第7話科学と技術とSciFiと

 この稿は、以下のものをベースにしています。


* 技術には思想が必要 ――SFを書くということ、あるいはあなたのSFは間違っている――

* 初出 Oct 05, 2015 @ http://ncode.syosetu.com/n3660cs/

* 科学技術と未来を見るとと

* 初出 Nov 29, 2015 @ http://ncode.syosetu.com/n6675cz/

* 宮沢弘の別人視点による自分レビュー

* 初出 Dec 10, 2015 @ http://ncode.syosetu.com/n1227da/

* コメント付き完結 Dec 24, 2015 @ http://ncode.syosetu.com/n1227da/


 この稿がうまく書けたら、「技術には思想が必要 ――SFを書くということ、あるいはあなたのSFは間違っている――」と「科学技術と未来を見るとと」は削除するかもしれません。

 これらを元に、科学と技術を知るということはどういうことなのかと、ガジェットについて述べようと思います。


 まず「自分レビュー」のこの箇所を見ましょう。


==BEGIN

ミ: Dec 24, 2015

ミ:実質的にどうあれ、不思議技術を排除しようと意識してはいます。舞台を

ミ:設定するために不思議技術を導入し、またそのことによって作をSFだとす

ミ:るものが多いように思います。舞台を設定するために不思議技術を導入し

ミ:たとしましょう。ですが、それは舞台です。では、その舞台で何が演じら

ミ:れるでしょうか? 恋愛であり、推理であり、ファンタジーであり、ホラー

ミ:であり、コメディーであり、冒険であり、学園であるでしょう。それらは

ミ:SFでしょうか? 断じて違うと言いましょう。それらはSFではなく、恋愛

ミ:であり、推理であり、ファンタジーであり、ホラーであり、コメディーで

ミ:あり、冒険であり、学園であるだけです。そのような理由から、それが出

ミ:来ているかどうかはともかく、不思議技術というだけでなく、舞台を設定

ミ:するだけのガジェットはできるだけ避けようと考えています。これはおそ

ミ:らく、ありもので済ましているというところにも通じるのでしょう。なお、

ミ:ありものについてですが、「未来を見せられた」というのは、「未来を見

ミ:た」のとは違うと考えています。見るのは簡単です。見せられるには、

ミ:「では、それは何なのか」を知らなければなりません。大昔にグラス型デ

ミ:バイスが研究された時、それは端末ですらなく、ただのディスプレイにす

ミ:ぎませんでした。それも当時にしても質の低いものでした。そのデバイス

ミ:を見たなら、それはただの低品質ディスプレイにすぎないでしょう。「で

ミ:は、それは何なのか」を知ると、それはグラス型デバイスですらなく、常

ミ:に隣にいるアシスタントだったのです。「未来を見せられた」というのは、

ミ:そういうことです。MethuselahとForeRunnerにおける経験についてですが、

ミ:それはMethuselahとForeRunnerにおける経験というよりも、それらを作ろ

ミ:うとした経験です。他にも作ったり、捨てたりしていたので。その点では、

ミ:多少限界を知っていると言えるかと思います。

==END


 ここで注目して欲しいのは、「未来を見せられた」という箇所です。ここで例に挙げているように、その時のグラス型デバイスは「ただの低品質なディスプレイ」に過ぎませんでした。ですが、それはAppleのNewtonなどとも合わさり、「グラス型デバイス」ですらない、「常に隣にいるアシスタント」として私たちは理解し、あるいは理解させられたのです。それは「ただの低品質なディスプレイ」を見たのとは異なることに説明はいらないでしょう。

 あるいはAppleのNewtonを見てみましょう。よくできたPDAでした。データベースの構造とかも秀逸でした。ですがスタンドアローンでの動作が基本でした。では、NewtonはNewtonであるに過ぎなかったのでしょうか。違います。「では、それは何なのか」を考えると、それはやはり「常に隣にいるアシスタント」でした。そして、Newtonにはモデムに接続できる通信カードがありました。さらにはそれらとは別の物として、すでに携帯電話がありました。そこからわかることはネット接続が常識になり、Newton個体が持つデータと機能がNewton個体からも、ネットワークを通じても活用されるというものでした。ただし、これは私の限界だったのですが、Newtonのようなものが主であり、ネットワークの向こうにあるものは従であろうと予想していました。

 これは技術に限りません。科学の理解も思想の理解も、それを見たのでは理解したことにはなりません。「では、それは何なのか」を知ってこそ、やっとかろうじて理解に手が届いたに過ぎません。

 そのような理解のためには、何もかもを知っていなければなりません。そして、それらの「何もかも」を知ることにも、「では、それは何なのか」を知ってこそ、やっとかろうじて理解に手が届くのです。

 グラスもまだ試作品が出ているのみであり、Newtonは普及と言うには遠く、かつ失なわれています。ですから、それらを例に挙げてもわかりにくいかもしれません。そこで、遡ってSONYの最初のWALKMANを考えてみましょう。WALKMANは電磁的記録を持ち歩きながら使うという思想を打ち出しました。この思想は、現在のスマホやタブレット、ノートPCが連なる思想です。当時、携帯電話(あるいは自動車電話)もありましたが、これはまだ通話という機能だけでした。加えて、普及していたわけではありません。存在を無視することはできませんが、広く知られたかという点で言えば、WALKMANをやはり挙げないわけにはいきません。

 その後は、あるいは概ね同時期には、HPやTIの電卓も無視することはできません。あるいはその他のポケコンと呼ばれていた物も無視できません。HPやTIの電卓はプログラムを書くことが可能であっても、やはり専門家のためのものでした。ポケコンもそれらの延長線上のものであるとともに、ある面では性能が劣化した部分も実はないではありません。いずれにせよ、専門家のためのものであり、あるいは物好きのためのものでした。

 続いて、やっとNewtonです。Newtonは持ち歩く計算機という思想とともに、SOUPスープと呼ばれるオブジェクト指向データベースによって、データ自身がその扱いを知っているために複数のアプリケーションからそのDBを操作できるという思想、つまりはアプリケーションの連携という思想を提示しました。もちろん、Newtonも物好きのためのものであったという面は否定できません。結構な値がしましたし。Newtonの日本語版であるシャープのガリレオが試作品で終ったのは残念ですね。昔、新宿のNewton Shopで試作品が飾られてるのを見ましたが。Newtonと、HPやTIの電卓、そしてポケコンとの違いは、何よりもUIに関しての思想でした。AppleのMacintoshのUIの思想を受け継いでいたと言えるでしょう。

 Palmは、Newtonと時期がそれなりに重なっており、提示する思想も似ていました。ただ「もっとシンプルに」という思想を提示していました。


 ここで、少し別の方向を見てみましょう。Mac OS X, iOS, ANDROIDには当然unixの思想も入っています。だって、OS XはBSD Unixを基本にしてますし、iOSはそのOS Xを元にしています。ANDROIDもLinuxを基本にしており、Linuxはunixを参考にしています。

 unixの思想はコンパクトであることと、ファイルシステム・メタファーの応用が言われるかと思います。それらは、直接ではないとしてもコマンドライン、あるいはshellのインタフェースにも影響を与えているでしょう。そのshellによっては――shell自体な何種類もありますが――、プログラムの組合せによって新しい機能を構築するという文化が構築されました。手元にlinuxでもあったら、例えば "/usr/bin" のディレクトリでも覗いてみてください。 "[" という、謎の名前の実行可能ファイルが見付かるかもしれません。これはコマンドラインやシェルスクリプトそのものも、シェル自身が持っている機能を使うだけではなく、外部プログラムも組み合わせて使うためです。

 unixは、先に開発が進められていたmulticsに、結果的に対抗するように始まった個人的なプロジェクトでした。また、C言語を設計し、OSの機能の多くをC言語という高水準言語によって記述するという試みでもありました。高水準言語によって多くが記述されていることから、様々な機種への移植が容易だったこともあり、広く使われるようになりました。

 また、unixをさらに整理し、教材用に構築が始まったminixがあります。そして、それを参考に勉強のために作られ始めたlinuxは、GNUプロジェクトにおいて既に書かれていた多くのアプリケーションと共に、現在多くのディストリビューションとして配布されています。それらのディストリビューションではGUIが基本となっており、その皮を一枚剥がしたところにあるものは見え難いかもしれません。

 multicsに対するシンプルさという思想は、今も命脈を保っています。


 そして現在、スマートフォンがあり、タブレットがあります。それらは革命的な物でも革新的な物でもなく、生き続けた思想から当然のものとして生まれた物です。ここで重要なのは、何かそれそのものが生き続けたわけではないということです。生き続けたのは思想です。

 さらに言うなら、生き続けたのは実は思想でもありません。いうなら、メタ思想こそが生き続けた思想です。

 思想は変わります。変わらなければ生き続けられません。ですが、メタ思想はなかなか変わらない。思想そのものは枝葉であり、メタ思想が幹です。あるメタ思想から、異なるいくつかの思想が現われるかもしれません。ですが、それらの思想は実のところ幹に繋がっていることがわかるのです。

 メタ思想が変わることもあります。科学、技術、思想のブレーク・スルーです。そしてメタ思想が変化したり、あるいは古いメタ思想が打ち捨てられたとしても、そのメタ思想が存在したこと自体は忘れ去られることはありません。個人的には忘れてしまうこともあるでしょう。ですが歴史としては忘れ去られることはありません。

 ですが、周りを見回すと、創作の中であっても現実であっても、思想すら見せられることなく、メタ思想など理解の範囲外になってしまっているように思います。


 この点において、個別の、あるいは具体的なガジェットの無意味さ、不毛さを述べておきたいと思います。そのために、ガラケー、あるいはフィーチャーフォンと、スマートフォンを考えてみましょう。スマートフォンとガラケーはそんなに違うものでしょうか? 例えば、リモートにある計算資源をガラケーから使い、リモートの画面をガラケーに飛ばしたとしたら? スマートフォンにできてガラケーにできないことは何があるのでしょうか? 物を見るというのはそういうことです。しかし、技術を見せられたのなら、両者に何の違いがあるでしょうか。

 あるいは、こう言いましょう。思想を見せられていないのであれば、それはあなたにとってはただの魔法なのです。クラークが言ったように、あなたは既に魔法の世界に住んでいるのです。魔法の世界に住んでいるあなたに、SciFiを読むことができるでしょうか。魔法の世界に住んでいるあなたに、SciFiを書くことができるでしょうか。思想も科学も技術も魔法であるあなたに、それらが可能でしょうか。

 可能ではないからこそ、様々なガジェットを出すことでSF(それが何なのかは知りませんが)だと思い、SciFiであると思い、そう主張するのです。

 ですが、「SFってなんなんだろう?」のシリーズで書いていますが、ガジェットはその存在によって作品をSF(それが何なのかは知りませんが)にするわけではありません。ましてやSciFiにするわけではありません。


 さて、このように思想を背景にして見た場合、SF(それが何なのかは知りませんが)やSciFiにおけるガジェットは三つに分けることができます。

 一つめは、「ただのガジェット」です。ちょっとした小道具です。小道具とは言っても影響の大きさとして見た場合の話であって、物語内世界においては物理的には大きいかもしれません。ただそれっぽさを出すだけのものです。

 二つめは、「舞台を作るガジェット」です。これは舞台を作るためには必要ですが、その舞台で何が起こるのかについては必要のないものです。舞台を作るガジェットを使うからこそ、これこれのことが起こるという場合もあるでしょう。ですが「これこれのこと」のエッセンスを見た場合にそのガジェットが必要かというと、まず間違いなく不要です。もちろんそのガジェットを使わないとすれば、舞台そのものが崩壊するかもしれません。ですが、書きたい「これこれのこと」にとってそのガジェットはなくてもかまわないのですから、舞台そのものが崩壊したって問題ではありません。そして、書きたいこと、つまり「これこれのこと」とは大して関係ないのですから、「ただのガジェット」の延長線上に存在するものです。

 三つめは、「思想そのものであるガジェット」です。これは作品そのものを作る思想でありガジェットです。それがなくなったら、その作品そのものを書けなくなる、あるいは書く意味がなくなるガジェットです。他のガジェットで置き換えることもできません。置き換えられるのだとしたら、それは「思想そのもの」ではないからです。置き換えを考慮した結果、もっと根本にある「思想」に行き着くかもしれません。だとしても、そのガジェットが「思想そのもの」ではないことに違いはありません。

 たとえば、作の構想中において、スマートフォンがどうしても必要なガジェットだと考えていたとしましょう。ですが、それはガラケーで置き換えることはできないでしょうか。上に書いたようにリモートの計算資源を使うのだとしたら、あるいは膨大な計算資源を持ち歩けることが重要なのだとしたら、スマートフォンである必要はありません。作品内でガラケーを使えと言っているわけではありません。スマートフォンは三つめのガジェットではなく、二つめのガジェットであるということです。これを三つめのガジェットにするためには、「それはまさに何なのか」という思想が必要です。あるいは、では体内に埋め込んだり、あるいはナノマシンを使えばいいのかというと、それも違います。リモートの計算資源を使う、あるいは膨大な計算資源を持ち歩けることが重要なのだとしたら、スマートフォンである必要はないのと同じ理由で、体内に埋め込みやナノマシンである必要はありません。それらによって思想を書こうと思うのであれば、「それこそがまさにそれである」というガジェットに到達する必要があります。

 さて、SF(それが何かは知りませんが)やSciFiではいろいろな「冒険」が描かれることでしょう。その冒険を成り立たせるために様々なガジェットが登場するでしょう。ではそれらのガジェットは三つのうちのどれでしょうか。ある冒険を描くためにあるガジェットが必要だったとしたら、そのガジェットは三つのうちのどれなのでしょうか。

 「冒険」を描きたいために出したガジェットなら、それは二つめのものです。なぜなら、その冒険が特殊な冒険であったとしても、描きたいのは冒険であるでしょうし、その冒険の舞台を作るためのガジェットだからです。それが作品内でどれほど重要だとしても、舞台を作るために必要なガジェットに過ぎないのです。

 例えば、今どき、脳と外の計算資源を繋げるガジェットというのは珍しくありません。では、そのガジェットを出して、何を書くのでしょうか。青春? 恋愛? 冒険? OK。なら、そのガジェットは舞台を作るガジェットであり、書きたいことは青春であり、恋愛であり、冒険であるということでしょう。ならば、それはSciFiではなく、SF(それが何であれ)ですらなく、青春の物語であり、恋愛の物語であり、冒険の物語ということです。はい、SciFiからもSF(それが何であれ)からもさようなら。

 もちろん三種類のガジェットはどれもそれぞれの役割として必要なものです。ですが、二つめと三つめの間には、おそらく想像以上の隔りがあるのでしょう。その隔りを越えなければ、SciFi作品ではないだろうと思います。そしてその隔りを越えていない作品が多いように思います。


 思想について更に言うなら、SciFiを読んだりしていると、たまに出くわす評があります。「この作品は未来を予見していた」というようなものです。何らかのガジェットによって、それが物であれ社会システムであれ、「この作品は未来を予見していた」というようなものです。

 多くの場合、その評は的外れです。

 例えば、ニコラス・ネグロポンテによる研究は、実際に実用になっているようなものや試作されたものを通して、未来を見てきたと評されることがあります。ネグロポンテ自身もそのように言います。ですが、ネグロポンテが未来を覗いて来たのかというと、それは違います。

 では、なんでネグロポンテが考えたものが現れたり、SciFiに描かれたものが現れたりするのでしょうか。簡単なことで、「うお! すげぇ!」と思った人がいるからです。「これ、きまるわぁ!」と思った人がいるからです。もう印象に残って消えない。もう、それができるんだってわかってしまっているから、やらずにはいられない。そういう人を生み出したから、実現してるのです。

 ネグロポンテはグラス型デバイスも試みていました。しかし、それは上にも書いたように、「ただの低品質なディスプレイ」にすぎませんでした。少なくともそのグラス型デバイスを見ただけでは。G社が試作したグラス型デバイスは、ネグロポンテの研究室で試された、一つのシステム全体をグラスに詰め込んだものです。当時は、計算機を腰に下げたり背負ったりして、ディスプレイだけグラス型のものだったりしました。しかし、その未来を見せられた人間にとっては、その実現の一つとして、グラス単体で充分な計算資源を持つだろうとわかります。その未来を見せられてしまうのです。

 そのように、見せられた人が、その思想を引き継いで実現しているにすぎません。「未来を予見していた」というような魔法はどこにもありません。

 言いだしっぺと、結果だけを見ると、言いだしっぺは未来を見たかのように思えるかもしれません。あるいは、そもそも言いだしっぺの存在を知らなければ、あるガジェットは革新的であり、革命的であると見えてしまうかもしれません。しかし、それは多くの場合、そう感じた人に知識が不足しているだけのことです。

 もっとも、そうやって未来を見せられると、「あの未来はまだなのか」となったりもしますが。これは正直、辛いですね。そして、現われたガジェットに対して革新的というような評がなされるのを見るのも辛いことです。人間に受け入れられる概念の変化がどれほど遅いのかを見せ付けられることですから。そして、人間がどれほど「馬鹿前提」なのかを思い知らされることでもありますから。


 さて、研究の世界には「一歩先では遠すぎる」という言葉があるそうです。一歩先では「うお! すげぇ!」とかと思える人間が少なくなってしまう。ですが、逆に、20分先の未来を見て、100年先を見ることができる人もいます。そのあたりは、まぁ、縁とか運とかタイミングとか組み合わせみたいなものもありますが。

 ネグロポンテの当時の研究は、一歩先を超えていたと思います。ですが、たまたま、それが何なのかを知ることができる人々がいたという幸運に恵まれました。


 このあたりでこの稿は〆めましょう。何が言いたいかというと、SciFiを書く場合、目の前にある技術をよく見てほしいということです。それは突然現れたものでもなく、ただ、誰かが誰かに「うお! すげぇ!」と思わせたからこそ、その思想があるからこそ、そこにあるのです。SF(それが何であれ)に不思議技術を盛り込むのもいいでしょう。不思議社会システムを盛り込むのもいいでしょう。

 ですが、SciFiに必要なのは、これまでの5,000年を知っていて、これからの100年を知っていることです。

 これからの100年を知るには、どこであれ、何であれ、目の前にあるものをみつめてください。それが何なのかをよく考えてください。そこから100年先が語りかけているはずです。そして、目の前にあるものをみつめるためには、知識が前提となります。5,000年、あるいは30,000年を通して培われた知識が前提となります。そこには、誤った知識もあり、失敗した何かもあります。ですが、それらも含めて知っていてこそ、目の前にある何かが、何であるのかを見せられるのです。

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