Ending Phase 1 ~早宮詩織~

 早宮詩織は兄の俊雄のマンションを訪ねた。勝手知ったる兄の部屋なので、特にアポイントを取るようなことはしない。

 ジャーナリストという仕事柄、ロクな食事を摂らない兄に好物のシチューを振る舞ってやる――その材料費という名目で、多少のお小遣いをもらうのが一番の目的だったが、お世辞でも兄が「美味い」と言ってくれるのが彼女には嬉しかった。

「お兄ちゃん、来たよー」

 合鍵で玄関を開けて、適当に靴を脱ぐ。通っている大学の近くで買ってきた材料と、前に買っておいた冷凍食品があれば、それなりの物が出来るだろう。白米は母が仕送りしたのが残ってたはずだ。献立を頭の中で組み立てながらリビングに入った彼女を出迎えたのは――


 リビングのテーブルで、金髪の若い女性と談笑する兄の姿だった。兄は詩織を見るなり、上機嫌そうな顔で笑った。

「よお、詩織。来るんだったら連絡ぐらい入れろって言ってるだろ。迎えに行ってやったのに」

「あ……うん。ごめん。つい忘れちゃって――もしかして、仕事中だった?」

「仕事――と言えば、まあ仕事かな」

 何故か歯切れの悪い兄を訝しみながら、詩織は買い物袋を台所に置きに行く。

 テーブルを挟んで座っていた金髪の女性は、詩織が知る限りの兄の交友関係では見たことのない人物だった。外国人だろうか。透き通るような金髪は艷やかで、日本人とは異なる肌の白さは、まるで絵本のシンデレラのようだった。

 買ってきた野菜を冷蔵庫にしまうと詩織はリビングに顔だけ出して、兄と見慣れぬ来客の手元を確認した。案の定、茶の一杯も出てはいないではないか。ジャーナリストのくせに気の利かない兄め、と胸中でダメ出しを投げつけて、詩織はインスタントコーヒーを三人分淹れてリビングに戻った。

 先に兄にコーヒーを差し出し、次いで客人に差し出す。熱いので気をつけて、と英語では何というのだったか――普段、使い慣れない外国語を思い出そうと詩織が四苦八苦していると、金髪の女性は流暢なイントネーションで「ありがとうございます」と礼を返した。

「紹介するよ。記者仲間のアマンダさんだ」

 彼女は詩織に軽く会釈すると完璧な日本語で微笑んだ。

「お邪魔しています。私、グランド・トラベル・ユニバーサル・ジャーナル社のアマンダ・優子・ロイドと申します。今日は俊雄さん……あ、いえ、早宮さんと個人的な用件でお話に参りましたので」

「えっと、アマンダさんと知り合ったのは先月の取材先で――彼女、カナダの旅行雑誌の記者なんだよ。日本のことをたくさん勉強していてね。今度特集でカナダ在住の人たち向けに日本のトラベルガイドを作ることになって、それで日本の穴場的な観光地を知りたいって言うから案内しているんだ」

「……兄さんの部屋が観光地になるとは思えないんだけど」

 だらしなく相好を崩す兄に冷ややかな、そして少し寂しさを感じながら、詩織は苦笑した。だが、しかたない事だろう。女性の詩織でさえアマンダは可愛らしい女性に見えたし、庇護欲とでも言うのだろうか、彼女を助けてあげたいという欲求が湧き上がってくる。

 だが同時に、アマンダには初対面にもかかわらず、強い親近感を覚えている。まるで古くからの幼なじみに再会したような、不思議な感覚。波長が合うというのは、このような気分かもしれない。知らない人間が兄の部屋に――パーソナルスペースに近しい家族の部屋にいるというのに、詩織は

「俊雄さん、いつも妹さんの話ばかりするんですよ。それはもう、ちょっと嫉妬してしまうくらいに」

「あー……恥ずかしい兄で本当にごめんなさい。アマンダさん、美人だし。兄は昔からモテたことがないから、女の子と楽しく話す時のネタがないんですよ。何だか難しい事件のネタとかは、いつも追いかけてるくせに」

「おいおい。俺が追ってるのは厄種ヤクネタが多いんだ。裏付けなしで、おいそれと話せるようなもんじゃないんだよ」

「うちの市内で変な麻薬が出回ってる、って噂話でしょ? 女子高生が駅裏のクラブでガラの悪いのに売りつけられた――とか聞いたけど、あそこのクラブって何年か前に潰れてるし、眉唾ものじゃない?」

「おいおい。アマンダさんに日本の暗部を教えるんじゃないぞ、不良大学生」

「あら。いいじゃないですか、私は興味ありますよ」

 兄は呆れたように嘆息したが、逆にアマンダは身を乗り出した。

「観光名所だけではトラベルガイドにはなりません。旅する中で、危険な場所に近づかせないのも重要な役割です。ですから……詩織さん」

 アマンダは詩織に向き直り、にこやかに微笑んだ。





 ――気がつけば早宮詩織は、旅行用のスーツケースを引きずりながら、羽田空港の到着ロビーを出たところだった。

「あ、あれ――?」

 何で、私はここにいるのだろう。さっきまで兄のマンションにいて、金髪の――違う、黒髪の――ううん。そうじゃない――さっきまで居たのは飛行機の中だ。私は先週、兄のマンションに行って、急遽取材旅行に出かける兄に誘われて、一緒にカナダへ旅行してきたのだ。

 ――違う。そんなはずない。

 ――違わない。トロントで買ったお土産も、モントリオールのノートルダム聖堂で取った写真データが入ったスマホも持っている。無いのは実感だ。記憶と実感が結びついていない。

 混乱する詩織の隣には、同じようなスーツケースと取材用のバッグを抱えた兄が、訝しげな視線を向けている。

「おい。どうした? 時差ボケでも酷いのか?」

「えっ? あ、ううん。何でもないよ……」

 頭を振って、詩織は押し黙った。こんなことを兄に言っても心配されるだけだろう。もしかしたら一週間ぶりに吸う日本の空気が懐かしかったから、海外に居たことを脳が忘れているのかもしれない。

「あー、そういえば大学、一週間分休んじゃったんだよねえ……」

 大学という日常生活を思い浮かべた詩織は、深い溜息をついた。旅行から帰ってきたとばかりだというのに気分が落ち込んでくるが、気持ちを切り替えよう。まずは友人たちにノートを借りなければ。そのために買った土産物のチョコレートもあるのだ。スマホを取り出して詩織はSNSアプリを開く。何件か未読の通知が来ていた――そう言えば、向こうに行っていた間はSNSアプリを開かなかったな――が、親しい友人たちに帰国を伝え、ついでに本題の授業ノートのレンタルを申し込む。

 そうやって何名かの友人にチャットを送った後、詩織はアプリのアドレス帳に載っていた名前に目を留めた。

「高垣くん……?」

 電話帳の方に入っていた登録データをSNSアプリが拾い上げていたのだろう。高校時代のクラスメイトの名は、詩織にどことなく懐かしさを感じさせていた。

「懐かしいな……」

 自分と同じ大学を志願していた少年で、詩織からすると話しかけやすい雰囲気を持っていた。きっと、兄に似ていたからだろう。大学のパンフレットを見ながら、志望する学部のことを話したりしたのは良い思い出だった。試験日の前日に交換した、この電話番号は結局、今の今まで使われたこともなかった。

「……高垣くん、うちの大学受かったのかな」

 受験票を破り捨てて、次は頑張るよ――と笑っていた彼の姿を思い出す。努力家の彼のことだから、もしかしたらウチよりも上のランクの大学に行ってしまったかもしれない。

「きっと、そうだよね」

 夏休みにでも入って大学の授業が一段落したら、この番号に電話をかけてみるのも悪くないかもしれない。それこそ、自分が幹事になって同窓会を開いてみるのも悪くない。

 詩織はスマートフォンをポケットにしまいこんで、地元行きのバス停に並ぶ兄の元へ足早に向かった。

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