Climax Phase ~裏切者~
頭蓋を粉砕された衝撃に、カルキノスは眼を覚まして飛び跳ねるように身体を起こした。
「――ッ!? こ、ここは――」
視界がぼやけている。潰されたはずの頭が二日酔いめいた重さと痛みを訴えている。立ち上がろうとするが重度の貧血を起こしたかのごとく、足元がおぼつかず、思わず膝を突いてしまう。
「なんだ。何が、何が起きた――」
握っていたはずのナイフが無い。慌てて腰に手をやると、愛用のナイフは鞘の中に収まったままだった。それどころか、あれだけ雨に打たれていたはずの身体は、一滴たりとも濡れておらず――しかし、正体不明の悪寒だけが全身を震わせている。
「ここは……」
薄闇と揺れる視界に眼が慣れてきたのだろう。割れた窓ガラスから差し込んでくるのは街路灯の明かりか。鼻孔を突くのは雨水を吸った床からは独特のカビ臭さ。見覚えのある廃墟。
「……まさか、目を覚ますなんてね。流石に二度も仕掛けていたら耐性が出来ていても仕方ないか」
「お前は――」
カルキノスは絶句し、息を呑んだ。
閉鎖されたガソリンスタンドの、廃屋となった事務所の机に腰掛けて、灰白色のインバネスコートを羽織った女は、計算外だったと言わんばかりに肩をすくめていた。
「
矢継ぎ早に問いかけるカルキノスに、ベントリロクエストは鼻を鳴らした。
「早宮詩織なら、今頃国外よ。あんたらクソどもの手の届かない安全なところで保護されているわ」
「なんだと……お前、一体何を言っているッ!」
ベントリロクエストの口から予想すらしていなかった言葉を聞かされ、カルキノスは混乱を露わにする。底意地の悪い笑みを浮かべたまま、ベントリロクエストは机から降りた。
「懐かしい同級生に会えたご感想はいかがかしら、高垣誠司くん?」
「ど、どうして俺の名を……」
「私の調査能力を舐めないことね。あんたら《
「先回り、だと……? まさか、俺たちに協力するふりをして、標的を逃がしたというのか!」
「三割当たり。七割ハズレよ」
ベントリロクエストは出来の悪い生徒を小馬鹿にする教師のように嗤った。
「ジャーナリスト早宮俊雄が《乱痴気騒ぎ》セルにとって不都合な
「馬鹿な! 早宮俊雄は、俺が殺した。殺したはずだ!」
「死んでないわよ。早宮俊雄も早宮詩織と一緒に国外で安全に過ごしているわ」
「それじゃあ、俺が殺したのは――」
「
無慈悲に断じるベントリロクエストに、再びカルキノスは絶句する。早宮俊雄の胸をナイフが貫く感触。犠牲者の肉体から生命が抜け落ちていく呼吸音。ありありと思い出せる、それら全てが幻覚だったというのか。
「種明かしをするとね、私が生成した幻覚剤を吸った貴方に『早宮俊雄の殺害現場を、早宮詩織に見られた』と暗示を刷り込んだのよ、あの早宮俊雄の部屋で。それで警察無線や裏社会の情報網に偽の情報を流して、インシナレイターが《
ここまで上手くいくとは思わなかったけどね、とベントリロクエストは愛嬌を振りまくように片目を瞑ってみせたが、カルキノスの背筋にはおぞましいほどの寒気が走っていた。カルキノスが知る限り、工作員として一流であるはずのインシナレイターを、この女は手玉に取ってみせたのだ。
「――ッ! インシナレイター! デルゲット!」
慌ててカルキノスは仲間のコードネームを呼んだ。覚えているかぎり――幻覚ではないと信じたい――この廃屋には、自分を含めてインシナレイターとデルゲットの三人で入ったはずだ。もし、自分と同じく幻覚を見て眠らされているのであれば、今すぐ叩き起こして――
「無駄よ。その二人が目覚めることは、永遠に無いわ」
カルキノスの思惑を見透かしたように、ベントリロクエストは視線を床に落とした。彼女の足元には、自分の喉を引き裂いて絶命したデルゲットと、左胸を焼き貫いて果てたインシナレイターの死体が転がっていた。
「さっき――ああ、実際の時間は三十分も経ってないわ――山荘の見取り図を、ここで見せたでしょ? その時に貴方たちに暗示をかけさせてもらったわ。この山荘に行って標的に返り討ちに遭うってシナリオでね。幻覚剤が撒かれてるって気づかれないようにカビの臭いで誤魔化したから、全然分からなかったでしょう?」
「一体、何のつもりだ……ッ! 何が目的だ!」
カルキノスは身体の震えを無視して、腰のナイフを引き抜いた。カタカタと震える切っ先を、ベントリロクエストはつまらなさそうに――あの幻覚の中で見せた表情と同じ――道端に転がる潰れた虫でも見るような冷めた眼差しをカルキノスへ向けた。
「目的? 決まってるじゃない、そんなこと。貴様ら
「そんな馬鹿な! UGNだと!?」
耳を疑う言葉にカルキノスは絶叫した。インシナレイターが語ったベントリロクエストという女の悪名は、殺戮者の彼でさえ悪趣味と言い切れる凄惨なものだった。
だがもしも、その全てが真実ではないのだとすれば――
「この、
カルキノスは全身をバネのようにしならせ、弾丸のように飛び出した。右のナイフと同時に左腕を死角から仕掛けるカルキノスの得意技だ。幻覚の中では早宮詩織を仕留め損なったが、現実ならば目の前の
「――
だが、左右のナイフがベントリロクエストに突き刺さるよりも速く、彼女の言葉がカルキノスの身体を貫いていた。二本のナイフは、彼女の肌の1センチ手前で停止した。驚愕にカルキノスの顔が歪む。彼は何かを口走ろうとしたのだろうが、唇から漏れたのは音にならない呼気だけだ。
「甘く見られたものね。暗示は二重三重に仕掛けておくものよ」
ベントリロクエストはゆっくりと刃の包囲網を抜け出すと、彫像のように固まったカルキノスの耳元に優しく囁く。
「残された時間で、自分が殺した人々に懺悔なさい」
彼女はカルキノスに告げると、悠々とした足取りで廃墟を後にした。
ベントリロクエストが出て行って間もなく、カルキノスは両手のナイフで自分の両目を突き刺し、祈りを捧げるように跪いた姿勢で絶命した。
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