Middle Phase 7 ~高脚蟹~
インシナレイターとの通信が途絶えてから、一分と経過していないだろう。疎雨の降る林の中、左胸を破壊されて苦悶の形相で事切れた男を見下ろしながら、カルキノスは脊髄が冷えていく不快感を味わっていた。
「……参ったわね、これ」
隣で肩をすくめていたベントリロクエストが、コートのポケットからスマートフォンを取り出し、液晶に指を滑らせた。
「何をしている?」
「見れば分かるでしょ。電話してんの。依頼人が死んじゃったんだもの。後払い分の報酬が出るかどうか、うちのセル――《
インカムを外してスマートフォンを耳に当て、ベントリロクエストは電話口の向こうの相手にため息混じりの愚痴をぶつけていた。
「この期に及んで金の心配か……ッ!」
「当たり前じゃない。私は傭兵よ。よく言うでしょう? 『金の切れ目が縁の切れ目』って、ね?」
「ふざけたことを――!」
カルキノスは苛立ちに声を荒げ、ナイフの切っ先をベントリロクエストの鼻先に突きつけた。
「ハッ! ふざけてんのは、どっちよ」
ベントリロクエストは眼前に迫った刃をつまらなそうに見やり、そして道端に転がる潰れた虫でも見るような冷めた視線をカルキノスへと返した。
「ナイフを向ける相手を間違えてるわよ、糞ガキ。貴方は、貴方のセルの任務を遂行するのが第一でしょうが。だったら、さっさとあの標的を追いかけるのが賢明じゃなくて? それとも、この雨が降って寒々しい林の中で、この私と
己の能力に絶大な自信を有しているのだろう。ベントリロクエストの言葉には揺らぎがない。おそらく喉を切り裂いても、この女は喋り続けるだろう。直感めいたものを胸に抱いてカルキノスはナイフを収めた。
「ちなみに大正解は――あの小娘を追いかけることよ」
「……言われるまでもない」
背後で電話を続ける女を警戒しつつ、カルキノスはインシナレイターだったモノの周囲を注意深く観察した。
インシナレイターの死因は心臓を握り潰されたことによるショック死だろう。驚愕の表情と吐き出した血に固まった死に顔は、長い付き合いのあるカルキノスでさえインシナレイター本人と理解するのに数秒を要した。
「……血が少ないな」
心臓という器官は常に一定量の血液を全身に送るポンプだ。これを握り潰されたなら――たとえ、この雨だったとしても、周囲はもっと血で汚れるはずだ。可能性は二つある。標的が大量の返り血を浴びているか――
「ブラム=ストーカー・シンドローム……」
かの吸血伯爵を生み出した大作家の名を冠するシンドロームに発症したオーヴァードは、自分の血液や体液を自在に操ったり、殺した相手の血を啜って肉体を修復する特性を持っている。そして、おそらくはキュマイラ・シンドロームも併発しているだろう。デルゲットと同じ――カルキノスの持つシンドロームとは真逆の、肉体そのものを戦闘生物として変質させる文字通りの怪物。
「オーケイ、分かったわ。分かったわよ……」
ベントリロクエストが大げさな仕草で天を仰ぐ。電話口の向こうの相手に見えるはずも無いのに、腹立たしそうに肩を怒らせて足元の土を蹴った。彼女はスマートフォンをしまうと、カルキノスの顔を見て嘆息した。
「ったく、今日の依頼人は用意周到ね。全額、口座に振り込み済み。楽な仕事だと思って先払いしてくれたんだろうけど、余計なお世話よね。というわけで、私も仕事が終わるまで帰れない」
ブラックな
インシナレイターが彼女を『扱いにくい女』と評した理由を今更ながらに痛感する。確かに、この女エージェントはオーヴァードとしても傭兵としても一流なのだろうが、この女にしてみれば、カルキノスもデルゲットもインシナレイターも、おそらくは標的の早宮詩織でさえ、ベントリロクエストにはどうでも良い存在なのだ。
久しく感じたことのない不快感が、カルキノスの殺戮に
「貴様の助けなどいらん」
カルキノスは早宮詩織が逃げたであろう方角を見据えて吐き捨てた。
「あの女は俺が殺す。俺がケジメをつける。お前なんぞには渡さない」
「……あら、そう? それは楽が出来て嬉しいんだけど、こっちも仕事しないと査定に響くのよねえ」
「知ったことか」
不満げに口を尖らせるベントリロクエストを置き去りにして、カルキノスは全速力で駆け出した。
追跡は、さほど苦ではなかった。
インシナレイターのものらしき血の匂いを辿って走れば、ぬかるみを踏んだ靴跡や潰れた草の葉、折れた低木の細枝などの真新しい痕跡が残っている。追手を撒くべく林の中をジグザグに走っているようだが、それは逆効果だ。カルキノスはほくそ笑んだ。戦闘訓練を積んだ相手でないのなら追いつくのは容易だ。
「殺す。殺す。殺す――」
気分が高揚する。鼓動が速い。
「早宮、詩織――」
倒木によってできた
「……高垣くん、だよね」
彼女は振り返り、カルキノスを見た。死病に冒され、絶望したホスピス患者のような昏い眼差しに高校時代の面影が重なり、カルキノスは舌打ちした。
「高垣くん、なんだよね?」
「違う。俺は、
地を這うような低い姿勢でカルキノスは飛び出した。純粋な腕力であればデルゲットの方が上だし、攻撃力の高さで言えばインシナレイターに及ばない。だが、カルキノスの殺人技術は、速さと柔軟さと天性のセンスによって構築された芸術だ。
エグザイルシンドローム特有の、人体の構造では考えられない角度から襲いかかる斬撃は、しかし横合いから打ち付けられた一打によって阻まれる。彼女が反射的に繰り出した右腕は、
(やはり、ブラム・ストーカーとキュマイラの
内心で舌を巻きつつ、彼女の右腕を蹴って距離を取る。数瞬遅れてカルキノスの頭があった場所を、同じく瘡蓋の鎧に包まれた左腕が空を切る。再びカルキノスは弾丸のように飛び出し、右手のナイフで斬りかかる――しかしこれはフェイントだ。本命は左腕。右のナイフを突き出すと同時に、軟体化した左腕とナイフを視界の外から叩きつける。多くの敵を屠ってきた必殺の斬撃だった。
「高垣くん――」
「――ッ!?」
右のナイフが受け止められ、延髄を狙った左のナイフも弾かれる。
カルキノスは戸惑った。両親を殺した時も、予備校で隣りに座っただけの少女を殺害した時も、インシナレイターの手駒として殺戮を繰り広げてきた今でも、彼の精神が揺らぐことなど――ましてや、彼女の声に動揺して致命打を外すなどあり得ない。
「馬鹿な!」
怒りのままにナイフを振るう。しかし、集中の乱れた雑な剣閃は容易く弾かれる。それでもカルキノスはナイフを振り回す。速度を上げて避けようのない連撃を叩き込む。ガリガリと硬い岩でも削ったような音が鳴る。浅い。致命傷にはならない。
「お前は――」
「……覚えてる? 高校の時の、進路説明会のこと」
ナイフを受け止めながら彼女は悲しげに微笑んだ。
忘れようもない。早宮詩織は彼の隣の席で、その大学を目指しているのは自分と彼女だけだった。どこの学部にするのか、合格したら何のサークルに入るか、他愛のないことを話したはずだ。他のクラスメイトの顔なんて、もうとっくの昔に霞がかって思い出せやしないというのに、彼女の笑顔だけが鮮明に思い出せる。
ああ、きっと俺は――
大学説明のパンフレットを見ながら彼女は言った。
高垣くんって放送部だったよね。報道の仕事とか興味あるの?
きっと俺は――
彼女は照れ隠しに笑った。
実はうちの兄貴がフリーでジャーナリストやってて――
あの時の――
窓の外の夕焼け空を、早宮詩織は遠く見つめていた。
私も、そういうのになりたいなーって思うから――
あの時の彼女のことを――
詩織は穏やかな笑顔を誠司に向けていた。
ね、高垣くん。一緒の学部受け――
殺したい、と思っていたのだ。
「ああ、そうだ! そうだとも!」
カルキノスは声を張り上げてナイフを振り下ろした。怨嗟に満ちた声が雨と闇の中に反響する。
「早宮ァ! 殺してやる! バラバラにしてやる! ずっとずっと思ってた! 想い描いていた! お前の胸にナイフを突き立てて! 引き裂いて! そのすました顔が恐怖と苦痛に染まるのを! ずっと! ずっと見たかった! 俺は! お前のせいで! 大学に落ちたんだ! なのに、お前だけ受かりやがった! 俺がどんな惨めな思いをしたか! 俺は生まれ変わったんだ! 小言を言う親も! クソったれな世界も! ブッ殺せる超人になったんだ! なのに、今更、俺を――『高垣誠司』を呼び戻すなぁあああああッ!」
まるで腐臭を放つ煮えた汚泥が噴き出るように、彼の殺意がナイフを振るうごとに吐き出されてゆく。彼が胸の中に溜め込んでいた全ての想いは、泣き笑いじみた叫びとともに林の中を響き渡り――
振り下ろされた鉤爪の一撃が、彼の意識を断ち切った。
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