希望もありました。それと同じように絶望もありました。それはSciFiの開拓期の話です。そして、その希望や冒険が何をもたらしたでしょうか。パルプ・フィクションの時代であり、現在です。そして、この点から見ると、SciFiの先鋭化による読者離れも直接か間接かはわかりませんが、それによるものです。
あるいは現在においてはこのように言ってもいいかもしれません。世に溢れるSF(それが何であれ)との区別のためにも、SciFiは冒険ではないのです。
では、冒険ではないのだとしたら何なのでしょうか。それは思索や思弁です。ここで一つ言うなら、その思索や思弁は著者によるものではないことが望ましいという点です。もちろん、著者による思索や思弁は必要です。そうでなければ、作の構成もできないかもしれませんから。しかし、可能なら、読者に思索や思弁の種を植え付けることの方が重要です。作において思索や思弁が完結していたとしましょう。そうであれば、そういう思索や思弁が存在することを読者に示すのみです。「SFってなんなんだろう?」(http://ncode.syosetu.com/n0399co/) にこのようなことを引用しました。
* つねに根本的な違和感を、それが近未来の話であろうといつまでも余
韻が残る感動を、そして知的な、むしろ心地よいズレの感覚を供する
思索や思弁が完結しているのと、読者にその種を残すのと、どちらがこのような効果を期待できるでしょうか。
これは手法としての問題に限りません。科学もSciFiも問い続ける存在です。ならばこそ「問いこそが重要」なのです。問いがあるからこそ、答えは更新され、更新され続けるでしょう。
そして、問うことによって、答えとしての絶望とともに、問いがあること自体による絶望ももたらします。その問いも答えも、人間には限界があることを突き付けるからです。
もしかしたらその絶望を乗り越えることも可能かもしれません。しかし、その方法は、私に言わせれば人間的なものであり、世間的には非人間的なものでしょう。つまり、「全てを知った上で」辿り着くものだろうからです。この「全て」というのは比喩でもなんでもありません。文字通りあらゆる知識を指しています。一人の人間の脳には收まらないと考えられるかもしれません。ですが、收まるかどうかの話ではなく、收めなくてはならないのです。そこから人間の次の一歩が始まります。
その一歩を踏み出したくない、あるいは踏み出せないと考えるなら、SF(それが何であれ)で自家発電しててください。
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